第13話 水斗 大学2年生 7月その1
「じゃあ、速水くん。お疲れ様」
「お疲れ様。塩義さん」
肩上で切り揃えられた横髪を揺らしながら、塩義さんはいつものように凛とした足取りで歩いていく。
塩義さんは変わった。
髪を胸元まであったロングから肩上のボブへとばっさり切ったこともそうだが、それ以上に内側が変わった気がする。
以前よりも喜怒哀楽が少なくなって、表情がずっと静かになった気がするのだ。
そんな彼女の変化の起因は、俺の知らない場所で、俺の知らない誰かと過ごした時間にあるように思えてならない。
俺の知らない塩義さんがいて、俺の知らない表情を引き出す誰かがいる。
そんな予感が胸の奥に負の感情を生み沈殿させていく。この感情を払拭させるために、声をかけて確かめればいいのに、俺はただ遠ざかっていく塩義さんの背中を見つめることしかできない。
──もう一度でいい。あの笑顔を俺だけに向けてほしい。そしてこの負の感情を晴らしてほしい
遠ざかっていく塩義さんの背中に願うことだけしかできない。言葉にして望むことは禁忌なのだとわきまえているからだ。
「愛衣ちゃんちゅきちゅき水斗くんめーっけ」
耳元で突然囁かれ、肩がびくりと跳ね上がる。
反射的に振り返ると、いたずらが成功した子どもみたいな笑顔で手を振る櫻木先輩が視界に入った。
「やほやほー」
「櫻木先輩…これ以上からかうのはやめてください」
「からかってないやん。水斗くんの本心を代弁してあげただけやん」
「それをからかうって言うんですよ」
いつからか櫻木先輩は俺と塩義さんを下の名前で呼ぶようになっていた。
「そういえば、新歓の時も思ったんですけど」
「んー?」
「櫻木先輩、本当に看護学部なんですか?」
「なんやそれ」
櫻木先輩は吹き出す。
「ちゃんと看護学部やで」
「じゃあなんでこんな頻繁にこっちのキャンパスにいるんです?」
「おったらあかんの?」
「いや、そういうわけじゃなくて……」
「迷惑なん?」
そう言うなり、櫻木先輩は目元を指で拭う仕草をした。
「私って邪魔者先輩なんや」
「そんなこと言ってません」
「じゃあ何先輩?」
「何先輩ってなんですか」
呆れ笑いを溢した瞬間、突然俺の両頬を櫻木先輩の柔らかい手が包み込んだ。
甘い香水の匂いがふわりと鼻先をくすぐる中、視界は櫻木先輩へと固定され、楽しそうに笑い声を溢しながら大きな丸い瞳を細めた先輩がいっぱいに映る。
「なあ、水斗くんってさ」
甘い関西弁が耳元を溶かし、身体を麻痺させる。
「なんでそんな可愛いん?」
どくり、と心臓が跳ねる。そもそも近い。近すぎる。
「可愛いく…ないです…….」
「んーん。可愛い」
妖艶に微笑みながら小首を傾ける先輩のその一言が妙に熱を帯びて聞こえてしまう。
だが次の瞬間、周囲の学生たちがこちらを見て笑ったり、ひそひそと耳打ちしているのが目に入り、なんとか我に返った。
「櫻木先輩」
「ん?」
「ここ講義棟の廊下なんですけど」
「かまわへんやん」
「いや、俺はかまうのですが」
櫻木先輩はくすくすと肩を揺らした。
「まさか意識してくれてるん?」
「違います!周りに見られて……その、あまり注目を浴びたくない身としては……嫌というか」
「あー……愛衣ちゃんに『私とできてるー』みたいな噂が届いてほしくないから?」
「それは…まあ……そういう意味も……あります」
ふーん。とジト目を向けてきた櫻木先輩に、居心地が悪くなって目を逸らす。
だが次の瞬間、唐突に腕を掴まれた。
「ちょっ…なんですか?」
「水斗くん、デートしよか」
「は?」
あまりにも唐突な一言に思考が止まる。
「ちょっ、待ってくださいっ」
「ええからええから」
俺の困惑などお構いなしに、櫻木先輩は腕を引いて歩き出す。
気が乗らないのはもちろん、恐怖でしかない。だが下手に抵抗する気にもなれなかった。
何をされるかわからないからだ。新歓の時も櫻木先輩は突然、塩義さんの前で俺の好意を暴露した。悪い方向へは転ばなかったがそれはあくまで結果論だ。
今の塩義さんの心境はデリケートかもしれない。つまり波風を立てるのは良くない。
そんな状況にある塩義さんに、櫻木先輩が余計なことを吹き込めば、せっかく築き始めた『友達』という関係さえ壊れかねない。
俺は半ば人質を取られた気分のまま、櫻木先輩に手を引かれる。
そして辿り着いたのは、大学の裏手にある小さな公園だった。
「あそこ、見てみ」
櫻木先輩は公園の入り口にある木々の後ろに潜みながら指をさした。
先輩の指の先に視界を向けると、今まで大学内で別れた後、行方がわからなかった塩義さんがテーブル付きのベンチに座り、タブレットにペンを突き立てていた。
「いつも休み時間はここで漫画描いてるらしい」
「漫画?」
「そっ。てかさ、いくら図書館が混んでるとはいえ、こんな暑いとこで描かんでもいいやんね?」
まぁ確かに。と同情を誘うような苦笑いを櫻木先輩に披露しながらも、俺の頭の中では四月の新歓での塩義さんの言葉が再生されていた。
── ある分野でね、私は尊敬してる人と今一緒に大事を成すために革命を起こそうとしているの
塩義さんが言っていた大事が漫画を描くことだと理解した瞬間、俺の中から嫉妬や焦りと共にある疑問が浮かぶ。
──尊敬している人って、誰?
女性かはたまた男性か。いずれにせよ、俺の知らない塩義さんがいて、俺の知らない表情を引き出す誰かが塩義さんと漫画を描いている。
その事実が、最後の城壁を打ち砕くように、俺だけが塩義さんのあらゆる表情を知っているという驕りをはっきりと否定して、嫉妬の渦へと突き落とした。
──塩義さんを取られたくない。
そんな本音がはっきりと浮かび上がった。
「愛衣ちゃんラブなんやね」
唐突に横から飛んできた櫻木先輩の一言に肩をびくりと跳ね上がらせる。
「めっちゃ図星やん」
櫻木先輩が面白そうに口元を緩めていた。
もう放っておいてほしい。なのに先輩は立ち入らないでほしい場所へずんずんと土足で踏み込んでくる。その無遠慮さに苛立ちが込み上げてきた。いや、塩義さんに嫉妬や独占欲という間違った感情を抱く自分にもだが。
「別にいいでしょ……先輩には関係のないことです」
「んー、関係なくはないな」
「いや、意味がわからないのですが」
「てかさ……」
櫻木先輩の表情から笑みが消え、声色が変わる。
「水斗くんは愛衣ちゃんとほんまに付き合えると思ってるん?」
ざらりと心臓が毛羽立つ。
付き合えるなんて思っていない。思ってはいけない。そう自分に言い聞かせてきたのに、新歓以降の俺の心はよりたくさんの塩義さんとの思い出のピースで埋め尽くされていた。
それが美化された思い出だとしても、俺は確かに彼女をより近くに感じていた。
だから今のまま関係を上手く維持できれば、もっと近づけると思っている甘い自分がいる。甘い考えだと自覚している自分は確かにいる。
「恋人ではなくていいです。ただもっと近づけたら…って思います」
希望を込めた一言は櫻木先輩の首を傾けた。
「できるかな?」
「できます」
「確証はあるん?」
「俺は…俺たちは、最近、仲良いです」
「じゃあ、なんで声かけに行かんの?」
「塩義さんのプライベートに関わるなと言われてるので」
「それってさあ。一線引かれて、そのライン以下の友達止まりってことやん」
何も言い返せなかった。
挙げ句の果てには言葉が見つからず、無様に口を開いては閉じる俺を見て、櫻木先輩はふっと優しく笑う。
そして先輩は俺の手を取った。逃がさないと言わんばかりに、強く握る。
「私は水斗くんと一線を超えたい」
「えっ?」
「諦めきれへんかったってこと!」
理解が追いつかないまま、手を引かれ、気づけば顔がすぐ目の前にあった。
校内一の美人の顔が息がかかりそうな距離にある。
甘い香水の香りが鼻をくすぐり、思考が真っ白になる。
そして先輩は潤んだ瞳で俺を見つめながら、静かに囁いた。
「私は正直に言うけど、水斗くんのことが好き。大好き」
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