第二十三話 初夏の花
初夏。
皇后宮の庭に、新しい花壇が完成していた。
以前からある小さな花壇とは別に作られた、大きな花壇。
庭の広い一角を使い、赤、白、青、黄。色も大きさも違う花々が、初夏の陽射しを受けて咲き誇っている。
春だけではなく、できるだけ長く花を楽しめるように。
ヴァルディスが命じてから、庭師や家臣たちが急いで作り上げたものだった。
その花壇の前で、エルフリーデは立ち尽くしていた。
「まあ……!」
青い瞳が大きく見開かれ、初夏の風が長い蒼銀の髪を揺らす。
白かった頬にも、ほんのりと明るい色が差していた。
「すごい……。こんなにたくさん……!」
いつもの穏やかな声ではなかった。
エルフリーデは目の前いっぱいに広がる花々を見つめると、嬉しそうに花壇へ歩み寄った。
「あ、この花……!」
一輪の花の前で足を止めたかと思えば、すぐに別の花へ目を向ける。
「あなた、見てください!」
「ああ。」
「こちらにもあります!」
「分かったから、あまり急ぐな。」
「はい。」
返事はした。
だが、その直後にはもう別の花へ向かっている。
「まあ……こちらは初めて見ます!」
「おい。」
エルフリーデは振り返り、嬉しそうに笑った。
そして、また次の花へ目を向ける。
病に倒れてから、身体を気遣いながらゆっくり歩くことが増えていた。
だが今だけは。
そんなことさえ忘れてしまったかのようだった。
ヴァルディスは、その姿を黙って見つめていた。
あれほど喜ぶとは思わなかった。
花が好きだとは聞いていた。だから、もっと大きな花壇があれば喜ぶだろうと思った。
ただ、それだけだった。
だが、花を見つけるたびに目を輝かせるエルフリーデを見ていると、自然と口元が緩む。
――作ってよかった。
心から、そう思った。
「あなた!」
「なんじゃ。」
「早く来てください。」
「今行く。」
ヴァルディスは少しだけ笑い、その後を追った。
後ろで束ねた長い黒髪を揺らしながら、大きな身体で花壇の間を嬉しそうに歩き回る妻を追いかける。
◇
しばらくして、二人は花壇の前に並んでいた。
エルフリーデはまだ嬉しそうに花々を眺めている。
ヴァルディスも改めて花壇を見渡し、その中でもひときわ鮮やかな赤い花へ目を留めた。
「見事じゃな。やはり、あれが一番じゃ。」
エルフリーデはくすりと笑う。
「私は、どれも好きです。」
「一番はないのか。」
「決められません。」
「なぜじゃ。」
エルフリーデは花壇へ目を向けた。
「だって、みんな一生懸命咲いていますから。」
風が吹き、色とりどりの花が静かに揺れる。
「この子は、この子らしく。あの子は、あの子らしく。誰かになろうとはせず、自分の花を咲かせています。」
ヴァルディスは黙って花壇を見渡した。
赤も。
白も。
青も。
先ほどまで一番だと思っていた赤い花も、今はたくさんの花の中の一輪に見えた。
「だから私は、どれが一番かより……こうして咲いてくれたことが嬉しいんです。」
「……そういうものか。」
「はい。」
エルフリーデは嬉しそうに笑った。
その時だった。
少し離れた場所で、庭師たちが花壇の手入れをしていた。
一人が土を整え、一人が花の様子を確かめ、別の者は水を運んでいる。
エルフリーデがそちらへ歩いていった。
「皆さん。」
庭師たちが振り返り、慌てて頭を下げる。
「皇后陛下。」
「この花壇を作ってくださったのは、皆さんですか?」
「はい。設計を担当した者や、花を選んだ者もおります。皆で相談しながら作らせていただきました。」
エルフリーデの目が少し大きくなる。
「そうだったのですね。」
もう一度、大きな花壇を見る。
そして、心から嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます。こんなに素敵な花壇を作ってくださって、本当にありがとうございます。」
庭師たちが目を瞬かせる。
「い、いえ……我々は、陛下のご命令に従っただけでございます。」
「それでも。」
エルフリーデは首を横に振った。
「どこに何を植えるのか考えて、土を作って、一つ一つ植えてくださったのでしょう?」
「はい。」
「それに、これからもお世話をしてくださる。」
エルフリーデは花壇へ目を向ける。
「皆さんが大切に育ててくださるから、私はこうして花を見ることができます。」
そして、もう一度頭を下げた。
「ありがとうございます。」
庭師たちの顔に、自然と笑みが広がった。
「もったいなきお言葉でございます。」
少し離れた場所で、ヴァルディスはその光景を黙って見ていた。
自分が命じた。
確かに、それはそうだった。
だが。
自分がしたのは、作れと命じただけだった。
どの花を植えるか考えた者がいる。
花壇の形を考えた者がいる。
土を整え、花を植え、毎日世話をする者がいる。
この者たちがいなければ、この花壇はなかった。
そして。
エルフリーデが、あんなにも嬉しそうに笑うこともなかった。
ヴァルディスは花壇を見た。
次に、庭師たちを見る。
「……。」
今までなら、命じた仕事ができている。
それだけで終わっていただろう。
だが、今日は違った。
◇
しばらくして、侍女がお茶を運んできた。
「失礼いたします。」
湯気とともに、優しい花の香りが広がる。
「まあ。この香り……。」
「先日、お好きだとおっしゃっていましたので、庭で咲いた花を乾かしてお茶にいたしました。お身体も温まるそうです。」
エルフリーデは少し驚いた。
「私のために……?」
「はい。」
エルフリーデは両手で茶器を包み込み、香りをそっと吸い込む。
「……ありがとうございます。」
侍女は嬉しそうに頭を下げた。
「もったいないお言葉です。」
侍女が去っていくと、ヴァルディスはその背中を見送った。
「エルフリーデ。」
「はい。」
「お前は……誰にでも礼を言うのじゃな。」
エルフリーデは微笑む。
「はい。」
そして、目の前の花壇を見た。
「花は、一人では咲きません。」
ヴァルディスも花壇へ目を向ける。
「お茶も、お食事も、お城も。誰かが、私のために時間を使ってくださっています。」
エルフリーデは茶器を両手で包んだまま、穏やかに続けた。
「だから私は、その方にありがとうを伝えたいんです。」
ヴァルディスは黙った。
国を強くすること。
戦に勝つこと。
そればかり考えてきた。
命じれば、人は動く。
皇帝とは、そういうものだと思っていた。
だが。
命じただけでは、花は咲かない。
命じただけでは、エルフリーデはあんなふうに笑わない。
自分の言葉を受け取り、考え、手を動かし、形にしてくれた者たちがいる。
だからこそ。
今日、自分はあの笑顔を見ることができた。
ふと、先ほどの庭師が道具を片付けている姿が目に入った。
ヴァルディスは立ち上がる。
「あなた?」
「少し待っておれ。」
ゆっくりと庭師のもとへ歩いていく。
庭師は驚いて振り返った。
「陛下。」
ヴァルディスはその前で立ち止まった。
大きな身体で庭師を見下ろしたまま、長い黒髪をかき上げる。
何と言えばよいのか分からない。
ありがとう。
ただ、それだけの言葉のはずなのに。
いざ口にしようとすると、妙に照れくさい。
ヴァルディスは小さく咳払いをし、大きな花壇を見た。
色とりどりの花が、風に揺れている。
その向こうでは、エルフリーデが嬉しそうにこちらを見ていた。
ヴァルディスは、もう一度庭師へ目を向ける。
「……見事じゃ。」
庭師が目を丸くした。
「よい花壇を作ってくれた。」
少し間を置く。
「……ご苦労だった。」
庭師はしばらく何も言わなかった。
やがて、顔いっぱいに笑みを浮かべ、深く頭を下げる。
「ありがとうございます!」
ヴァルディスは少し照れくさそうに顔を逸らした。
「これからも頼むぞ。」
「はい!」
ヴァルディスは踵を返し、エルフリーデのもとへ戻った。
その姿を、エルフリーデは幸せそうに見つめている。
「なんじゃ。」
「いいえ。」
「ならば、なぜ笑っておる。」
「嬉しいんです。」
「何がじゃ。」
エルフリーデは答えなかった。
ただ、優しく笑っていた。
「……妙なやつじゃ。」
ヴァルディスはそう言って、その隣へ腰を下ろした。
風が吹く。
完成したばかりの大きな花壇で、色とりどりの花が揺れていた。
どの花も。
誰かが考え。
誰かが植え。
誰かが育てたものだった。
ヴァルディスは、その景色を静かに眺める。
その隣では、エルフリーデが花々を眺めながら幸せそうに笑っていた。
その笑顔もまた。
ヴァルディス一人では、咲かせられなかったものだった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。




