第二十一話 夕暮れの食卓
翌朝。
まだ空が白み始めたばかりの頃、皇城は静まり返っていた。
執務室の扉が開く。
ヴァルディスだった。
誰もいない部屋へ入り、机の前に立つと、そこには書類の山が待っていた。
ここ数日、皇后宮を離れなかった分、政務は山積みになっている。今日中に決裁しなければならない案件だけでも少なくない。
ヴァルディスは小さく息を吐き、後ろで束ねた長い黒髪をかき上げた。
「……よし。」
大きな身体を椅子へ収め、最初の書類を手に取る。
静かな執務室に、紙をめくる音だけが響いた。
しばらくして、廊下から足音が近付いてくる。
扉が開いた。
「……陛下!?」
年長の側近は思わず足を止めた。
「もうお越しでございましたか。」
「遅い。」
「申し訳ございません。」
ヴァルディスは軽く頷く。
やがて他の側近や文官たちも集まり始め、全員が揃うと、ヴァルディスは机から顔を上げた。
「始めるぞ。」
短く言う。
そして。
「今日は夜までに終わらせる。」
執務室が静まり返った。
年長の側近が尋ねる。
「何か、ご予定でも。」
ヴァルディスは書類へ目を落としたまま答えた。
「……用事がある。」
それだけだった。
年長の側近はほんの少しだけ微笑む。
「承知いたしました。本日中に必要な案件を優先いたします。」
「うむ。」
それ以上、誰も聞かなかった。
その日、執務室は目まぐるしく動いた。
書類が運ばれ、判が押され、伝令が城中を駆け回る。必要な報告だけが簡潔に告げられ、ヴァルディスは次々と決断を下していった。
昼を過ぎても、その勢いは衰えない。
やがて、窓の外が夕暮れ色に染まり始めた頃、最後の決裁が終わった。
年長の側近が一礼する。
「本日中に必要な政務は、すべて終了いたしました。」
ヴァルディスは書類のなくなった机を見る。
「そうか。」
静かに立ち上がった。
「よし、行ってくる。」
「はい。どうぞ、お気をつけて。」
年長の側近が深く頭を下げると、ヴァルディスは頷き、執務室を後にした。
扉が閉まる。
若い文官が首を傾げた。
「陛下は、どちらへ?」
年長の側近は窓の外へ目を向ける。
夕日が城を赤く染めていた。
「……さあな。」
それ以上何も言わず、穏やかに笑った。
◇
皇后宮。
ヴァルディスは扉の前で立ち止まった。
服を整え、後ろで束ねた長い黒髪にも手をやる。
もう一度、服を整える。
深く息を吸い、小さく咳払いをした。
「……入るぞ。」
「はい。」
優しい声が返ってくる。
扉を開けると、夕日の差し込む部屋に食卓があった。
二人分の料理。
湯気の立つスープ。
焼きたてのパン。
そして。
蒼銀の髪を肩へ流し、穏やかな青い瞳でヴァルディスを見るエルフリーデ。
「お帰りなさい。」
ヴァルディスは少し目を逸らす。
「……うむ。待たせたか。」
「いいえ。今ちょうど、そろったところです。」
向かい合って座り、食事が始まる。
静かな時間だった。
ヴァルディスは肉を一口食べる。
「……うまい。」
エルフリーデの表情がぱっと明るくなった。
「本当ですか?」
「うむ。」
「それは良かったです。」
その笑顔を見るだけで、自然ともう一口、口へ運んでいた。
「今日は、陛下のお好きなお料理ばかりなんですよ。」
ヴァルディスは皿を見る。
「そうなのか。」
「料理長にお願いしました。お忙しい日だと思いましたので。」
ヴァルディスは少し照れくさそうに咳払いをする。
「余計な気を遣いおって。」
エルフリーデはくすりと笑った。
「申し訳ありません。」
また静かな時間が流れる。
パンをちぎる音。
スープを飲む音。
窓の外では、静かに風が草を揺らしていた。
ヴァルディスはふと尋ねる。
「いつも、こんなにゆっくり食べるのか。」
エルフリーデは笑った。
「一人の時は、もう少し早いですよ。」
「そうなのか。」
「はい。」
少し恥ずかしそうに目を伏せる。
「今日は、あなたが一緒ですから。」
ヴァルディスの手が止まった。
「……。」
何も言わず、パンを口へ運ぶ。
「ごほっ!」
返事ができなかった。
「ふふっ、大丈夫ですか?」
「……大丈夫じゃ。」
ヴァルディスは誤魔化すようにスープを飲む。
黒髪の隙間から覗く耳まで、赤くなっていた。
食事が終わる頃、エルフリーデがお茶を注いだ。
湯気がゆっくりと立ちのぼる。
「今日は、とても楽しい夕食でした。」
ヴァルディスは驚く。
「ほとんど話しておらんぞ。」
「はい。」
エルフリーデは微笑んだ。
「でも、楽しかったです。」
その一言が、ヴァルディスの胸を静かに満たした。
「……そうか。」
少し間を置き、照れ隠しのように咳払いをする。
「では。」
「明日も……夜までには帰る。」
エルフリーデは目を見開いた。
「……明日も?」
「ああ。」
「夕食までには帰る。」
その瞬間、エルフリーデの顔に、隠しきれないほどの喜びが広がった。
「はい。」
その返事は、少しだけ弾んでいた。
「お待ちしています。」
◇
帰り道。
月明かりのもと、ヴァルディスは立ち止まった。
「夕食とは……。」
小さく呟く。
「悪くない。」
その日から、ヴァルディスはどれほど政務が忙しくても、夕食までには仕事を終えるようになった。
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