第二十二話 春の庭
春。
皇后宮の庭にも、暖かな季節が訪れていた。
柔らかな風が吹き、庭にある小さな花壇を揺らしている。色とりどりの花が、春の陽射しを浴びて咲いていた。
「綺麗ですね。」
エルフリーデは花壇の前で足を止めた。
春風が長い蒼銀の髪を揺らし、その青い瞳が嬉しそうに細められる。
「今年も、綺麗に咲いてくれました。」
ヴァルディスは花壇を見る。
「……そんなに花が好きなのか。」
「はい。大好きです。」
迷うことなく答えたエルフリーデは、もう一度花壇へ目を向けた。
一つ一つの花を眺めるその横顔は、いつにも増して嬉しそうだった。
ヴァルディスは小さな花壇を見て、次に、その花壇を見つめて微笑むエルフリーデを見る。
「……そうか。」
それ以上は何も言わなかった。
◇
「少し、庭を歩きませんか。」
「ああ。今日は気持ちがいいからな。だが、無理はするな。」
「はい。」
二人はゆっくりと歩き始めた。
以前なら、ヴァルディスは前を歩いていた。
今は違う。
歩幅を合わせる。
隣を歩く。
それだけのことが、どこか新鮮だった。
エルフリーデが道端に咲く小さな花へ目を向け、ヴァルディスもつられるように見る。
「花も喜んでおるようじゃ。」
「ふふっ。花の気持ちまで分かるんですか?」
「知らん。」
ヴァルディスは真顔で答えた。
「じゃが、そう見えた。」
エルフリーデは楽しそうに笑う。
静かな時間が流れた。
その時だった。
小さな石に足を取られる。
「あっ……。」
エルフリーデの身体が傾き、ヴァルディスは反射的に腕を伸ばした。
鍛えられた腕が、その細い身体をしっかりと支える。
「……大丈夫か。」
「はい。驚かせてしまいました。」
エルフリーデは少し恥ずかしそうに微笑む。
ヴァルディスは答えず、肩に添えた手をそのまま離さなかった。
「転ぶぞ。」
「はい。気をつけます。」
歩き出そうとするエルフリーデを、ヴァルディスは呼び止める。
「待て。」
少しだけ目を逸らしながら、ぎこちなく腕を差し出した。
「……つかまっておれ。」
エルフリーデは一瞬目を丸くし、やがて優しく笑った。
「ありがとうございます。」
その腕に、エルフリーデの白い手がそっと添えられた。
二人はまた歩き出す。
春風が、並んで歩く二人の黒髪と蒼銀の髪を揺らしていく。
今度は、少しだけ近い距離で。
「これなら、転ばん。」
「はい。」
エルフリーデは嬉しそうに頷いた。
その笑顔に、ヴァルディスは照れくさそうに咳払いをする。
しばらく歩くと、花壇の向こうで小鳥が羽ばたいた。
「見てください。今年も、あの鳥が来ています。」
エルフリーデが指をさす。
ヴァルディスが視線を向けた、その瞬間。
ごつっ。
「あ。」
石につまずき、大きな身体が前へ傾いた。
腕につかまるエルフリーデを、咄嗟に支える。
踏ん張る。
踏ん張るが。
どすん。
片膝をついた。
しばらく沈黙が流れる。
エルフリーデは目をぱちぱちさせた。
そして。
「ふふっ。」
笑った。
肩を震わせながら笑う。
「申し訳ありません。ですが……ふふふっ。」
笑いが止まらない。
ヴァルディスは耳まで赤くなった。
「笑うでない。」
「失礼しました。」
そう言いながらも、まだ笑っている。
ヴァルディスは照れ隠しに鼻を鳴らした。
「ふん、石が悪い。」
その一言で、エルフリーデはまた吹き出した。
「ふふふっ……。」
笑い声が春の庭へ溶けていく。
やがて、笑いすぎたのだろう。
エルフリーデの目尻に、小さな涙が浮かんだ。
ヴァルディスは慌てる。
「ど、どうした。どこか痛めたか。」
エルフリーデは首を横に振り、くすくす笑いながら目元をそっとぬぐう。
「違います。笑いすぎただけです。」
ヴァルディスはしばらく黙った。
「……そうか。」
ほっとしたように息を吐く。
エルフリーデは、そんなヴァルディスを見つめた。
「でも。」
「私は、そんなあなたが好きです。」
ヴァルディスが顔を上げる。
「……何?」
「あなたは、何度転んでも立ち上がる方です。」
エルフリーデは優しく微笑んだ。
「戦でも。政でも。何度壁にぶつかっても、いつも前へ進んでこられました。」
ヴァルディスは黙って聞いている。
「だから、転ぶことは恥ずかしいことではありません。」
少しだけ照れたように目を伏せる。
「そんなあなたを、私は誇りに思っています。」
風が吹き、花びらが二人の間を舞っていった。
ヴァルディスはしばらく黙っていた。
やがて、小さく咳払いをする。
「そういうことは、急に言うでない。」
「はい。」
エルフリーデは笑った。
ヴァルディスは照れくさそうに前を向き、二人はまたゆっくりと歩き出した。
春風が、花びらを静かに運んでいった。
◇
エルフリーデを皇后宮まで送り届けたあと、ヴァルディスは一人の家臣を呼び止めた。
「おい。」
「はい、陛下。」
ヴァルディスは庭へ目を向ける。
先ほどまで二人で歩いていた庭。その片隅には、エルフリーデが嬉しそうに眺めていた小さな花壇がある。
「……この庭にな。」
「はい。」
少し間を置く。
「もっと大きな花壇を作れ。」
家臣が目を瞬かせた。
「花壇、でございますか?」
「ああ。」
ヴァルディスは小さな花壇を見る。
「あれはそのままでよい。別に作れ。」
「承知いたしました。大きさはいかほどに?」
「大きければ大きいほどよい。」
「かしこまりました。どのようなお花を植えましょうか。」
ヴァルディスは少し考えた。
先ほどのエルフリーデの笑顔が浮かぶ。
「……いろいろじゃ。色も大きさも様々でいい。」
「いろいろ、でございますか。」
「ああ。春だけではない。できるだけ長く花が見られるようにせよ。」
家臣は一瞬だけヴァルディスを見る。
「かしこまりました。」
一礼し、ほんの少しだけ笑った。
「皇后陛下も、お喜びになられるでしょう。」
「……。」
ヴァルディスは目を逸らした。
「……誰がエルフリーデのためだと言った。」
「左様でございますか。」
「そうだ。」
家臣はそれ以上何も言わなかった。
ただ、その口元には小さな笑みが浮かんでいる。
ヴァルディスはもう一度、小さな花壇へ目を向けた。
春の陽射しの中、色とりどりの花が風に揺れている。
「それと。」
「はい。」
「……急いで作れ。」
家臣がわずかに目を見開いた。
「できるだけ早くだ。」
「承知いたしました。」
――皇后宮の庭は広い。小さな花壇だけでは寂しいからのう。
ヴァルディスはしばらく庭を眺めると、何事もなかったように踵を返した。
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