第十二話 始まり
朝。
まだ太陽が昇りきらない皇城の庭。
ヴァルディスは木剣を手に、ゆっくりと歩いていた。
「今日はどんな遊びをするかのう。」
今日からリューベルは忙しくなる。
せめて朝くらいは、遊んでやりたいのう。
昨日は負けたふりをしてやった。
今日は少し強くしてみるか。
……いや。
また負けてやるのも悪くない。
そんなことを考えながら笑う。
◇
遠くから、小さな足音が聞こえた。
「おじい様!」
クリーム色の髪を揺らし、木剣を抱えたリューベルが嬉しそうに駆けてくる。
「おはようございます!」
「うむ、おはよう!」
ヴァルディスは両手を広げる。
リューベルも笑顔で駆け寄ろうとした。
その時だった。
「リューベル殿下。」
落ち着いた声が庭に響く。
二人が振り向く。
そこには、皇族教育を担う教師エドガーが立っていた。
「本日より授業が始まります。」
リューベルはヴァルディスを見た。
「おじい様……。」
ヴァルディスは一瞬だけ黙る。
だが、すぐに笑った。
「そうか。」
「今日は先生と勉強じゃな。」
リューベルは少し残念そうに俯く。
「……うん。」
「何をしておる。」
ヴァルディスは孫の頭を軽く撫でる。
「お父様が考えてくださったことじゃ。」
「一生懸命やってくるんじゃぞ。」
「はい。」
木剣を抱え直し、エドガーのもとへ向かう。
ふと振り返った。
「おじい様!」
「なんじゃ?」
「終わったら、今日も遊ぼうね!」
「もちろんじゃ。」
「絶対?」
「絶対じゃ。」
「約束!」
「約束じゃ。」
リューベルは安心したように笑い、エドガーと歩いていった。
その小さな背中を、ヴァルディスは静かに見送る。
「さて。」
木剣へ目を落とす。
「少し待つとするかのう。」
「今日は長くなりそうじゃ。」
◇
教室へ入る。
エドガーは静かに口を開いた。
「本日は、皇族について学びます。」
「殿下。」
「第一皇子レオヴェイン殿下は、どのようなお方ですか。」
リューベルは嬉しそうに笑う。
「ぼくの大好きなお兄様です!」
「強くて、優しくて、とてもすごい方です!」
エドガーは頷いた。
「その通りです。」
「ですが、それだけではありません。」
「第一皇子レオヴェイン殿下は、殿下の兄であると同時に、皇帝候補でもあります。」
リューベルは首を傾げた。
「皇帝候補……?」
「はい。」
「そして、殿下もまた皇帝候補です。」
「アルディア帝国では、皇后の子だけでなく、側室の子にも皇帝となる資格が与えられています。」
「大帝ヴァルディス陛下も、側室の子としてお生まれになりました。」
「そのため、殿下はレオヴェイン殿下だけでなく、側室の皇子たちとも競うことになります。」
リューベルは少しうつむき、それからゆっくりと顔を上げた。
「でも……。」
「お兄様です。」
「ええ。」
「兄です。」
「ですが、皇帝候補です。」
リューベルは静かに頷く。
「……はい。」
それでも、リューベルの胸の奥には、小さな違和感が残っていた。
◇
エドガーは教室の扉を開いた。
「ここからは剣術です。」
「剣術師範ギュンターがお待ちです。」
教室を出ると、一人の壮年の男が静かに待っていた。
皇族専属の剣術師範、ギュンター。
白髪混じりの髪を後ろへ流し、深々と一礼する。
「本日より剣術をご指導いたします。」
「よろしくお願いします!」
「まずは稽古場へ参りましょう。」
ギュンターと並んで廊下を歩く。
翠色の瞳をまっすぐ前へ向け、レオヴェインが歩いてきた。
「お兄様!」
リューベルが嬉しそうに頭を下げる。
レオヴェインは立ち止まり、小さく頷いた。
「授業か。」
「はい!」
「……頑張れ。」
それだけだった。
だが、その声は穏やかだった。
リューベルは笑顔で頷く。
「はい!」
レオヴェインは静かに歩き去っていく。
リューベルは、その背中をしばらく見つめていた。
『皇帝候補は、互いに競い合います。』
(お兄様とも……競うの?)
胸の奥が、小さく痛んだ。
「殿下。」
ギュンターが歩き出す。
リューベルは慌てて後を追った。
◇
「もう一度。」
カン。
乾いた音が稽古場に響く。
「足が止まっています。」
「はい!」
「身体全体を使いなさい。」
「はい!」
リューベルは何度も木剣を振る。
腕が重い。
息が上がる。
それでも止まらない。
ギュンターは静かに頷く。
「休憩。」
リューベルはその場へ座り込む。
ギュンターは黙って水を差し出した。
「才能がある者ほど、基礎を疎かにしてはいけません。」
リューベルには、その意味はよく分からなかった。
それでも頷く。
「はい。」
その時だった。
「陛下。」
ギュンターが深く頭を下げる。
リューベルが振り向く。
ジークハルトが稽古場へ姿を現した。
澄んだ青い瞳が、静かに息子を見つめる。
「ここからは私が見る。」
「はっ。」
ギュンターは一歩下がった。
皇帝自ら稽古をつける。
その意味を、誰より理解していた。
ジークハルトは一本の木剣を手に取る。
「構えろ。」
「はい!」
リューベルは木剣を構えた。
「目線を下げるな。」
「はい。」
「剣先がぶれている。」
「はい。」
「構えを崩すな。」
「はい。」
構え直す。
「もう一度。」
「はい!」
リューベルは何度も構えを直した。
ようやくジークハルトが頷く。
「振れ。」
ぶん。
「違う。」
「身体で振れ。」
「はい!」
もう一度。
ぶん。
「肘が浮いている。」
「はい!」
また最初から。
構える。
振る。
直される。
構え直す。
振る。
直される。
何度も。
何度も。
腕が震え始める。
それでもリューベルは木剣を握り続けた。
ジークハルトは表情一つ変えない。
「まだだ。」
「はい!」
「続けろ。」
「はい!」
◇
「今日はここまでだ。」
リューベルは大きく息を吐く。
「ありがとうございました!」
深く頭を下げる。
木剣を握り直そうとする。
指が思うように動かない。
コトン。
リューベルは少し驚いたように自分の指を見つめる。
ジークハルトは静かに口を開いた。
「基礎を怠るな。」
「はい!」
「これからも続けよ。」
「はい!」
その言葉だけで、リューベルには十分だった。
お父様が、自分のために剣を握ってくれた。
そのことが嬉しくて、疲れていたはずの身体に力が戻る。
ジークハルトは小さく頷き、その場を後にした。
政務が待っている。
皇帝に、立ち止まる時間はない。
その背中を、リューベルはずっと見送っていた。
◇
夕暮れ。
庭に長く影が伸びる。
ヴァルディスは木剣を持ったまま、一人石に腰掛けていた。
「遅いのう。」
誰に言うでもなく呟く。
しばらくして、小さな足音が聞こえた。
「おじい様!」
リューベルだった。
髪は汗で濡れ、肩で息をしている。
「終わったか!」
「うん!」
ヴァルディスは立ち上がる。
「では、一勝負――」
言いかけたところで、リューベルが苦笑いした。
「ごめんなさい。」
「遊びたいんだけど……。」
「もう腕が動かないや。」
ヴァルディスはリューベルを見る。
ほんの一瞬だけ黙った。
やがて、にっと笑う。
「そうか。」
「ちゃんと来てくれたのう。」
「今日は勝負はお預けじゃ。」
「わしには、それで十分じゃ。」
リューベルはほっとしたように笑う。
「ごめんね、おじい様。」
「気にするでない。」
「今度遊ぼうね。」
「もちろんじゃ。」
リューベルは嬉しそうに笑った。
二人は並んで歩き始める。
その歩幅は、いつもより少しだけ遅い。
ヴァルディスは、鋼色の瞳で疲れ切った小さな背中を静かに見つめる。
リューベルの腕は、歩くたびに小さく揺れていた。
二人の長い影だけが、静かな庭に並ぶ。
昨日まで当たり前だった朝の遊びは、この日を境に少しずつ減っていく。
それでもヴァルディスは、何も言わず、その小さな背中が笑って歩けるよう隣を歩き続けた。
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