第二十話 はじまり
朝日が、皇后宮の窓から静かに差し込んでいた。
ヴァルディスは目を覚ました。
いつの間にか、椅子にもたれたまま眠っていたらしい。
手を見ると、細く白い手をずっと握ったままだった。
「……。」
少し慌てて力を緩める。
起こしてしまっただろうか。
そう思った時だった。
「おはようございます。」
穏やかな声が聞こえた。
エルフリーデが微笑んでいた。
朝の光を受けた蒼銀の髪が、枕の上に柔らかく広がっている。まだ顔色は白かったが、その青い瞳は穏やかにヴァルディスを見つめていた。
「……起こしてしまったか。」
「いいえ。」
「手は痛くないか。」
「温かかったですよ。」
エルフリーデの細い指が、ヴァルディスの大きな手の中に収まっている。
剣を握り続けて硬くなった、傷の残る手だった。
その一言だけで、ヴァルディスは返す言葉を失った。
戦場では、どんな相手にも言葉で負けたことはない。だが、この人だけは違う。
「……腹は減っておらんか。」
ようやく出た言葉だった。
エルフリーデは少し笑う。
「少しだけ。」
「そうか。」
ヴァルディスは勢いよく立ち上がった。
「何でも持ってこさせよう。果物でも、肉でも魚でも――」
「そんなに食べられませんよ。」
「……そうか。」
また黙る。
部屋が静かになった。
気まずい。
戦場では静寂など恐れたことはない。なのに、この静けさだけは落ち着かなかった。
しばらくして、侍女がお茶を運んできた。
「失礼いたします。」
静かに盆を置くと、エルフリーデは微笑んだ。
「ありがとう。」
侍女も笑顔で頭を下げる。
「もったいないお言葉です。」
侍女が部屋を出ていくと、ヴァルディスは閉まった扉をしばらく見つめていた。
「……エルフリーデ。」
「はい。」
「皇后が礼を言う必要があるのか。」
エルフリーデは少し首を傾げた。
「どうしてですか?」
「礼を言うのは、何かをしてもらった者じゃろう。」
「お茶を運んでくださいました。」
「それは仕事じゃ。」
「仕事でも、私のためにしてくださいました。」
ヴァルディスは黙った。
そんなふうに考えたことはなかった。
「ありがとう、と言われて嫌な人は、あまりいませんよ。」
エルフリーデはお茶を一口飲み、少し笑った。
「それに、私は嬉しかったんです。」
「……何がじゃ。」
「あなたと一緒に、お茶を飲めることが。」
ヴァルディスは思わず湯飲みを見る。
ただのお茶だった。
昨日までなら、飲む時間すら惜しいと思っていた。
それなのに。
今日は違って見えた。
「……そういうものか。」
「そういうものですよ。」
また静かになる。
けれど、昨日ほど苦しくはなかった。
窓の外で小鳥が鳴き、エルフリーデがその声に耳を傾ける。
「今日は良いお天気ですね。」
ヴァルディスも外を見る。
青い空。庭の木々。風に揺れる花。
「……そうじゃな。」
それだけだった。
それだけなのに、エルフリーデは嬉しそうだった。
「あなた。」
「なんじゃ。」
「今日は政務へ行かれるのですか。」
ヴァルディスは少し考えた。
昨日なら迷わなかった。
今日も迷うはずだった。
机には山のような書類がある。将軍たちも待っている。報告もある。決めることも山ほどある。
だが。
目の前には、エルフリーデがいた。
「……今日は、ここにおる。」
自然と口から言葉が出た。
「お前と一緒におる。」
エルフリーデは目を丸くした。
そして。
花が咲くように笑った。
白かった頬に、ほんの少しだけ温かな色が戻る。
「嬉しいです。」
その笑顔を見た瞬間、ヴァルディスは思った。
国を一つ落とした時よりも。
強敵を討ち取った時よりも。
その一言のほうが。
なぜか胸を満たしていた。
部屋には、静かな時間が流れていた。
何を話せばいいのか、まだ分からない。
どう過ごせばいいのか。それも分からない。
それでも。
ヴァルディスは初めて思った。
――分からないなら。
これから知ればいい。
ヴァルディスは、そっとエルフリーデの手を握り直した。
その温もりを。
もう二度と、明日に預けないために。
そして。
その日から、ヴァルディスは毎日、皇后宮へ足を運ぶようになった。
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