第12話 愛衣 大学2年生 6月その2
「八宮先輩…私と結婚を前提にお付き合いしてください」
八宮先輩の腰に腕を回し、細い身体を力いっぱい抱きしめる。
「愛衣…」
「先輩は……先輩は言ってましたよね。初めて出会ったあの日」
── 太宰大先生はその『斜陽』の中でこう言った。『人間は恋と革命のために生まれてきたのだ』と
「ようやく…見つけたんです。私の恋と革命を……」
八宮先輩を抱きしめた腕を解き、先輩の胸から顔を離す。
瞳を揺らしながら眉をひそめる先輩の顔が涙で滲んだ視界に映った。
それでも私は言った。
「私は、先輩と恋と革命をするために生まれたんです。それが私の歩むべき道だと、ようやく気づいたんです」
「愛衣…」
「その恋と革命を成すために……先輩、私は謝らなければならないことがあります。先輩に嘘をついていたことです。本当は、私、クリスマスの時から先輩のことが好きでした。いえ、今も大好きです」
私の告白に逡巡を見せた先輩は、小さく息を吐いて口を開く。
「愛衣、実は僕も聞いてほしいことがあるんだ」
けれど私は首を横に振った。
今から先輩が言おうとしていることが、私の告白に対する返事ではないとわかったから。
そして私がここで口を閉じて、先輩が話を進めてしまえば、その後、先輩はまた私を置いてどこかへ行ってしまう気がしたから。
何より私は、クリスマスの日に本当の気持ちを口にしなかったことをずっと後悔していた。
だから今回は、先輩の言葉を無視してでも伝えなければならないと思った。
「これからは先輩のために生きたいです。なんでもします。先輩が望むことはなんでも──」
「聞いてくれ!」
先輩は私の肩を力強く掴むと、私が話し出すよりも早くに口を開いた。
「僕はもう大事を成せないんだ!もう治らないんだ!」
初めて聞いた八宮先輩の大きな声。そんな声とともに告げられた言葉の意味が理解できなかった。
「治らないって……何が……ですか?」
しばらくの沈黙の後、先輩は噛み締めた下唇を緩め、言葉の意味をぽつりぽつりと説明し始めた。
「僕は…大病なんだ。発覚して今までの一年間、治療してきたが悪化してしまってね。もう手の施しようがないらしいんだ」
「悪い冗談……よね」
「黙っていて…ごめん」
「だから、冗談でしょ?」
祈るように呟いた言葉に、先輩は首を横に振って続けて言った。
「来年の夏まで生きていたらいいところらしいんだ……」
項垂れる八宮先輩に、いよいよ現実なんだと思い知らされる。
説明のしようがない絶望と衝撃が全身を駆け巡り、滝のように冷や汗が止まらなくなる。おまけに頭の中はスノーノイズが吹き荒み、何も考えれなくなってきた。
「先輩…私は……どうしたらいいんですか」
絶望と衝撃は途方もない暗闇のような不安と恐怖心に変わり、全身を包み込んでいく。
「愛衣」
八宮先輩が私を呼ぶ。暗闇に沈みかけた意識を引き上げるような声に顔を上げる。
先輩は力強く真っ直ぐ私を見つめていた。
「愛衣はまだ終わりじゃない」
「終わりです。何もかも。だって私は、先輩と出会わなければ、もうこの世にはいなかったのですから」
「どういうこと?」
「私は、八宮先輩に出会ったあの日に描いていたあの漫画を……描き終えたら死ぬつもりでした。絵を描くことでしか自分の存在を見出せない。そんな私がこれからこの世界で幸せに生きていけるなんて思えなかったから」
私は本心を口にし続けた。
「そんな私に道を…恋と革命を教えてくれたのが八宮先輩だったんです。私の恋と革命はその八宮先輩の背中にあるんです」
八宮先輩は小さく首を横に振った。
「愛衣は自分自身をわかってないな」
「わかっています」
「いや、わかってない」
「じゃあ八宮先輩がいなくなったら、私は何を道標にして生きろって言うんですか?私の恋と革命は八宮先輩と共にあるんですよ?」
「それは違うよ、愛衣」
「違わないです」
「いや、違うんだよ愛衣。愛衣、君は僕の革命に付き合ってただけ…… それをあたかも君の革命のように僕が錯覚させていただけなんだよ」
八宮先輩は上半身をゆっくり下げる。
「今更だけどごめん」
鼻を啜り、上半身を上げた八宮先輩の両目から止めどなく涙が流れる。
「僕も嘘つきなんだよ。愛衣に好意を持たないとか言って、本当は…本当はずっと愛衣のことが好きだったし」
「先輩…」
「病気のことだってそうだ。僕は愛衣と出会った時から、病気に冒されていた。だけど、それを認めたくなくて、現実から逃げていた。愛衣の前でも嘘をついてね……」
ごめん。ごめんね。と細くなった白い腕で涙を拭う八宮先輩。そんな先輩の空いた方の手を取り、強く握る。
「八宮先輩の嘘は自分を隠すための嘘じゃない。思いやりの嘘です」
八宮先輩は私のその一言に目を丸くする。そんな先輩の表情がどこかおかしくて、くすくすと笑ってしまう。
そう。私は先輩が赤裸々にした嘘に温かさを感じていた。
それは八宮律という私が唯一尊敬し、そして愛する彼が、いつだって他人を思いやり、見守って、人情という温かさを与えてくれる人間だからだ。
だから先輩の嘘は、私が自分を偽り、隠し、逃げるために使ってきた卑怯な嘘ではないことを本能的に理解できた。いや、前々から理解していたのかもしれない。だから私はその先輩の嘘を、その優しさを利用していたんだ。
「八宮先輩。謝らなければならないのは、私です」
今なら打ち明けられると思った。
その勢いに任せて、私はようやく先輩に頭を下げた。嘘をついていたことを謝るためだ。
「自分よがりな嘘を、たくさんついて……すみませんでした」
「謝らないでくれ。僕だって嘘をついた事実は変わらない……なのに……愛衣はこんな僕についてきてくれた。僕は…感謝しても、仕切れないよ…」
その言葉に顔を上げると、先輩は涙を流しながらも笑みを浮かべようとしていた。その笑みは私に心配させまいとして、強がっているように見えた。先輩の優しさのこもった嘘だ。
そう言えば、初めて出会った日から先輩は私の前では笑顔を絶やすことはなかった。その間、ずっと病に冒されていただろうに。
── そうだ!だから一緒に漫画界に殴り込みに行こう!大丈夫。変わり者同士が組めば革命という大事を成すことは十分に可能だと思うんだ!
ふと初めて出会った日に八宮先輩が私に言った言葉を思い出した。
どうしてこんな時に思い出したのだろうか。そんな疑問抱く前に私は宣言した。迷いもなく、本心から直接口にした。
「先輩。私はやっぱり大事を成したい。先輩が隣にいないのは不安だけど……それでも必ず成し遂げてみせますから」
八宮先輩は目を見開いた後、涙や鼻水を腕で乱暴に拭い、濡れた顔でありながらも満面の笑みで頷いた。
その笑顔は穏やかな春の太陽のようで、優しく私の心を温めて、浄化する。
そんな八宮先輩だから大好きになったんだと、改めて気づき、視線が交わり、本心を見透かすようなその澄んだ先輩の瞳に引き込まれていく。
「愛衣、君なら大事を成せるさ。だって君の革命と恋はね、僕の革命と恋よりもきっと大きく、光り輝くものになると、そういう風に思えてならないんだ。僕が惚れた人だし」
私は意地悪に笑みを溢す。
「どうかしら。嘘つきですもの。私たち」
「それでも信じてほしい」
「わかりました」
「大事を成す途中で、もしも戸惑うことがあれば、親友を頼ればいい。彼、速水水斗くんだっけ?彼も僕たちと同じ変わり者なんだろ?」
先輩は笑った。
「ええ。彼は相当な変わり者です。だって、変わり者の私に、ずっと話しかけてくれるのだもの」
「そう。なら安心だ」
「あっ。もちろん親友止まりですから。私が好きなのは…八宮先輩で……」
改めて口にすると恥ずかしさで言葉が詰まる。そんな私の頭に八宮先輩は手を伸ばして、ゆっくりと上から下へ撫でる。先輩の優しさが私の気持ちを落ち着かせる。
私は視界の中心に先輩をおさめる。
今ほどに誰かを愛おしく思ったことはない。
「八宮先輩、私は八宮先輩のことが大好きでした」
その瞬間、私と八宮先輩の唇が重なった。
まるでバトンを受け取るように、唇を絡み合わせる。
別れを惜しむように唇を先輩から離し、私は言った。
「八宮先輩」
「ん?」
「ありがとう」
「こちらこそ……ありがとうな」
今、私たち二人を包む空間だけは湿った六月の空気を無視して、来年の春を先取りしたように温かくて、幸せな空気が取り巻いている。
そしてその温かな空気は私の明日を照らす光となり、道が見えた。
一週間後。八宮先輩は緊急入院した。
【漫画、最終回よかった。ありがとう】
このメッセージ以降、先輩からの連絡は途絶えた。
先輩との漫画は、最後に会ったあの日に原作をもらって完結し、私と先輩は戦友から先輩と後輩の関係に戻った。もちろん恋人でもない。口付けは今や私の宝物で新たな希望になった。
だから私は、明日も描こうと思う。
先輩が照らしてくれた道の先に、私の恋と革命があるのならば、それを掴みたいから。そして大事を成せるのならば、私はその大事の下に先輩の名前を、『八宮律』という恩人の名前を刻みたいからだ。
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