第十八話 帝国が揺れた日
「止めろ! 何としても大帝陛下をお止めしろ!」
「お止めできません!」
「なぜだ!」
「正式決闘が成立しております!」
「急ぎ、決闘裁定官にも連絡を!」
「はっ!」
「勝敗は、どちらかが降参するか、戦闘不能になるまで決しない……。」
「そんな……。」
「このままでは、本当に……。」
「口にするな!」
重苦しい沈黙が流れた。
帝国の正式決闘。
それは双方が承諾した時点で成立し、決着がつくまで第三者の介入は一切許されない。
建国以来、変わることのない帝国の掟だった。
◇
大帝ヴァルディスと皇帝ジークハルトが決闘する。
その知らせは、瞬く間に帝都を駆け巡った。
最初は誰も信じなかった。
冗談だ。
噂だ。
誰かが面白半分に流した話だろう。
だが、皇帝直属の近衛騎士団が闘技場の封鎖を始め、観客席の整備、貴族席の設営、皇族席の準備が進められていく。
すべてが、正式決闘のためだった。
「……本当なのか。」
「大帝陛下と皇帝陛下が?」
「親子で、剣を交えるというのか……。」
「何のために?」
誰にも分からなかった。
少なくとも、帝国の歴史に前例のない決闘だった。
◇
「おじい様!」
廊下を歩いていたヴァルディスが足を止める。
振り返ると、リューベルがこちらへ駆けてきていた。
「おう、リュー。」
いつものように笑いかける。
だが、リューベルは笑わなかった。
ヴァルディスの前で立ち止まり、不安そうに顔を見上げる。
「お父様と、戦うんですか?」
ヴァルディスは一瞬だけ黙った。
「……ああ。」
「どうしてですか?」
「…………。」
ヴァルディスは答えなかった。
リューベルは少しだけ俯く。
「お父様も。」
「おじい様も。」
「仲良しなのに。」
ヴァルディスはその小さな顔を見つめた。
やがて、その場にしゃがみ込み、リューベルの潤んだ青灰色の瞳を見つめる。
「リュー。」
大きな手を、そっと頭へ乗せた。
「安心せい。」
「わしは、ジークが大好きじゃ。」
リューベルが目を瞬かせる。
「……本当ですか?」
「当たり前じゃ。」
ヴァルディスは穏やかに笑った。
「わしの大事な息子じゃからな。」
リューベルはしばらくヴァルディスを見つめていた。
「……お父様のこと、嫌いになってない?」
「なるわけないじゃろ。」
大きな手で、くしゃりと頭を撫でる。
「ジークは、何があってもわしの息子じゃ。じゃから、何も心配せんでええ。」
リューベルの表情が、ほんの少しだけ和らいだ。
「……はい。」
「よし。」
ヴァルディスはにこりと笑い、もう一度クリーム色の髪を撫でた。
「いい子じゃ。」
リューベルは小さく頷き、それでも何度か振り返りながら廊下の向こうへ歩いていく。
ヴァルディスは、その小さな背中が見えなくなるまで笑顔で見送っていた。
やがて、その姿が完全に見えなくなる。
ヴァルディスの笑みが、静かに消えた。
長い白髪をかき上げ、小さく息を吐く。
◇
城の喧騒から離れた、森の先にある小高い丘。
一人の男が、その頂を目指して歩いていた。
そこにいるのは、大帝ヴァルディスではない。
亡き妻に会いに来た、一人の夫だった。
丘の先には一つの墓があり、季節の花が静かに咲いている。雑草は一本もなく、墓石はいつものように丁寧に磨かれていた。
ヴァルディスは墓石の前まで歩くと、その場にゆっくりと腰を下ろす。
夏の終わりを告げる爽やかな風が、後ろで束ねた長い白髪を揺らした。
かつて戦場を駆けた大きな身体も、七十年の歳月を経て少し細くなっている。
しばらく何も言わず、墓石を見つめる。
やがて。
「エル、すまんのう。」
困ったように頭をかく。
「ジークと決闘することになってしもうた。」
風が静かに草花を揺らした。
「あやつも、頑固でのう。」
そこまで言って、ヴァルディスは苦笑する。
「……いや。」
「わしも同じか。」
しばらく墓石を眺め、やがて小さく息を吐いた。
「さっき、リューには言ったんじゃ。ジークは、わしの大事な息子じゃとな。」
その表情が、少しだけ曇る。
「……今さらじゃな。」
ヴァルディスは自嘲するように笑った。
「本人には、ろくに言ってやれんかったくせに。」
返事はない。
ただ、風が頬を撫でていった。
「あやつに言われた。父上の背中だけを見て生きてきた、と。」
「父上に認められたくて、剣を振ってきたとな。」
ヴァルディスの大きな手が、膝の上でゆっくりと握られる。
「……あやつは。」
少しだけ言葉に詰まる。
「ほんに、真っ直ぐな子じゃったんじゃな。」
幼い頃のジークハルトが脳裏に浮かぶ。
剣を握り、転んでも立ち上がり、父の言葉を疑うことなく何度でも剣を振っていた少年。
その先に、今のジークハルトがいる。
「あやつは、わしの教えを守っただけなんじゃ。」
「強くなれ。弱さを見せるな。誰にも負けるな。」
「そう言い続けた。」
ヴァルディスは目を閉じる。
「それを守って皇帝になった息子に、今度は変われと言うとる。」
小さく笑った。
「……勝手な父親じゃのう。」
長い沈黙が流れた。
やがて、ヴァルディスは墓石へ手を添える。
「リューを守りたい。」
「あの子が笑えんようになるまで頑張る必要なんぞない。それだけは……譲れん。」
だが、その声には迷いが残っていた。
「じゃが……。」
ヴァルディスは俯く。
「ジークも、お前とわしの大事な息子じゃ。」
「傷つけたいわけではない。あやつの生き方を否定したいわけでもない。」
「ああなったのは……わしが、そう教えたからじゃ。」
墓石へ添えた手に、わずかに力が入る。
「それでも……。」
顔を上げた。
「止めねばならん。」
「このままでは、ジークはいつか……わしと同じ後悔をする。それだけは、させとうない。」
空は高い青だった。
ヴァルディスは空を見上げ、再び墓石に目を移す。
やがて、ふっと笑った。
「それにしても……ジークは強い。」
その声には、ほんの少しだけ誇らしさが滲んでいた。
現役最強と呼ばれる皇帝。
かつて自分の背中を追っていた少年は、もうとっくに、自分の足で歩いている。
ヴァルディスは自分の手へ目を落とした。
若い頃とは違う。節の浮いた、老いた手だった。
「わしも、もう歳じゃ。」
少しだけ間を置く。
「……負けるかもしれん。」
その言葉を口にすると、ヴァルディスはしばらく墓石を見つめていた。
やがて、その表情から不安が少しずつ消えていく。
「……じゃがな。」
穏やかに笑う。
「安心してくれ。何があっても、お前との約束は守る。」
少し照れくさそうに頭をかいた。
「ただ……。」
「少しだけ。」
墓石に添えた手を、そのままに。
「力を貸してくれ。」
「エル。」
風がふわりと吹き抜けた。
青い花びらが一枚、墓石の前へ舞い落ちる。
ヴァルディスはそれを見つめ、小さく微笑んだ。
「……覚えておるか。」
「あの日々を。」
目を閉じる。
その脳裏に、もう一度会いたい人の笑顔が浮かんだ。
「わしが、一番幸せじゃった、あの日々を。」
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
次回からは、ヴァルディスとエルフリーデの過去を描いていきます。




