第二十七話 愛を託して
ある朝。
皇后宮の庭では、深い緑の葉が朝の風に揺れていた。木々の間から聞こえていた蝉の声も、もうまばらになっている。
夏は、静かに終わろうとしていた。
エルフリーデは窓辺の椅子に座り、その景色を眺めていた。
長い蒼銀の髪が、以前より細くなった肩から胸元へ流れている。頬の血色は薄く、白い寝衣の中の身体も、春よりさらに華奢になっていた。
それでも、庭を見つめる青い瞳は穏やかで、どこか明るかった。
今年の夏は、ひどく美しく見えた。
おそらく。
これが最後だからなのでしょう。
自分の身体のことは、誰よりも自分が分かっていた。
朝、目を覚ますことにも時間がかかる。少し歩くだけで息が切れ、食事もほとんど喉を通らない。
医師も侍女も何も言わない。
けれど、その目がすべてを語っていた。
長くはない。
そのことを、エルフリーデはもう理解していた。
死ぬことは怖かった。
目を閉じたあと、二度と陛下の声を聞けなくなることが怖かった。
本当は、もっと生きたかった。
来年も陛下と、春の花を見たかった。夏の木漏れ日の下を歩き、秋の葉を眺め、冬の雪をもう一度見たかった。
もっと、あの人に名前を呼んでほしかった。
もっと、隣にいたかった。
けれど、それを口にすれば、ヴァルディスは自分を責める。
何もできなかったと。
もっと早く気づけばよかったと。
残された時間まで、後悔の中で過ごしてしまう。
それは望んでいなかった。
廊下から聞き慣れた足音が近づき、扉が開く。
ヴァルディスが茶器を手に入ってきた。
後ろで束ねた長い黒髪を揺らしながら、大きな身体には似つかわしくないほど慎重に茶器を運んでいる。
「起きておったのか。」
「はい。今日は少し、調子がよいのです。」
ヴァルディスは答えず、卓の上へ茶器を置いた。
「朝から何も食べておらんそうじゃな。」
「あとで、少しだけ。」
「少しでは足りん。」
叱るような声だった。
けれど、その奥には心配がある。エルフリーデには、それがよく分かった。
茶器へ手を伸ばす。しかし、指先にうまく力が入らず、器が小さく揺れた。
すぐにヴァルディスの手が添えられる。
「無理をするな。」
「ありがとうございます。」
「礼はいらん。」
「いいえ。」
エルフリーデは微笑んだ。
「あなたが私のために使ってくださった時間へ、お返しする言葉ですから。」
ヴァルディスはわずかに目を伏せると、茶器を持ち上げ、エルフリーデの口元へ運んだ。
温かな茶が喉を通る。
その何気ない時間さえ、今は愛おしかった。
だからこそ。
今日、伝えなければならない。
「陛下。」
「なんじゃ。」
「少し、お話をしたいのです。」
ヴァルディスの手が止まった。
「長くなるかもしれません。」
「構わん。」
エルフリーデは静かに息を吸った。
これを口にすれば、この人は傷つく。
……それでも。
もう、伝えなければ。
「私は、もう長くはないのだと思います。」
ヴァルディスの表情が固まった。
「誰がそのようなことを言った。」
「誰にも言われてはいません。」
「ならば、言うな。」
声が強くなる。
怒っているのではない。
この人は、怖いのだ。
「自分の身体ですから、分かるのです。」
「分からん。」
「医師は、まだ手はあると言っておる。」
「はい。」
「ならば治る。」
「陛下。」
「治る。」
言い聞かせるように、ヴァルディスは繰り返した。
「必要なら帝国中から医師を集める。薬も、何でも用意する。だから、そのような話はするな。」
エルフリーデの胸が痛んだ。
この人を傷つけたくはなかった。
けれど、何も伝えないまま逝くこともできなかった。
「私は、諦めているわけではありません。」
ヴァルディスが顔を上げる。
エルフリーデは何かを続けようとして、唇を閉じた。
胸の奥から込み上げてくるものを、いつものように笑って押し込めようとする。
けれど。
今度は、できなかった。
握られたヴァルディスの手に、細い指が強く絡む。
「私……。」
声が詰まった。
息を吸っても、胸が震える。
目の奥が熱くなり、堪えていた涙が浮かんだ。
「私……まだ……。」
一度口にすれば、もう止められなかった。
「生きたいです!」
痩せた肩が大きく震えていた。
それは初めて、この人にぶつけるように伝えた本音だった。
「もっと、あなたと一緒にいたい。」
「来年も、一緒に秋を見たい。」
「春になったら、また花を見に行きたい。」
涙が頬を伝う。
「私も……まだ、生きていたいのです。」
ヴァルディスは、エルフリーデの手を強く握った。
「ならば、生きろ。」
そして、絞り出すように続ける。
「わしを置いて逝くことは許さん。」
あまりに無茶な言葉だった。
それでも、嬉しかった。
愛されているのだと分かった。
「はい。できるなら、そうしたいです。」
ヴァルディスは俯いた。
「わしは、お前に何も返しておらん。」
「そのようなことはありません。」
「ある。」
低い声だった。
「戦ばかりしていた。お前を待たせ続けた。皇帝の務めだと言えば、すべて許されると思っておった。」
握る手が、かすかに震えている。
「お前が何も言わんから、寂しくないのだと勝手に思っていた。妾も、皇子も、帝国のためじゃと。お前なら理解すると思っておった。」
「じゃが……。」
言葉が途切れる。
「理解しているからといって、傷つかぬわけではなかった。」
エルフリーデは黙って聞いていた。
「すまなかった。」
あれほど謝ることのできなかった人が、今は逃げずに過去を見つめている。
エルフリーデは握られた手に、もう片方の手を重ねた。
「陛下。」
言わないまま、終わることもできる。
この人は、すでに十分苦しんでいる。今さら傷を増やす必要などない。
……けれど。
この気持ちだけは、胸の中に残したままにはできなかった。
「私は、寂しかったです。」
ヴァルディスの肩が揺れた。
「あなたが戦へ行くたび、帰ってこないのではないかと怖かった。ほかの方のもとへ向かわれる夜は、私だけを見てほしいと思いました。」
少しだけ目を伏せる。
「けれど、私は皇后だから。言ってはいけないと思っていました。」
ヴァルディスは顔を上げられなかった。
「ですが、あなたを憎んだことはありません。あなたも、そうしなければならないと教えられてきた方ですから。」
「それでも……。」
ヴァルディスは苦しそうに言った。
「わしはお前を、傷つけた。」
エルフリーデは否定しなかった。
「それでも、私はあなたが好きです。」
ヴァルディスが顔を上げる。
「過去を忘れるわけではありません。傷つかなかったことにするわけでもありません。」
エルフリーデは、その手を包むように握った。
「ですが、ご自分を責め続けないでください。」
そして、優しく微笑む。
「私は、過去のあなたも、今のあなたも、どちらも愛しています。」
ヴァルディスの目から、涙が落ちた。
長い黒髪が俯いた顔にかかる。それでも、握ったエルフリーデの細い手だけは離さなかった。
「お前は、わしを甘やかしすぎじゃ。」
「そうかもしれません。」
「だが、わしは自分を許せん。」
「今すぐでなくてもよいのです。いつか、ご自分を許してください。」
「できるじゃろうか。」
「できます。」
「なぜじゃ。」
エルフリーデは、まっすぐにヴァルディスを見た。
「あなたは、変わることのできる方だからです。」
変わりましたね。
本当に。
だからこそ、エルフリーデは未来を託せるのだと思った。
この帝国で、彼女は多くのものを見てきた。
皇帝の座を巡る皇子たちの争い。同じ庭で遊んでいた兄弟が、やがて互いを敵として見る姿。子を守るために、ほかの子を陥れようとする母親。
けれど、誰も最初から誰かを傷つけたかったわけではない。
皆、幸せになりたかっただけ。
愛されたかっただけ。
守りたいものがあっただけ。
ただ、その方法を知らなかった。
これから生まれてくる子どもたちも、また同じように争うのだろうか。
強くなければ愛されないと信じ、勝てなければ生まれてきた意味さえないと思わされるのだろうか。
変わってほしい。
そう願っていた。
けれど、帝国を変えてくださいとは言えなかった。
あまりにも大きく、重すぎる願いだった。
この人は、きっとそのすべてを背負ってしまう。
だから、もっと小さな言葉でいい。
この人の中に、すでにあるものを。
ただ、大切にしてもらえればいい。
「わしは、これから何でもする。」
ヴァルディスが言った。
「お前が望むなら、皇帝の座も捨てる。どこへでも行く。」
握った手に力が込められる。
「だから、生きてくれ。」
エルフリーデの胸の奥が、大きく揺れた。
皇帝の座さえ捨ててもよいと。
すべてを置いて、自分と生きたいと。
そんな言葉を、この人から聞く日が来るとは思わなかった。
昔の自分なら、どれほど欲しかっただろう。
けれど今は。
ただ、嬉しかった。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
自分は、この人に愛されている。
もう、それを疑うことはなかった。
エルフリーデは握られた手を、そっと握り返した。
「陛下。」
「なんじゃ。」
「何でも、してくださるのですか。」
「ああ。何でもじゃ。」
エルフリーデは窓の外へ目を向けた。
一枚の葉が枝を離れ、風に乗って落ちていく。
自分がいなくなっても、この国にはまた新しい命が生まれる。
その子たちの未来が、少しでも優しいものであってほしい。
「一つだけ、約束してください。」
ヴァルディスは迷わず頷いた。
「約束する。」
エルフリーデは思わず微笑んだ。
「ふふっ、まだ何も言っていませんよ。」
「お前の願いなら、何でもじゃ。」
エルフリーデは、そんなヴァルディスをしばらく見つめていた。
そして。
この人へ託す、たった一つの言葉を口にした。
「あなたの愛を。」
ヴァルディスは黙ってエルフリーデを見つめていた。
「大事にしてください。」
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。




