第二十八話 託されたもの。
皇后宮は、静かな朝を迎えていた。
窓の外では小鳥がさえずり、夏の名残を残す木々を朝風が静かに揺らしている。
ヴァルディスは、茶器を手に廊下を歩いていた。
今日は少しでも食べてくれるじゃろうか。
昨日は、少し笑ってくれた。
それだけで十分だった。
今日も、その笑顔を見られればいい。
そんなことを考えながら、扉を開ける。
「エル。」
朝日が静かに寝台を照らしていた。
長い蒼銀の髪が枕の上に広がり、エルフリーデは穏やかな寝顔のまま眠っている。白い頬は、いつも以上に静かだった。
「まだ眠っておるのか。」
ヴァルディスは小さく笑い、ゆっくりと歩み寄る。
「エル。」
返事はない。
起こさぬよう肩へそっと手を添えるが、動かない。
「……エル。」
もう一度、肩へ触れる。
大きな手が、細い肩の上で止まった。
呼吸がない。
胸も動いていない。
昨日。
あれほど話した。
覚悟もした。
それでも。
心は認めなかった。
「誰か!!」
皇后宮に怒号が響く。
「医師を呼べ!!」
侍女たちが駆け出していく中、ヴァルディスはエルフリーデの手を握った。
冷たい。
昨日まで、あんなに温かかった手が。
「エル。」
「起きろ。」
「エル……!」
何度呼んでも、返事はなかった。
ほどなくして医師たちが駆け込んでくる。
誰もが必死に脈を診て、呼吸を確かめ、瞳を見る。
やがて、部屋が静まり返った。
年老いた医師が、ゆっくりとヴァルディスへ向き直る。
言葉はなかった。
ただ、静かに首を横へ振った。
その仕草だけで、十分だった。
ヴァルディスは目を閉じ、深く息を吸う。震える唇を一度だけ噛み締めると、静かに口を開いた。
「……皆、下がれ。」
誰も動かなかった。
侍女たちは涙を流し、医師たちも俯いている。
ヴァルディスは、もう一度言った。
「頼む。」
「少しだけ。」
「二人にしてくれ。」
その声は、皇帝の命令ではなかった。
一人の夫の願いだった。
侍女たちは涙をぬぐいながら頭を下げ、医師たちも静かに一礼する。
やがて扉が閉まり、部屋には二人だけになった。
ヴァルディスはゆっくりと寝台のそばへ膝をつき、エルフリーデの手を両手で包み込む。
大きな両手の中に、冷たくなった細い白い手が収まった。
「エル。」
返事はない。
「起きてくれ。」
「まだ話したいことがある。」
「まだ返しておらん。」
「まだ……。」
言葉が途切れ、涙がエルフリーデの手へ落ちる。
「すまん。」
「すまん、エル。」
「もっと早く気づけばよかった。」
「もっと、お前と話せばよかった。」
「もっと……。」
「もっと、お前の名前を呼べばよかった。」
声にならない嗚咽が漏れ、肩が激しく揺れた。
帝国を築いた英雄も、最強と恐れられた皇帝も、そこにはいなかった。
残っていたのは。
最愛の妻を失った、一人の男だけだった。
どれほど泣いても。
どれほど謝っても。
エルフリーデは、もう目を開けない。
長い時間が過ぎた。
ヴァルディスは涙を拭うこともせず、静かにエルフリーデの顔を見つめていた。長い黒髪は乱れ、頬には涙の跡が残っている。
それでも、エルフリーデの手だけは離さなかった。
穏やかな寝顔だった。
まるで、ただ眠っているだけのようだった。
そのとき、昨日の言葉が胸の奥によみがえった。
『あなたの愛を。』
『大事にしてください。』
ヴァルディスはエルフリーデの手をそっと持ち上げ、その手を自らの額へ当てた。
瞳を閉じる。
「……約束じゃ。」
震える声だった。
けれど、その言葉には迷いがなかった。
ヴァルディスはゆっくりと立ち上がる。
その胸には、一つの約束が生きていた。
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