第十五話 約束と決意
ヴァルディスは、皇后宮を訪れていた。
窓から差し込む夏の日差しが、エレノアの金褐色の髪を柔らかく照らしている。遠くからは、蝉の声が聞こえた。
エレノアは静かに茶を置く。
「最近は、できるだけ早く休ませるようにしているのです。食事も、料理長へお願いして、身体に良いものを多く作ってもらっています。」
少し寂しそうに微笑んだ。
「眠る前には本を閉じて、『今日はもうおしまいですよ』と声を掛けることもあります。ですが……あの子自身が、休もうとしないのです。」
ヴァルディスは黙って聞いていた。
エレノアは庭へ目を向ける。木陰では、フェリシアが一人、花へ水をやっている。
「フェリシアが庭へ誘っても、『また今度です』と言って……。」
少し間が空く。
「以前は、花を見つけるたびに私を呼んで、虫を見つけては目を輝かせていました。」
エレノアの表情が、わずかに和らぐ。
「転んでも、すぐに笑っていた子なのですが……最近は、いつも疲れた顔をしています。それでも私を見ると、笑ってくれるのです。」
膝の上で重ねた手に、わずかに力を込めた。
「大丈夫だとでも言うように。だから余計に……。」
その先は言葉にならなかった。
ヴァルディスは目を閉じる。エレノアの言葉が一つずつ胸へ沈んでいき、返す言葉が見つからない。
「ジークハルト様も……変わられました。」
ヴァルディスは静かに顔を上げる。
「最近は、リューベルが眠ったあとも、同じ訓練記録を何度も読み返しておられます。朝になっても、執務室の灯りが消えていない日もありました。」
ヴァルディスは黙って聞いていた。
「それでも政務を休むことはありません。午後になれば、時間を作ってリューベルの稽古を見に行かれます。」
エレノアは少し目を伏せる。
「リューベルが嬉しそうに話しかけると……ほんの少しだけ、目元が柔らかくなるのです。きっと、あの人なりに嬉しいのでしょう。ですが、すぐにいつもの顔へ戻ってしまいます。」
小さく息をついた。
「……二人とも、一生懸命なのです。」
部屋に静寂が落ちる。
ヴァルディスは小さく口を開いた。
「……すまぬ。」
エレノアが顔を上げる。
「ジークを、あのように育てたのは……わしじゃ。」
しばらく言葉が続かない。握った拳が、小さく震えていた。
「戦うことしか……教えられんかった。生き残ることしか、教えられんかった。」
「それで、あやつは皇帝になった。」
ヴァルディスはゆっくり目を閉じる。
「じゃから、ジークには……あの育て方が間違っておったとは思えんのじゃろう。」
「あやつは、わしより優しい男じゃ。優しいからこそ……苦しいのじゃろうな。」
エレノアは何も言わなかった。慰めることもせず、ただ静かにその言葉を受け止めている。
部屋には、蝉の声だけが響いていた。
「まだ、わしの出る幕ではあるまい。もう少しだけ……様子を見よう。」
ヴァルディスは立ち上がる。
「ジークを、信じたい。」
◇
それからの日々。
ヴァルディスは何も言わず、ただ見ていた。
座学では真剣に話を聞き、礼法を学び、訓練場では木剣を振る。毎日、誰よりも真面目だった。
「はい。」
返事は大きい。
姿勢も崩さない。
弱音も吐かない。
けれど。
笑顔は、日に日に少なくなっていった。
ある日、廊下でフェリシアが声を掛ける。
「リューベル。」
返事はない。
「……リューベル。」
もう一度呼ぶと、驚いたように振り返った。
「あっ、お姉様。ごめんなさい。気付きませんでした。」
フェリシアは少しだけ微笑む。
「少し、お茶でもしない? 美味しいお菓子も用意してあるから。」
リューベルの視線が、ほんの一瞬だけ揺れた。
しかし。
「……すみません、お姉様。復習がありますので。」
小さく頭を下げると、それ以上迷うことなく部屋へ戻っていった。
フェリシアは、その背中を静かに見送る。
ヴァルディスもまた、その様子を見つめていた。
ふと視線を巡らせると、廊下の先にジークハルトが立っている。
リューベルを呼び止めようとしたのか、口がわずかに動いた。
しかし。
何も言わず、静かに踵を返した。
ヴァルディスは何度も思った。
(今日は休ませるじゃろう。)
(ジークも気付くはずじゃ。)
だが。
翌日も。
その翌日も。
変わらなかった。
ヴァルディスは静かに目を伏せる。
(……わしと同じじゃ。)
強くなれると信じている。
だから、止められない。
かつて自分が、ジークハルトにそうしたように。
胸の奥が、鈍く痛んだ。
◇
ある朝。
「おじい様、おはようございます!」
廊下を駆けてきたリューベルが、頭を下げる。
ヴァルディスは目を細めた。
「おう、おはよう。今日も頑張るのう。」
「はい、おじい様!」
リューベルは少しだけ笑った。
その笑顔を見て、ヴァルディスは静かにうなずく。
「リュー。今日の夕食のあと、少し話さんか。」
リューベルは目を丸くした。
「お前の大好きな紅茶と菓子を用意して待っとる。」
「本当ですか?」
「本当じゃ。」
その一言で、青灰色の瞳がぱっと輝いた。
六歳の子どもの笑顔だった。
「ありがとうございます!」
「約束じゃ。」
「はい! 約束です!」
木剣を抱えたまま、リューベルは嬉しそうに駆けていく。
ヴァルディスは、その背中を穏やかな表情で見送った。
「今夜を楽しみにしとる。」
◇
その日も、訓練は長かった。
座学。
「この国では、強さこそが正しさです。」
「民が求めるのは、強き皇帝。故に、皇子は誰よりも強くあらねばなりません。」
「決して、弱さを見せてはなりません。」
「はい。」
リューベルは真剣な表情で頷いた。
エドガーは、その小さな顔をしばらく見つめる。
「ですが、殿下。」
「はい?」
一度、言葉を選ぶように間を置いた。
「強くなることと、自分を苦しめることは同じではありません。苦しい時には、苦しいと感じてよいのです。」
リューベルは目を瞬かせる。
「それもまた、自分を知ることです。」
「……はい。」
リューベルは頷いた。
だが、その言葉をどこまで理解しているのか、エドガーには分からなかった。
そして、剣の稽古。
「もう一度。」
「はい。」
「踏み込みが浅い。」
「はい。」
「集中。」
「はい。」
返事だけは、変わらなかった。
だが。
木剣を握る指先は、小さく震えていた。
何度も握り直しても、震えは止まらない。足を踏み込むたびに身体がわずかによろめき、呼吸も荒くなる。
額から流れた汗が、ぽたぽたと地面へ落ちていった。
休憩の声が掛かった瞬間、張りつめていた糸が切れたように、その場へ座り込む。
肩が大きく上下する。
息が整わない。
壁へ身体を預けそうになった、その時。
――しまった。
慌てて背筋を伸ばした。
皇子は、だらしない姿を見せてはいけない。
そう思った。
「大丈夫ですか。」
ギュンターが静かに尋ねる。
リューベルは息を整えようとした。
うまく吸えない。
それでも。
「……はい。」
笑って答えた。
ギュンターは、その笑顔をしばらく見つめる。
「……そうですか。」
それ以上は何も言わなかった。
その笑顔に、無邪気な六歳らしさは残っていなかった。
◇
夜。
ヴァルディスは部屋で湯を沸かしていた。
ティーカップを二つ。
焼き菓子も二人分。
「喜ぶじゃろう。」
自然と笑みがこぼれる。湯気が静かに立ちのぼり、部屋には穏やかな時間が流れていた。
「……まだかの。」
待つ。
もう少し待つ。
廊下は静かなままだった。
湯気はゆっくりと消えていく。
ヴァルディスはティーカップにそっと触れた。
もう、ぬるくなっていた。
「今日は、疲れたんじゃな。」
小さく笑う。
責める気持ちは、少しもなかった。
ただ。
二人で飲むはずだった紅茶だけが、静かな部屋に残されていた。
◇
翌朝。
リューベルは目を覚ました。
身体が重い。
起き上がろうとして――突然、目を見開く。
「……約束。」
昨日。
おじい様と紅茶を飲む約束をした。
顔から血の気が引いた。
「おじい様!」
部屋を飛び出し、廊下を走る。
胸が苦しい。
息が苦しい。
ヴァルディスは廊下を歩いていた。
「おう、リュー。」
いつも通り笑う。
その笑顔を見た瞬間、リューベルの目から涙があふれた。
「おじい様……!」
「ごめんなさい……!」
「約束したのに……!」
「忘れちゃった……!」
「ごめんなさい……!」
「ごめんなさい……!」
ヴァルディスは何も言わず、静かに膝をついた。
そして。
泣きじゃくる孫を、そっと抱きしめる。
小さな身体だった。
腕の中で震えている。
「ごめんなさい……。」
「ごめんなさい……。」
その声を聞いた瞬間、ヴァルディスの頬を一筋の涙が伝った。
違う。
この子が、約束をどうでもよいと思ったはずがない。
ヴァルディスは、腕の中で震える小さな身体を強く抱きしめる。
この子は……。
もう、とっくに限界じゃったんじゃ。
リュー。
もう十分じゃ。
あとは、わしに任せい。
震える手で、小さな背中を何度も何度もさすった。
「……よく頑張った。」
「よく頑張ったのう。」
その声もまた、震えていた。
リューベルは声を上げて泣いた。
張りつめていたものが、一気にほどけるように。
やがて、泣き疲れたリューベルは、ヴァルディスの胸の中で眠ってしまった。
ヴァルディスは、その身体を優しく抱き上げる。
「……軽い。」
思わず、声が漏れた。
毎日のように抱き上げてきたからこそ、分かる。
少し前より、軽くなっていた。
頬も、心なしか細くなっている。
まだ六歳の、小さな身体。
こんな身体になるまで、頑張っていたのか。
ヴァルディスは唇を噛んだ。
部屋へ運び、布団へ寝かせる。
穏やかな寝息が聞こえた。
ヴァルディスは静かに部屋を出ると、廊下で立ち止まり、ゆっくりと目を閉じた。
……リューは、約束を何より大事にする子じゃ。
そのリューが、約束を忘れた。
もう十分じゃ。
ヴァルディスの胸が熱くなる。
ゆっくりと目を開いた。
「……わしが守る。」
鋼色の瞳には、長く眠っていた英雄の炎が静かに灯っていた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
いつも読みに来てくださる方へ。
読んでいただけて嬉しいです。これからも楽しんでいただける作品にできるよう、頑張りますね。




