第十四話 皇帝とは。
夜。
執務室。
ジークハルトは書類へ目を通していた。部屋には静かな沈黙が流れている。
やがて、口を開いた。
「……そうか。」
エレノアを真っ直ぐ見つめる。
「あの子は笑っています。ですが、その笑顔が少し無理をしているように見えるのです。」
ジークハルトはしばらく黙り、静かに息を吐いた。
「私も……そう思う。」
エレノアは顔を上げる。
「でしたら、稽古を少しだけ減らすことはできませんか。」
ジークハルトはしばらく答えず、やがて窓の外へ視線を向けた。
「……できない。」
「どうしてですか。」
「あの子は皇子だ。」
静かな声だった。
「そして、皇帝候補でもある。」
エレノアは黙って聞いている。
「この帝国では、優しいだけでは生き残れない。自分を守る力がなければ、大切な者を守ることもできない。」
ジークハルトの手が、ゆっくりと握られる。
「リューベルには、相手の動きを見抜く才がある。あれほどの才を持ちながら、弱いままでいさせることの方が、私は恐ろしい。」
「ですが、まだ六歳です。」
「分かっている。」
答えは早かった。
その声が、ほんのわずかに低くなる。
「疲れていることも分かっている。それでも、今鍛えなければならない。」
エレノアは、淡い翠の瞳で夫を見つめた。
「そこまでして、強くならなければなりませんか。」
ジークハルトはしばらく黙る。
澄んだ青い瞳は、いつものように静かだった。
「強くなければ、幸せにはなれない。」
エレノアの瞳が、わずかに揺れた。
「少なくとも、この帝国では。」
ジークハルトは窓の外へ視線を戻す。
「私は、あの子に生き残ってほしい。守りたいものを、自分の力で守れる男になってほしい。」
「だからこそ――」
一度だけ言葉を切る。
「私は、あの子を厳しく育てる。」
エレノアは何も言わなかった。
目の前にいるのは、冷たい皇帝ではない。
誰よりも息子を愛している父親だった。
だからこそ、苦しかった。
「……分かりました。」
静かに一礼し、部屋を出ようとする。
その背中へ、声がかかった。
「エレノア。」
振り返る。
「心配をかけてすまない。」
少し間を置き、ジークハルトは続けた。
「必ず、一人前に育てる。」
エレノアは微笑む。
「……はい。」
その笑顔は、廊下へ出ると静かに消えた。
窓の外には、月明かりが広がっている。
「あなたも。」
「リューベルも。」
「二人とも、一生懸命なのですね。」
その声は、夜の闇へ静かに溶けていった。
◇
二週間後。
教室。
エドガーは静かに口を開いた。
「本日は、皇帝についてお話しします。」
リューベルは姿勢を正す。
「はい。」
エドガーは穏やかな表情で続けた。
「殿下。皇帝とは、どのような存在だと思われますか。」
リューベルは少し考える。
「……帝国で一番偉い人です。」
エドガーは静かに首を横へ振った。
「違います。皇帝とは、帝国で最も多くの責任を背負う者です。」
リューベルは目を瞬かせる。
「民を守るためなら、自らの望みを後回しにしなければならないこともあります。時には、大切なものを諦める覚悟も必要になります。」
リューベルは小さく目を見開いた。
父の背中が頭に浮かぶ。
いつも厳しい。
でも、きっと理由がある。
帝国のため。
家族のため。
ぼくのため。
お父様は、その全部を背負っている。
胸の奥が熱くなった。
(ぼくも。)
(もっと頑張らなきゃ。)
エドガーは続ける。
「皇帝とは、時として大切な人よりも、帝国を選ばなければならない者です。」
その言葉に、リューベルは膝の上の手をぎゅっと握った。
頭に浮かんだのは、祖父の笑顔だった。
疲れて帰っても、何も聞かずに頭を撫でてくれる大きな手。
「そうかそうか。」
ただそれだけ言って、隣を歩いてくれる人。
(……もし。)
(ぼくが皇帝になったら。)
胸の奥が苦しくなる。
その先は考えられなかった。
静かな沈黙が流れる。
エドガーは少しだけ声を和らげた。
「難しい話でしたね。ですが、殿下なら、きっと理解できる日が来ます。」
リューベルは小さく頷く。
「……はい。」
◇
昼下がり。
皇城の庭。
「リューベル。」
蜂蜜色の髪を揺らし、フェリシアが焼き菓子を手にやって来た。
「少し休憩しましょう。」
「ありがとうございます、お姉様。」
二人は木陰へ腰を下ろし、リューベルは焼き菓子を一口かじった。
「おいしい?」
「はい。とてもおいしいです。」
フェリシアは微笑む。
「この前まで『ありがとう、お姉様!』って抱きついてきたのに。」
リューベルは少し困ったように笑った。
「……すみません。」
「違うの。」
フェリシアは優しく首を振る。
「謝ってほしかったんじゃない。たまには、昔みたいに甘えてくれてもいいのよ。」
リューベルは少しだけ笑った。
「ありがとうございます。」
その笑顔は、どこかぎこちなかった。
「今日は、このあと何するの?」
「復習です。」
「終わったら?」
「明日の準備をします。」
「少しだけ、お散歩しない?」
「……!」
リューベルの青灰色の瞳が、一瞬だけ輝いた。
行きたい。
お姉様と歩きたい。
一緒に笑いたい。
でも。
(ギュンター先生と約束した。)
(今日教わったことを、ちゃんと復習するって。)
(もっと頑張らなきゃ。)
その輝きは、静かに消えた。
「……ごめんなさい。」
「ギュンター先生と、今日教わったことを復習するって約束したんです。今日は行けません。」
フェリシアは少しだけ間を置いてから、微笑んだ。
「……そう。」
「頑張ってね。」
「はい。」
リューベルは立ち上がり、再び木剣を握る。
その背中を、フェリシアは静かに見つめていた。
(頑張ってる。)
(本当に、頑張ってる。)
なのに。
前よりずっと立派になっているはずなのに、少しずつ遠くなっていくような気がした。
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