↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
愛で人は強くなれますか? -アルディア帝国物語-  作者: ハリネズミぽん助


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
28/36

第二十七話 愛を託して



ある朝。


皇后宮の庭では、深い緑の葉が朝の風に揺れていた。木々の間から聞こえていた蝉の声も、もうまばらになっている。


夏は、静かに終わろうとしていた。


エルフリーデは窓辺の椅子に座り、その景色を眺めていた。


長い蒼銀の髪が、以前より細くなった肩から胸元へ流れている。頬の血色は薄く、白い寝衣の中の身体も、春よりさらに華奢になっていた。


それでも、庭を見つめる青い瞳は穏やかで、どこか明るかった。


今年の夏は、ひどく美しく見えた。


おそらく。


これが最後だからなのでしょう。


自分の身体のことは、誰よりも自分が分かっていた。


朝、目を覚ますことにも時間がかかる。少し歩くだけで息が切れ、食事もほとんど喉を通らない。


医師も侍女も何も言わない。


けれど、その目がすべてを語っていた。


長くはない。


そのことを、エルフリーデはもう理解していた。


死ぬことは怖かった。


目を閉じたあと、二度と陛下の声を聞けなくなることが怖かった。


本当は、もっと生きたかった。


来年も陛下と、春の花を見たかった。夏の木漏れ日の下を歩き、秋の葉を眺め、冬の雪をもう一度見たかった。


もっと、あの人に名前を呼んでほしかった。


もっと、隣にいたかった。


けれど、それを口にすれば、ヴァルディスは自分を責める。


何もできなかったと。


もっと早く気づけばよかったと。


残された時間まで、後悔の中で過ごしてしまう。


それは望んでいなかった。


廊下から聞き慣れた足音が近づき、扉が開く。


ヴァルディスが茶器を手に入ってきた。


後ろで束ねた長い黒髪を揺らしながら、大きな身体には似つかわしくないほど慎重に茶器を運んでいる。


「起きておったのか。」


「はい。今日は少し、調子がよいのです。」


ヴァルディスは答えず、卓の上へ茶器を置いた。


「朝から何も食べておらんそうじゃな。」


「あとで、少しだけ。」


「少しでは足りん。」


叱るような声だった。


けれど、その奥には心配がある。エルフリーデには、それがよく分かった。


茶器へ手を伸ばす。しかし、指先にうまく力が入らず、器が小さく揺れた。


すぐにヴァルディスの手が添えられる。


「無理をするな。」


「ありがとうございます。」


「礼はいらん。」


「いいえ。」


エルフリーデは微笑んだ。


「あなたが私のために使ってくださった時間へ、お返しする言葉ですから。」


ヴァルディスはわずかに目を伏せると、茶器を持ち上げ、エルフリーデの口元へ運んだ。


温かな茶が喉を通る。


その何気ない時間さえ、今は愛おしかった。


だからこそ。


今日、伝えなければならない。


「陛下。」


「なんじゃ。」


「少し、お話をしたいのです。」


ヴァルディスの手が止まった。


「長くなるかもしれません。」


「構わん。」


エルフリーデは静かに息を吸った。


これを口にすれば、この人は傷つく。


……それでも。


もう、伝えなければ。


「私は、もう長くはないのだと思います。」


ヴァルディスの表情が固まった。


「誰がそのようなことを言った。」


「誰にも言われてはいません。」


「ならば、言うな。」


声が強くなる。


怒っているのではない。


この人は、怖いのだ。


「自分の身体ですから、分かるのです。」


「分からん。」


「医師は、まだ手はあると言っておる。」


「はい。」


「ならば治る。」


「陛下。」


「治る。」


言い聞かせるように、ヴァルディスは繰り返した。


「必要なら帝国中から医師を集める。薬も、何でも用意する。だから、そのような話はするな。」


エルフリーデの胸が痛んだ。


この人を傷つけたくはなかった。


けれど、何も伝えないまま逝くこともできなかった。


「私は、諦めているわけではありません。」


ヴァルディスが顔を上げる。


エルフリーデは何かを続けようとして、唇を閉じた。


胸の奥から込み上げてくるものを、いつものように笑って押し込めようとする。


けれど。


今度は、できなかった。


握られたヴァルディスの手に、細い指が強く絡む。


「私……。」


声が詰まった。


息を吸っても、胸が震える。


目の奥が熱くなり、堪えていた涙が浮かんだ。


「私……まだ……。」


一度口にすれば、もう止められなかった。


「生きたいです!」


痩せた肩が大きく震えていた。


それは初めて、この人にぶつけるように伝えた本音だった。


「もっと、あなたと一緒にいたい。」


「来年も、一緒に秋を見たい。」


「春になったら、また花を見に行きたい。」


涙が頬を伝う。


「私も……まだ、生きていたいのです。」


ヴァルディスは、エルフリーデの手を強く握った。


「ならば、生きろ。」


そして、絞り出すように続ける。


「わしを置いて逝くことは許さん。」


あまりに無茶な言葉だった。


それでも、嬉しかった。


愛されているのだと分かった。


「はい。できるなら、そうしたいです。」


ヴァルディスは俯いた。


「わしは、お前に何も返しておらん。」


「そのようなことはありません。」


「ある。」


低い声だった。


「戦ばかりしていた。お前を待たせ続けた。皇帝の務めだと言えば、すべて許されると思っておった。」


握る手が、かすかに震えている。


「お前が何も言わんから、寂しくないのだと勝手に思っていた。妾も、皇子も、帝国のためじゃと。お前なら理解すると思っておった。」


「じゃが……。」


言葉が途切れる。


「理解しているからといって、傷つかぬわけではなかった。」


エルフリーデは黙って聞いていた。


「すまなかった。」


あれほど謝ることのできなかった人が、今は逃げずに過去を見つめている。


エルフリーデは握られた手に、もう片方の手を重ねた。


「陛下。」


言わないまま、終わることもできる。


この人は、すでに十分苦しんでいる。今さら傷を増やす必要などない。


……けれど。


この気持ちだけは、胸の中に残したままにはできなかった。


「私は、寂しかったです。」


ヴァルディスの肩が揺れた。


「あなたが戦へ行くたび、帰ってこないのではないかと怖かった。ほかの方のもとへ向かわれる夜は、私だけを見てほしいと思いました。」


少しだけ目を伏せる。


「けれど、私は皇后だから。言ってはいけないと思っていました。」


ヴァルディスは顔を上げられなかった。


「ですが、あなたを憎んだことはありません。あなたも、そうしなければならないと教えられてきた方ですから。」


「それでも……。」


ヴァルディスは苦しそうに言った。


「わしはお前を、傷つけた。」


エルフリーデは否定しなかった。


「それでも、私はあなたが好きです。」


ヴァルディスが顔を上げる。


「過去を忘れるわけではありません。傷つかなかったことにするわけでもありません。」


エルフリーデは、その手を包むように握った。


「ですが、ご自分を責め続けないでください。」


そして、優しく微笑む。


「私は、過去のあなたも、今のあなたも、どちらも愛しています。」


ヴァルディスの目から、涙が落ちた。


長い黒髪が俯いた顔にかかる。それでも、握ったエルフリーデの細い手だけは離さなかった。


「お前は、わしを甘やかしすぎじゃ。」


「そうかもしれません。」


「だが、わしは自分を許せん。」


「今すぐでなくてもよいのです。いつか、ご自分を許してください。」


「できるじゃろうか。」


「できます。」


「なぜじゃ。」


エルフリーデは、まっすぐにヴァルディスを見た。


「あなたは、変わることのできる方だからです。」


変わりましたね。


本当に。


だからこそ、エルフリーデは未来を託せるのだと思った。


この帝国で、彼女は多くのものを見てきた。


皇帝の座を巡る皇子たちの争い。同じ庭で遊んでいた兄弟が、やがて互いを敵として見る姿。子を守るために、ほかの子を陥れようとする母親。


けれど、誰も最初から誰かを傷つけたかったわけではない。


皆、幸せになりたかっただけ。


愛されたかっただけ。


守りたいものがあっただけ。


ただ、その方法を知らなかった。


これから生まれてくる子どもたちも、また同じように争うのだろうか。


強くなければ愛されないと信じ、勝てなければ生まれてきた意味さえないと思わされるのだろうか。


変わってほしい。


そう願っていた。


けれど、帝国を変えてくださいとは言えなかった。


あまりにも大きく、重すぎる願いだった。


この人は、きっとそのすべてを背負ってしまう。


だから、もっと小さな言葉でいい。


この人の中に、すでにあるものを。


ただ、大切にしてもらえればいい。


「わしは、これから何でもする。」


ヴァルディスが言った。


「お前が望むなら、皇帝の座も捨てる。どこへでも行く。」


握った手に力が込められる。


「だから、生きてくれ。」


エルフリーデの胸の奥が、大きく揺れた。


皇帝の座さえ捨ててもよいと。


すべてを置いて、自分と生きたいと。


そんな言葉を、この人から聞く日が来るとは思わなかった。


昔の自分なら、どれほど欲しかっただろう。


けれど今は。


ただ、嬉しかった。


胸の奥が、じんわりと温かくなる。


自分は、この人に愛されている。


もう、それを疑うことはなかった。


エルフリーデは握られた手を、そっと握り返した。


「陛下。」


「なんじゃ。」


「何でも、してくださるのですか。」


「ああ。何でもじゃ。」


エルフリーデは窓の外へ目を向けた。


一枚の葉が枝を離れ、風に乗って落ちていく。


自分がいなくなっても、この国にはまた新しい命が生まれる。


その子たちの未来が、少しでも優しいものであってほしい。


「一つだけ、約束してください。」


ヴァルディスは迷わず頷いた。


「約束する。」


エルフリーデは思わず微笑んだ。


「ふふっ、まだ何も言っていませんよ。」


「お前の願いなら、何でもじゃ。」


エルフリーデは、そんなヴァルディスをしばらく見つめていた。


そして。


この人へ託す、たった一つの言葉を口にした。


「あなたの愛を。」


ヴァルディスは黙ってエルフリーデを見つめていた。


「大事にしてください。」




挿絵(By みてみん)



最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。