第二十九話 愛はそこにあった。
エルフリーデが亡くなってから、しばらくの時が流れた。
皇后宮は静かだった。
以前なら、庭師の笑い声が聞こえ、侍女たちが花を抱えて歩き、子どもたちが駆け回っていた。
今は、庭を渡る風の音だけが響いている。
あれほど人で賑わっていた皇后宮は、エルフリーデとともに静けさをまとっていた。
何もかも、変わってしまった。
ヴァルディスは、いつもエルフリーデが座っていた窓辺の椅子に腰を下ろす。
ここから、あの人はよく庭を眺めていた。
今も、庭の様子は変わらない。
花は風に揺れ、木々は朝の光を受けている。
けれど。
それを嬉しそうに眺めるエルフリーデの姿は、もうなかった。
ヴァルディスは黙ったまま、庭へ目を向ける。
長い黒髪は無造作に後ろで束ねられ、頬には以前にはなかった疲れが滲んでいた。
何をしていても、何を見ても、エルフリーデを思い出す。
朝になれば、
『おはようございます。』
その声が聞こえた気がした。
花を見れば、嬉しそうに微笑む姿が浮かぶ。
夜になれば、
『今日はお疲れさまでした。』
そう笑いかけてくれた。
もう、どこにもいない。
……会いたい。
ただ、それだけだった。
そして、後悔だけが残った。
お前は、あれほどわしを想ってくれておったのに。
わしは、何も見えておらんかった。
さらにもう一つ、ヴァルディスの胸を苦しめているものがあった。
『あなたの愛を。』
『大事にしてください。』
約束はした。
だが。
分からない。
愛を大事にするとは、どういうことなのか。
何をすれば、あの人との約束を守れるのか。
考えても、考えても、答えは見つからなかった。
「……すまん。」
小さく呟く。
「まだ、分からん。」
風が吹き、庭の花が静かに揺れた。
そのときだった。
ふと、一つの笑顔が浮かんだ。
花を見つめながら笑うエルフリーデ。
あの日の、柔らかな笑顔。
ヴァルディスは小さく笑う。
「……あの時のエルは、ほんに嬉しそうに笑っておった。」
思い出が、静かに胸へ流れ込んでくる。
『石が悪い。』
『ふふふっ。』
『私は、そんなあなたが好きです。』
照れくさくて、咳払いをした。
『そういうことは、急に言うでない。』
あの時のお前は……本当に嬉しそうじゃった。
花が風に揺れる。
『今年も咲いてくれたことが嬉しいんです。』
どの花も懸命に咲いている。
そう言って、優しく花を見つめていた。
また一つ、思い出が浮かぶ。
『あなたが私のために使ってくださった時間へ、お返しする言葉ですから。』
お前は、誰が相手でも、受け取った優しさへ必ず感謝を返しておった。
さらに、もう一つ。
『約束は、未来を信じるためのものです。』
『大切なのは、約束に込めた想いです。』
そう言って、お前はわしを励ましてくれた。
そして。
『私は、あなたの隣を歩く人です。』
苦しい身体で、雪に足を取られながらも、一歩、また一歩と、お前は笑って歩いておった。
そして――。
『……エル。』
あれほど照れくさかったことはない。
それでも、わしは初めて、お前を「エル」と呼んだ。
あの時のお前は、わしの背中で子どものように笑っておった。
◇
静寂が部屋を満たしていた。
聞こえるのは、風の音だけ。
ヴァルディスは目を閉じる。
思い出す。
一つ。
また一つ。
どれも、エルフリーデとの大切な時間だった。
やがて、ヴァルディスはゆっくりと目を開いた。
鋼色の瞳が、風に揺れる花々を映す。
「そうか……。」
胸へ手を当てる。
「お前がわしにしてくれたことは、全部……。」
言葉が止まった。
「……愛じゃったのう。」
「エル……。」
「わしにはまだ、愛というものが何なのか、よう分からん。」
少しだけ空を見上げる。
「じゃが。」
「お前は、確かに愛じゃった。」
静かに笑う。
「お前の言葉で、何度嬉しくなったか。」
「お前が笑うだけで、何度……胸がいっぱいになったか。」
大きな手が、胸元の衣を強く掴んだ。
「忘れてなるものか……。」
「お前との日々も。」
「お前の笑顔も。」
「お前の言葉も。」
「お前も。」
「全部じゃ。」
「わしが生きておる限り、忘れん。」
風が吹き、花々が優しく揺れた。
まるで、エルフリーデが微笑んでいるようだった。
ヴァルディスは小さく頷く。
「エル……。」
「お前の愛は、わしが大事にする。」
「約束じゃ。」
その日、ヴァルディスは一つの決断をした。
愛とは何か。
その答えは、まだ分からない。
それでも。
エルフリーデの愛だけは、決して手放さない。
そう、心に決めた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
次回から現在に戻ります。




