第十六話 二つの教え
朝。
リューベルは静かに目を覚ました。
まだ身体は重く、胸の奥にも昨日泣いたあとの痛みが残っている。それでも、ゆっくりと起き上がった。
着替えを済ませ、木剣を手に取る。
部屋を出ようとした、その時だった。
「もう少し休みなさい。」
振り返ると、そこにはヴァルディスが立っていた。
リューベルは少しだけ首を傾げる。
いつものおじい様と、少し違う。
声は優しい。表情も穏やかだ。
なのに、鋼色の瞳だけはいつもより真剣に見えた。
「おじい様……大丈夫です。」
少し痩せた頬に、いつもの笑みを浮かべ、リューベルは木剣を握り直した。
「今日は訓練があります。休めません。」
ヴァルディスは何も言わなかった。
昨日、自分の胸で泣き崩れた孫の姿が浮かぶ。
本当なら、今すぐその木剣を置かせてやりたい。だが、無理に止めれば、この子はきっと自分を責める。
だから。
ヴァルディスは静かに道を開け、にこりと微笑んだ。
「……無理はするでない。」
「はい。」
リューベルは小さく頭を下げ、訓練場へ向かっていく。
その背中が見えなくなるまで、ヴァルディスは黙って見送った。
そして、ゆっくりと歩き出す。
昨日までとは違う。
顎をわずかに引き、まっすぐ前だけを見る。
その足取りに、もう迷いはなかった。
廊下ですれ違った家臣が、ヴァルディスに声を掛けようとする。
「大帝陛――」
だが、途中で口を閉じた。
何も言わず、深く頭を下げて道を譲る。
その先でも、一人、また一人と同じように道を開けていった。
ヴァルディスは何も言わず、その間を歩いていく。
◇
木剣の音が響く。
カン。
カン。
「もう一度。」
「はい!」
リューベルは木剣を振る。
腕は重く、息も上がっている。それでも剣は止まらない。
「視線を上げなさい。」
「はい!」
ヴァルディスは離れた場所から、その姿を見つめていた。
昨日までとは違う。
もう、見守るためではない。
守るために来た。
◇
その時だった。
隣で訓練していた少年が足をもつれさせ、転んだ。
「っ……。」
小さな声が漏れる。
リューベルは反射的に一歩踏み出した。
「大丈夫ですか。」
手を差し伸べようとした、その瞬間。
「リューベル殿下。」
ギュンターの声が響き、リューベルの動きが止まる。
「訓練中です。」
「他者を見るな。」
「まずは自分を鍛えなさい。」
リューベルは差し伸べかけた手を見つめ、ゆっくりと引っ込めた。
「……はい。」
もう一度、木剣を構える。
ヴァルディスは黙ってその姿を見つめていた。
その眼差しが、わずかに険しくなる。
かつて、自分はあの子に何と教えた。
――誰かが転んでおったら、手を貸してやれ。
その言葉は、今もはっきりと覚えている。
だが、ヴァルディスは何も言わなかった。
まだだ。
最後まで、自分の目で確かめる。
◇
訓練は続く。
「もう一度。」
「はい。」
木剣が鳴る。
「違う。」
「はい。」
「もう一度。」
リューベルは何も言わず、木剣を構え直した。
木剣が震え、足もふらつく。それでも踏みとどまる。
「大丈夫です。」
誰に聞かれたわけでもない。
自分に言い聞かせるようだった。
ヴァルディスの胸が痛む。
昨日も、この子はそうだった。
泣き崩れるその時まで、大丈夫なふりをしていた。
ヴァルディスはリューベルの小さな背中を見つめ、静かに拳を握った。
◇
日が傾き始める。
「本日の訓練は以上です。」
ギュンターの声が響き、訓練生たちが一斉に頭を下げた。
リューベルも深く礼をする。
「本日も、ご指導ありがとうございました。」
ギュンターは一瞬だけリューベルを見つめた。
「……感謝は、言葉ではありません。」
「結果で示しなさい。」
「……はい。」
リューベルはもう一度頭を下げた。
その返事は、とても素直だった。
だからこそ。
ヴァルディスの胸へ深く突き刺さる。
訓練生たちが去っていく。
リューベルもギュンターに一礼し、ゆっくりと歩き出した。
足取りは重い。
それでも背筋だけは真っすぐだった。
ヴァルディスは、その姿が見えなくなるまで見送った。
そして、ゆっくりとギュンターへ歩み寄る。
「ギュンター。」
低く落ち着いた声だった。
ギュンターは振り返り、その瞬間、思わず息をのんだ。
長い白髪の下から向けられる鋼色の瞳。
昨日まで孫を穏やかに見守っていた祖父の面影はない。
目の前に立っているのは――
かつて帝国最強と恐れられた英雄だった。
「だ、大帝陛下。」
ギュンターは深く一礼した。
「見事なご指導でした。」
穏やかな言葉。
だが、その場の空気は張り詰めていた。
「身に余るお言葉です。」
しばらく沈黙が流れる。
ヴァルディスは静かに尋ねた。
「先ほどの教え。」
「『他者を見るな』。」
「『感謝は結果で示せ』。」
「……あれは、おぬしの考えか。」
ギュンターは迷わず答える。
「いいえ。」
「皇帝陛下より賜った、教育方針に従っております。」
ヴァルディスは静かに目を閉じた。
やはり、そうか。
ギュンターは悪くない。
帝国最高の師として、与えられた務めを忠実に果たしているだけだ。
ヴァルディスはゆっくり頷いた。
「……そうか。」
「おぬしを責めるつもりはない。与えられた務めを果たしておっただけじゃな。」
「……はっ。」
ギュンターは深く頭を下げた。
ヴァルディスは踵を返す。
向かう先は決まっていた。
皇帝執務室。
長い廊下を、一歩、また一歩と歩く。
その歩みに、もう迷いはない。
やがて、大きな扉の前で立ち止まった。
コンコン。
静かな音が響く。
中から声が返る。
「……入れ。」
ヴァルディスは静かに扉へ手を掛けた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
次話、ヴァルディスとジークハルト。
二人の想いが、ついにぶつかります。




