第七話 勇気
レオヴェインは朝の支度を終えると、庭へ向かった。
「母様。」
「何か手伝えることはありますか。」
エレノアは風に揺れる金褐色の髪を耳へかけながら、優しく微笑んだ。
「それでは。」
「森の浅いところの薬草を、少しお願いできますか。」
「今日は薬草茶を淹れようと思うのです。」
レオヴェインはうなずく。
「分かりました。」
そのやり取りを聞いていたリューベルが駆け寄ってきた。
「ぼくも!」
「ぼくもいく!」
レオヴェインは口元をわずかに緩めた。
「森の奥へは行かない。」
「約束だ。」
リューベルは元気よくうなずいた。
「うん!」
◇
兄弟は並んで歩き始めた。
朝の森は静かで、木漏れ日が揺れ、鳥のさえずりが心地よく響いていた。
リューベルは花を見つけるたびに立ち止まる。
「にいさま!」
「みて!」
レオヴェインは振り返る。
「遠くへ行くな。」
「うん!」
リューベルは嬉しそうに笑った。
やがて、一人の女性が駆け寄ってきた。
髪は乱れ、肩で息をしている。
顔は青ざめ、今にも泣き崩れそうだった。
「すみません!」
「息子を見ませんでしたか?」
「五歳の子なんです!」
レオヴェインは首を横に振る。
「その子の名前は?」
「ルカです。」
「目を離した隙に……。」
「森へ入ってしまって……。」
女性は震えていた。
「探しましょう。」
女性は何度も頭を下げた。
「ありがとうございます……!」
レオヴェインは辺りを見回した。
このまま一緒に探すより、手分けをした方が早い。
「別れて探しましょう。」
「見つけたら、呼んでください。」
女性はうなずく。
「はい!」
レオヴェインとリューベルは女性と別れた。
リューベルは兄の後ろをついて歩く。
辺りを見渡しながらしばらく進む。
レオヴェインは足を止めた。
地面を見る。
小さな足跡。
踏み荒らされた草。
折れた細い枝。
その痕跡は。
森の奥へ続いていた。
レオヴェインは静かに息を吐き、少し考えた。
その先は、ヴァルディスに固く禁じられている場所。
魔物が住む森の奥。
祖父の言葉が頭をよぎる。
――実戦は、まだ早い。
――魔物は、人とは違う。
レオヴェインは拳を握る。
だが。
あの子は、一人だ。
レオヴェインはリューベルへ向き直る。
「リューベル。」
「ここで待っていろ。」
「でも……。」
「絶対に動くな。」
「すぐ戻る。」
リューベルは不安そうな顔で兄を見つめた。
「……うん。」
レオヴェインは小さくうなずく。
剣の柄へ手を添えた。
そして。
その背中は、少しずつ森の奥へ消えていった。
◇
レオヴェインは慎重に森の奥を進んだ。
耳を澄ませる。
風が木々を揺らす音。
鳥の鳴き声。
どこだ。
どこにいる。
その時だった。
「ママー!」
「たすけてー!」
幼い悲鳴が森に響いた。
レオヴェインは顔を上げると、声のした方へ駆け出し、茂みを抜けた。
その先で、一人の男の子が追い詰められ尻もちをついていた。
目の前にいたのはファングウルフ。
普通のウルフより一回り大きな体。
長く伸びた牙からは唾液が滴り落ち、黄金色の瞳が獲物を鋭く見据えていた。
男の子は震えながら後ずさる。
逃げられない。
レオヴェインの足が止まった。
鼓動が速くなる。
手に汗がにじむ。
剣を握る手が、小さく震えた。
目の前にいるのは、本物の魔物。
訓練ではない。
模擬戦でもない。
命を奪い、命を奪われる戦い。
初めての実戦だった。
その一瞬。
頭をよぎる。
――勝てるだろうか。
――もし負けたら。
その時だった。
男の子と目が合った。
涙でいっぱいの瞳。
助けを求める瞳。
レオヴェインは深く息を吸った。
澄んだ翠色の瞳から、迷いがゆっくりと消えていく。
その瞬間。
鮮やかな翠の光が、静かに刀身を包んだ。
レオヴェインは震える足を、一歩前へ出した。
男の子の前へ立つ。
「大丈夫だ。」
「私が守る。」
ファングウルフが低く唸る。
黄金色の瞳が、ルカを狙っていた。
ファングウルフが飛びかかる。
レオヴェインは一歩前へ踏み出し、剣で牙を受け止めた。
重い。
腕がしびれる。
だが、押し返す。
「動くな。」
「後ろにいろ。」
ルカは震えながらうなずいた。
ファングウルフは距離を取る。
円を描くように歩く。
獲物を狙う目。
狙っているのは自分ではない。
後ろの子どもだ。
レオヴェインは動かない。
動けば隙が生まれる。
守れなくなる。
再び飛びかかる。
速い。
今度は横から。
レオヴェインは身体を滑らせるようにして割って入る。
鋭い爪が腕を裂き、熱い痛みが走る。
それでも目は逸らさない。
(焦るな。)
(まだだ。)
ファングウルフは獲物を狙っている。
ならば。
必ずもう一度、ルカを狙う。
その瞬間が来る。
レオヴェインは息を整えた。
震える手を強く握る。
(……何を震えている。)
祖父の言葉が脳裏によみがえる。
――じゃが、大切な者がおる時、人は思っておる以上に強くなれる。
(この子は、リューベルと同じ五歳だ。)
(この程度、乗り越えられなくて。)
(どうやってリューベルを守る。)
その瞬間。
ファングウルフが一直線にルカへ飛び込んだ。
ここだ。
レオヴェインは強く一歩踏み込む。
翠の光をまとった剣が、一閃する。
ファングウルフの首を深く斬り裂いた。
巨体は地面へ崩れ落ち、一度立ち上がろうとしたが、そのまま動かなくなった。
静寂が戻る。
レオヴェインは大きく息を吐いた。
剣を納めようとして。
ようやく気づく。
手が、まだ震えていた。
初めての実戦。
それでも。
守ることができた。
その時。
茂みの向こうから、小さな足音が聞こえた。
「……にいさま。」
レオヴェインは振り返る。
そこには、青ざめた顔のリューベルが立っていた。
「リューベル!」
「なぜ来た!」
リューベルは肩を震わせる。
「だって……。」
「にいさまが……。」
言葉にならない。
涙があふれる。
レオヴェインは目を閉じ、小さく息をついた。
しゃがみ込む。
そっとリューベルの頭を撫でた。
「約束は守れ。」
リューベルは涙をぬぐいながら、小さくうなずいた。
「……うん。」
その返事を聞くと、レオヴェインは立ち上がった。
「帰ろう。」
そう言ってルカを抱き上げた。
その時だった。
「ルカー!」
森の奥から必死な叫び声が響く。
「お母さん!」
ルカが大きな声で叫ぶ。
草をかき分ける音が近づく。
次の瞬間。
母親が飛び出してきた。
息を切らし、顔には涙が浮かんでいる。
ルカの姿を見るなり駆け寄り、強く抱きしめた。
「よかった……!」
「本当によかった……!」
何度も何度も頭を撫でる。
ルカも母親にしがみつき、大粒の涙をこぼした。
しばらくして母親は顔を上げる。
レオヴェインへ深く頭を下げた。
「本当に……ありがとうございました。」
レオヴェインは静かに首を振る。
「無事でよかったです。」
艶のある黒髪が風に揺れる。
傷ついた腕からは血が流れている。
それでも背筋は真っすぐだった。
リューベルは、その背中を見つめていた。
兄は震えていた。
怖かったはずなのに。
前へ出た。
この気持ちは、まだ分からない。
だけど。
兄は、かっこよかった。
(ぼくも……。)
(兄様みたいになりたい。)
リューベルは、兄の大きな背中を見つめ続けていた。
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