第二十六話 名もなき花
冬が過ぎ、暖かくなった森には小さな花々が咲き始めていた。
窓辺の椅子に腰掛けたエルフリーデは、外を眺めていた。
長い蒼銀の髪が細くなった肩へ流れている。身体は以前よりさらに痩せていたが、春を映した青い瞳は明るかった。
やがて、ふと微笑む。
「陛下。」
ヴァルディスは書類から顔を上げた。
「どうした。」
エルフリーデは少し照れくさそうに笑う。
「お願いがあります。」
「なんじゃ。」
「森へ、連れて行っていただけませんか。」
ヴァルディスは首をかしげた。
「花を見に行きたいのです。」
その一言で、ヴァルディスは静かに立ち上がる。
「わかった、準備しよう。」
◇
翌日。
二人は森の入口まで馬車で向かった。
だが、目的の場所はそこから少し奥だった。
ヴァルディスは森を見つめると、静かにしゃがんだ。
「乗れ。」
エルフリーデは目を丸くする。
「……陛下?」
「歩くには遠い。」
少しだけ振り返る。
「今日は、わしの足じゃ。」
エルフリーデは小さく笑った。
「ありがとうございます。」
エルフリーデの白い腕が、そっとヴァルディスの大きな肩へ回され、そのまま背中へ身を預ける。
背中に伝わる身体は、記憶にあるよりもずっと軽かった。
「……痩せたな。」
「そうかもしれません。」
エルフリーデは小さく笑う。
ヴァルディスは何も言わず、ゆっくりと立ち上がった。
森を歩く。
木漏れ日が揺れ、鳥が鳴き、春の風が葉を揺らしている。
「昔、この先の丘で見つけた花があるのです。」
エルフリーデが静かに言った。
「花?」
「はい。誰も名前を知りません。図鑑にも載っていませんでした。」
ヴァルディスは少し驚く。
「そんな花があるのか。」
「名前がなくては可哀想なので、私が名前を付けました。」
しばらく歩いて森を抜けると、やがて優しい風が吹く丘に着いた。
エルフリーデの青い瞳がぱっと輝く。
春風に長い蒼銀の髪を揺らしながら、嬉しそうに指をさした。
「あそこです!」
ヴァルディスはゆっくりしゃがみ、エルフリーデは慎重に背中から降りた。
足元には、小さな花が咲いていた。
風に揺れている。
真っ白ではない。
控えめな白。
けれど、どこか暖かさが感じられた。
ヴァルディスは静かに見つめる。
「これか。」
「はい。」
エルフリーデは、その小さな花を見つめて微笑んだ。
「リューベルです。」
「リューベル?」
「名前です。」
ヴァルディスは花を見る。
「変わった名じゃ。」
エルフリーデはくすりと笑った。
「でも、この子に似合うでしょう?」
「そうじゃな。」
エルフリーデは花を優しく見つめる。
「名前というのは、不思議ですね。」
「ん?」
「同じ花でも、名前を付けると少しだけ特別に思えるんです。」
ヴァルディスは足元の花を見る。
「そういうものか。」
「はい。呼び方も、きっと同じなのだと思います。」
「呼び方?」
「はい。」
少しだけ間があった。
「……そういえば。」
エルフリーデは何かを言いかける。
だが、すぐに微笑んだ。
「いえ。やっぱり、大丈夫です。」
ヴァルディスが眉をひそめる。
「なんじゃ。」
「何でもありません。」
「何でもない顔ではない。」
エルフリーデは少し困ったように笑った。
「本当に、たいしたことではありませんから。」
「言え。」
「……。」
エルフリーデはしばらく黙っていた。
春の風が吹き、足元のリューベルが揺れる。
やがて、少しだけ恥ずかしそうに視線を逸らした。
「……どうして、私のことは愛称で呼んでくださらないのですか。」
ヴァルディスは固まった。
「……。」
「皆様には、愛称があります。でも私は、いつもエルフリーデ。」
少しだけ寂しそうに笑う。
「もちろん、嫌なわけではありません。あなたに名前を呼んでいただけるだけで、私は嬉しいです。」
「でも。」
エルフリーデは膝の上で、白い指をそっと重ねた。
「少しだけ、羨ましかったのです。」
「羨ましい?」
「はい。あなたが親しい方を愛称で呼んでいるのを聞くたびに、私も、いつかそう呼んでいただけたらいいな、と。」
ヴァルディスは目を瞬いた。
そんなことを考えていたとは、少しも知らなかった。
「……なぜ言わなんだ。」
「言うほどのことではないと思っていましたから。」
「じゃが、寂しかったのじゃろう。」
エルフリーデは少し黙り、やがてほんの少しだけ頷いた。
「……はい。」
その答えに、ヴァルディスの胸がちくりと痛んだ。
まただ。
この人は、ずっとそうだった。
会いに来てほしいとも言わなかった。
一緒に食事をしたいとも言わなかった。
寂しいとも言わなかった。
そして自分は、言われなかったから気づかなかった。
だが今は、こうして自分に望みを伝えてくれている。
それがヴァルディスには、どこか嬉しかった。
「それで。」
ヴァルディスは咳払いをする。
「なんと呼べばよい。」
エルフリーデの青い瞳が、少しだけ輝いた。
「……エル、と。」
「エル。」
確認するように呟いた途端、ヴァルディスは妙に落ち着かなくなった。
たった二文字。
ただ名前を短くしただけではないか。
それなのに、本人を前にするとどうしても口にできない。
「……。」
「陛下?」
「待て。」
「はい。」
「今、言う。」
「はい。」
「急かすでない。」
「ふふふ、急かしていませんよ。」
エルフリーデがくすくす笑う。
「笑うでない。」
「申し訳ありません。」
そう言いながら、やはり笑っている。
ヴァルディスは困ったように頭をかいた。
戦場では、どんな敵を前にしても迷わなかった。
何万もの兵を前に命令を下すこともできる。
なのに。
たった二文字が、どうしても出てこない。
エルフリーデはしばらく待っていたが、やがて優しく微笑んだ。
「無理でしたら、大丈夫ですよ。」
その言葉に、ヴァルディスは顔を上げた。
また、この人はそうやって自分の願いを引っ込める。
それは嫌だった。
ヴァルディスはゆっくり息を吸う。
そして。
照れくさそうに少しだけ顔を背け、小さな声で言った。
「……エル。」
エルフリーデは目を丸くした。
次の瞬間。
青い瞳が嬉しそうに細められ、白い頬にほんのりと赤みが差した。
「はい。」
その返事は、いつもより少しだけ弾んでいた。
とても嬉しそうに笑う。
その笑顔は。
どの花よりも。
ずっと美しかった。
ヴァルディスは照れ隠しのように顔を背ける。
「……帰るぞ。」
「はい。」
ヴァルディスはエルフリーデの前で、何も言わずにしゃがんだ。
エルフリーデは少し目を丸くする。
「……また、よろしいのですか?」
「何を今さら。」
ヴァルディスは背中を向けたまま答える。
「帰りも、わしの足じゃ。」
エルフリーデは嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます。」
そっとヴァルディスの背中へ身を預ける。
来た時よりも、その身体は少しだけ力が抜けていた。
ヴァルディスはエルフリーデをしっかりと背負い、ゆっくり立ち上がる。
「陛下。」
「なんじゃ。」
エルフリーデはヴァルディスの肩越しに、優しく笑った。
「また、エルと呼んでくださいね。」
「……ああ。」
春の風が吹く。
ヴァルディスはエルフリーデを背負い、来た道をゆっくりと戻っていく。
名もなき花――リューベルは、今年も静かに二人を見送っていた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。




