第十九話 扉の向こう
23年前。
アルディア帝国の皇城に、豪快な笑い声が響いていた。
「はっはっはっ! よく生きて戻った!」
ヴァルディスは大きな杯を掲げた。
後ろで束ねた長い黒髪が、その動きに合わせて揺れる。鍛え上げられた大きな身体にも、まだ老いの影はほとんど見えない。
広間には戦場から戻った将兵たちが集まり、鎧を脱ぎ、傷を酒の肴にしながら誰もが声を上げて笑っていた。
「陛下が敵陣へ飛び込まれた時は、さすがに肝が冷えましたぞ!」
一人の将軍が言うと、ヴァルディスはさらに大きく笑った。
「何を言う! おぬしらが遅いから、わしが先に行っただけではないか!」
「陛下に合わせられる兵など、この帝国にはおりません!」
「ならば鍛え直せ!」
「明日からでよろしいでしょうか!」
「今からじゃ!」
広間が揺れるほどの笑いが起き、ヴァルディスも笑った。
戦いは好きだった。勝利も好きだった。仲間と酒を飲み、互いの武勇を語り合う時間も好きだった。
皇帝となってからも、それは変わらない。
政務をこなし、軍を率い、国を広げる。夜になれば酒を飲み、気が向けば側室の部屋へ向かう。
ヴァルディスは、自らの人生を大いに楽しんでいた。
帝国は強くなっている。息子たちも育っている。自分の身体にも、まだ衰えはない。
何も恐れるものなどなかった。
宴が終わる頃には、日付が変わっていた。
ヴァルディスは将軍たちの肩を叩き、笑いながら広間を後にした。
「もう帰れ帰れ! 家族が待っておる者は待たせるな!」
将軍が笑う。
「陛下は?」
「わしはまだ仕事じゃ!」
「それは笑えませんな。」
「はっはっはっ!」
側近たちを引き連れ、廊下を歩く。
その途中だった。
一人の侍女が、壁際で深く頭を下げた。
「陛下。」
「うむ?」
「皇后陛下が、先ほどまで陛下のお帰りをお待ちになっておりました。」
ヴァルディスの足が止まり、先ほどまで響いていた笑い声がぴたりと消える。
「……エルフリーデが?」
「はい。ですが、もう夜も遅いため、お休みになられました。」
「……そうか。」
ヴァルディスは短く答え、再び歩き始める。
皇后宮へ続く道とは、反対の方向へ。
側近の一人が、不思議そうに振り返った。
「お会いになられないのですか?」
「もう寝ておると言ったではないか。」
「皇后陛下でしたら、陛下がお見えになればお喜びになるかと。」
「起こしては気の毒じゃろう。」
「しかし――」
「よい。」
声は強かった。
戦場で命令を下す時と同じ、有無を言わせぬ声だった。
側近は、それ以上何も言わなかった。
ヴァルディスはそのまま自室へ戻り、侍従たちを下がらせて一人になった。
窓の外には夜の皇城が広がっている。遠くに皇后宮が見え、いくつかの窓にはまだ薄く灯りが残っていた。
ヴァルディスは、しばらくそこを眺めていた。
会いに行こうと思えば、すぐに行ける。
わずかな距離だった。
それなのに、足が向かない。
エルフリーデを嫌っているわけではない。
その逆だった。
初めて出会った時から、彼女だけは特別だった。
誰よりも優しかった。
だが、その優しさは決して人に流される優しさではない。譲るところは譲る。けれど、大切なものだけは決して譲らない。
それが、エルフリーデという人だった。
だから不思議だった。
誰よりも穏やかなのに、誰よりも強く見えた。
戦場でどれほど強大な敵と剣を交えても、負ける気はしなかった。
だが――。
彼女の静かな強さだけは、最後まで敵わない気がしていた。
だからこそ、困るのだ。
将兵とは夜明けまで語れる。側室の前でも笑って酒を飲める。
……なのに。
エルフリーデの前へ立つと、何を話せばよいのか分からなくなる。
妙なものだ。
戦場では迷わんというのに。
結局いつも、政務や戦を理由に離れてしまう。
明日でよい。
次に帰った時でよい。
いつでも会える。
そう思い続けてきた。
ヴァルディスは皇后宮の灯りから目を逸らし、黒髪をかき上げるようにして小さく息を吐いた。
「……明日にするか。」
誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。
◇
翌朝。
ヴァルディスはいつも通り政務へ向かった。
前日の戦について報告を受け、領地の再編を命じ、各地から届いた陳情に目を通す。昼を過ぎても仕事は終わらなかった。
エルフリーデのことは、何度か頭に浮かんだ。
だが、一区切りついてから行けばよいと思った。
夕刻になれば将軍たちが戦後の報告に訪れ、そのまま話は酒席へと変わった。
気付けば、また夜になっていた。
翌日も。
その翌日も。
同じように過ぎていった。
エルフリーデは何も言わなかった。会いに来てほしいとも、寂しいとも言わない。
だからヴァルディスも、まだ大丈夫だと思っていた。
いつか時間ができる。
戦が落ち着けば。
帝国が安定すれば。
息子たちが一人前になれば。
その時こそ、ゆっくり話せばよい。
そう信じていた。
◇
数日後。
ヴァルディスは執務室で、山のような書類と格闘していた。
「これほど判を押さねば国は動かぬのか!」
「陛下が決裁を溜めておられたからです。」
「戦場では一太刀で済むものを!」
「書類を斬られては困ります。」
側近の冷静な返答に、ヴァルディスが鼻を鳴らした、その時だった。
扉が乱暴にノックされる。
「入れ!」
「陛下!」
侍女が駆け込んできた。
ヴァルディスの表情が変わる。
「どうした。」
「皇后陛下が……!」
ヴァルディスは椅子を蹴るようにして立ち上がった。
「エルフリーデがどうした!!」
侍女が怯えるほどの声だった。
「今朝からお加減が悪く……先ほど、意識を失われました。」
ヴァルディスは返事もしなかった。
机を回り込み、そのまま執務室を飛び出す。
廊下を走った。
側近も近衛も置き去りにする勢いだった。
戦場でも、これほど心臓が騒いだことはなかった。
皇后宮が遠い。
いつもなら、わずかな距離のはずなのに。
何度も通り過ぎた廊下。
何度も向かおうとして、足を止めた場所。
そこが今は、果てしなく遠く感じられた。
「エルフリーデ!」
扉を開け放つ。
寝台の周りには侍女と宮廷医師が集まり、その中央でエルフリーデが横になっていた。
顔色は白く、目を閉じて静かに息をしている。
ヴァルディスは、寝台の前で立ち尽くした。
つい先ほどまで、どんな命令でも迷わず下していた男が。
何万人もの兵を率いてきた男が。
何をすればよいのか、分からなかった。
「……どういうことじゃ。」
宮廷医師が頭を下げる。
「詳しくお調べしなければ、まだ何とも……。」
「ならば調べよ。」
「はい。」
「今すぐじゃ!」
思わず声が上ずった。
ヴァルディス自身、そのことに気付いていた。
医師たちが診察を続ける間、ヴァルディスは部屋の隅に立っていた。椅子を勧められても座らず、ただエルフリーデを見ていた。
閉じられた瞼。
細い呼吸。
力の抜けた手。
その手に触れようとして、ヴァルディスは腕を伸ばした。
だが、指先が届く前に止まる。
触れてよいのか分からなかった。
夫婦になって何十年も経つというのに、彼女の手を取ることすらひどく緊張した。
やがて、エルフリーデの瞼がかすかに動いた。
「……あなた?」
弱い声だった。
ヴァルディスの肩が揺れる。
「おお、わしじゃ。」
慌てて寝台へ近づく。
「気分はどうじゃ。どこが苦しい。医師は何をしておる。すぐに帝国中から名医を――」
「あなた。」
静かに呼ばれ、言葉が止まる。
エルフリーデは、弱々しくも微笑んでいた。
「来てくださったのですね。」
その言葉が、胸を貫いた。
責める声ではなかった。皮肉でもない。
ただ、嬉しそうだった。
まるで、ずっと待っていたかのように。
ヴァルディスは何も言えなくなった。
来てくださった。
ただそれだけの言葉が、あまりにも重かった。
「当たり前じゃろう。お前が倒れたと聞けば、来るに決まっておる。」
「そうですね。」
エルフリーデは笑った。
その笑顔を見て、ヴァルディスは少しだけ顔を背ける。
病に倒れた妻を前にしてまで、まともに目を合わせられない自分が情けなかった。
「陛下。」
宮廷医師が低い声で呼んだ。
その表情を見ただけで、ヴァルディスには分かった。
良い知らせではない。
「皇后陛下のお身体には、以前から病が進んでいたものと思われます。」
「治せ。」
ヴァルディスは即座に言った。
「薬でも術でも構わん。必要なものは全て用意する。」
「陛下――」
「帝国になければ他国から持ってこい。医師が足りぬなら世界中から集めよ。金はいくら使ってもよい。」
医師は黙った。
その沈黙に、ヴァルディスの声が荒くなる。
「何をしておる! 早く動け!」
「……手は尽くします。」
「尽くすではない。治せと言っておる!」
部屋の空気が震え、侍女たちが顔を伏せる。
しかし、エルフリーデだけは穏やかだった。
「あなた。」
「なんじゃ。」
「皆さんを困らせてはいけませんよ。」
「困らせてなどおらん!」
「困っています。」
「……。」
「お顔を見れば分かります。」
ヴァルディスは医師たちを見る。
全員が目を逸らした。
「ならば困りながら治せばよい!」
エルフリーデが、かすかに笑った。
その笑い方は昔から変わらない。
ヴァルディスがどれほど怒鳴っても、慌てても、彼女は少しも恐れなかった。
「あなたらしいですね。」
「笑っておる場合か。」
「申し訳ありません。」
そう言いながらも、エルフリーデはまだ微笑んでいた。
ヴァルディスは唇を噛んだ。
何かを言わなければならない。
大丈夫だと。
必ず治すと。
何も心配するなと。
戦場で兵を鼓舞する時なら、いくらでも言葉が出てくる。
だが彼女を前にすると、どの言葉も薄く感じられた。
エルフリーデが、寝台の上から手を伸ばした。
ためらいながら。
遠慮するように。
「あなた。」
ヴァルディスは、その手を見つめた。
「少しだけ、ここにいてくださいませんか。」
その願いに、胸が詰まった。
褒美を求めたことはない。見返りを望んだこともない。
何十年も待たせた夫に向かって、ただ、ここにいてほしいと言った。
ヴァルディスは、伸ばされた手を取った。
細く、温かかった。
その温もりを、これまで自分はどれほど知っていただろう。
「……少しと言わず、おる。」
声が掠れた。
「今日は、ここにおる。」
エルフリーデの瞳が少しだけ大きくなり、そして嬉しそうに細められた。
「ありがとうございます。」
礼を言われるようなことではない。
夫が妻の傍にいる。
本来なら、それだけのことだった。
だが、ヴァルディスにとっては違った。
戦場へ向かうよりも。
敵国の王と対峙するよりも。
この部屋に残ると決めることのほうが、なぜか勇気を必要とした。
何を話せばよいのか分からない。どう過ごせばよいのかも分からない。
それでも、手だけは離さなかった。
しばらくすると、エルフリーデは再び眠りについた。
ヴァルディスは椅子に座り、その寝顔を見つめていた。
医師も侍女も部屋を出ていく。
夕日が沈み、夜が来ても、ヴァルディスはそこにいた。
やるべき政務はいくらでもあった。将軍たちも待っているだろう。今夜は側室の一人を訪ねる予定もあった。
だが、どこへも行こうとは思わなかった。
眠る彼女の手を握りながら、ヴァルディスは初めて考えた。
エルフリーデと、自分は何を話してきただろう。
何を見てきただろう。
何を、一緒に笑ってきただろう。
思い返しても、驚くほど何も浮かばなかった。
共に過ごす時間は、いくらでもあると思っていた。
明日でもよいと思っていた。
だが。
その明日は、本当に来るのだろうか。
ヴァルディスは、眠る妻の手を強く握った。
「……エルフリーデ。」
返事はない。
その名を、こんなにも愛おしく呼んだのは初めてだった。
「目を覚ましたら……。」
少しだけ間が空く。
「……何を話せばよい。」
戦い方なら知っている。
国の治め方も知っている。
人を従わせることも。
人を守ることも。
だが。
ただ一人。
最も愛している人と、どう生きればよいのか。
ヴァルディスは、何も知らなかった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。




