第九話:春の雪解に溶ける謎 〜 The Adventure of the Thawing Snow 〜
一部AIにより作成
【冒頭:ロンドン時代】
一八九九年の一月末、ロンドンに珍しく雪が降った。
ベイカー街の窓から見える石畳が白く覆われ、馬車の蹄鉄の音が雪に吸われて消えた。私は暖炉の前で医学雑誌を読んでいた。ホームズは——いつの間にかソファから姿を消しており、台所で何か実験をしているらしく、硫黄の匂いが居間まで漂ってきていた。
「ホームズ」と私は台所の戸口から声をかけた。「一体何をしているんだ」
「雪の結晶の観察だ」と彼は答えた。顕微鏡を覗き込んだまま。「雪の結晶は六角形の対称構造を持つが、気温と湿度によって全く異なる形状になる。今朝の雪は——」
「顕微鏡で雪を見て、何の役に立つのか」
「今はわからない。しかしいつか役に立つ」
これがホームズという男だ。何の役に立つかわからない知識を蓄積し続け、必要な瞬間に全て引き出す。私には到底真似のできない生き方だ。
その夕刻、ホームズは珍しく「散歩に行こう」と言い出した。
「雪の積もった夜道を?」
「だからこそだ。普段と違う状態の街には、普段見えないものが見える」
ロンドンの雪の夜というのは、確かに不思議な静けさを持つ。ガス灯の明かりが雪面に反射して、あたりが仄明るくなる。人の数は減り、代わりに足跡が雪の上に記される——誰がどこを歩いたか、一目でわかる。
「足跡というのは正直だ」とホームズは白い息を吐きながら言った。「雪は記憶する——」
その言葉が終わらぬうちに、角から現れた荷馬車が、凍った路面で制御を失った。荷馬車は歩道に乗り上げ、私は横に飛んだが、ホームズは壁と荷馬車に挟まれた。
「ホームズ!」
彼は倒れた。頭から雪の上に。
私は駆け寄り、肩を支えた。
「大丈夫か——」
しかしその時、私の足元の雪が崩れた。古い地下道の天井が——。
暗闇に落ちた。
そして——また、あの江戸の冬。
******
【本編:江戸での事件】
——和登三太の語り——
目が覚めると、雪だった。
細かい粉雪が、音もなく降っている。
私は田圃の畦道の上に倒れていた。周囲は広大な田圃で、遠くに武家屋敷の松の木が白く霞んでいる。冬の江戸の郊外——正確に言えば、入谷の田圃と呼ばれる、江戸の北の外れの農地地帯だ。
田圃とは水田のことで、江戸の周囲にはこうした農地が広がっていた。江戸は当時、世界最大規模の都市の一つだったが、そのすぐ外縁には静かな農村地帯が続いており、両者の境目は曖昧だった。ロンドンの場合も郊外農村はあるが、江戸の場合はその移行がより突然で、一つ橋を渡れば田圃、という感覚だ。
捕霧七はすでに起き上がって、雪の中で何かを観察していた。
「面白い」と彼は言った。相変わらずの第一声。
「何が面白いのか」と私は雪を払いながら立ち上がった。
「あの建物の門前を見ろ」
彼が指さした先に、田圃の中にぽつんと立つ、瀟洒な普請——建物——があった。板塀に囲まれ、門には格子が施されている。庭の松が雪を被り、大変風雅な景色だった。
その門前で——奇妙な光景が繰り広げられていた。
女が一人、道を歩いていた按摩の男の袖を引いて、何か話しかけている。男は困った顔で、振り払おうとしている。
按摩とは、筋肉をもみほぐして痛みを和らげる施術者のことで、ロンドンで言えばマッサージ師に相当する。江戸では按摩は多くが盲目の者が就く職業だった——視覚が不自由な代わりに、手の感覚が鋭く、技術に優れるとされた。按摩は三味線の袋に似た道具袋を持ち、笛を吹きながら夜の街を歩いて客を集める。その笛の音は、江戸の夜の音色の一つだ。
女は按摩に必死に何かを訴えており、男は困惑と恐怖の混じった顔で、しきりに辞そうとしている。
「行こう」と捕霧七は言い、歩き出した。
「待て、放っておくのか」
「今は見るだけでいい。しかし——あの場面は、近いうちにまた出会う気がする」
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数日後、私たちは再び入谷の田圃を通ることがあった。
そして捕霧七の予感は的中した。
同じ門前で、同じ女が、また別の按摩を引き止めようとしていた。しかし今回は、捕霧七が先に按摩に声をかけた。
「少し、お話を聞かせてもらえますか」
按摩の男は徳寿と名乗った。六十がらみの、落ち着いた物腰の老人で、目は見えないが、声に聡明さが滲み出ていた。
「あの女のことですか」と徳寿は言った。「私も困っておりまして……」
「なぜあの女は按摩を呼び込もうとするのですか」
「それが……あの建物の中に、病気の方がいて、按摩を望んでいるというのですが……わたしは一度、頼まれてあそこへ入ったことがあります。しかし——」
「しかし?」
「体中がぞっとするのです。何か……普通でないものがあそこにあって……施術をしながら、どうしても手が震えて、まともに仕事ができなかった。それ以来、あそこへは入りたくないのです」
捕霧七は静かに聞いた。
「あの建物は何ですか」と私は訊いた。
「吉原の大見世——辰伊勢という妓楼の寮だと聞いております。中に、誰袖という花魁が、出養生に来ているとか……」
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吉原というのは、江戸幕府が公認した遊郭の区域で、浅草の北に設けられていた。
遊郭とは、公認された性風俗の区域で、日本固有の制度というわけではなく、当時のアジアや東南アジア、南ヨーロッパなど世界各地に類似した制度が存在した。ロンドンにも非公認ながら同様の地区はあったが、江戸の吉原は幕府の管理下に置かれた特殊な存在だった。
吉原の中でも格の高い遊女を「花魁」と呼んだ。花魁は単なる遊女ではなく、文学・音楽・芸能に通じた教養人でもあり、その地位は実質的に高かった。特に大見世——規模の大きな妓楼——の最上位の花魁となれば、著名な文化人や大名が客につくこともあった。ロンドンで言えば、上流階級の夜会に招かれるような教養を持つコーティザン(高級娼婦)に近い。
出養生とは、病気療養のために吉原の外に出ることを指す。吉原は基本的に外出が制限されていたが、病気の場合は特別に許可が下りた。
「誰袖という花魁が病を得て、田圃の中の寮で休んでいる」と捕霧七は言った。「そして女が按摩を呼び込もうとしているのは、誰袖の命令か、あるいは誰袖に命じられた侍女の行動だ。しかし按摩たちが怖がって逃げる——」
「徳寿さんが『体中がぞっとする』と言ったのは?」
「それを確かめなければならない」
その日の夜、捕霧七は長屋に戻ってから考え込んでいた。煙管を吹かし、天井を見上げ、また煙管を吹かす。ロンドン時代のホームズが複雑な問題を前にした時と全く同じ——バイオリンの代わりに煙管、という違いがあるだけだ。
「三太」と彼はやがて言った。「金杉に行こう」
「金杉というのは?」
「誰袖の出身地だ。吉原の花魁は多くが故郷を持ち、その多くが江戸近郊の農村や町人地から来ている。誰袖の生まれは金杉の漁師町だと聞いた。そこで最近、若い者の行方不明があったという話がある」
「何で知った?」
「徳寿さんが按摩の仕事で広い範囲を歩き回るうちに、そのような噂を耳にしたと言っていた。按摩というのは、情報の網だ——目が見えない分、耳で聞いたことを正確に記憶する」
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翌朝、私たちは金杉の町を訪ねた。
金杉は江戸の北の方に位置する、漁師と小商人が混在した小さな町だ。江戸湾に近く、魚の臭いが海風に乗って漂ってくる。
「辻占売り(つじうらうり)の若者が行方不明だ」と、魚屋の主人が話してくれた。「半次郎という子で、今年十八になる。辻占を売って、母親と二人で暮らしていたのに……正月明けから姿が見えなくなってしまって……」
辻占売り(つじうらうり)とは、江戸の街角で「辻占」——おみくじに似た運勢を書いた紙——を売る商売だ。主に若い娘や子供が担い手で、紙の切れ端に「吉」「凶」などの文字と短い和歌を書き、それを丸めて竹の筒に入れて売る。客はそれを引いて、自分の運勢を占う。辻占の出す和歌は、恋愛の行く末を示唆するものが多く、特に若い女性の間で人気があった。ロンドンのフォーチュン・テラー(占い師)に似ているが、より軽い娯楽として庶民に広まっていた。
「半次郎というのは、誰袖とは関係があるか」と捕霧七は訊いた。
魚屋の主人は、少し考えてから言った。
「それが……誰袖様というのは、元は金杉のご出身で、子供の頃からよく知られた器量よしで……半次郎の兄と、幼馴染みの間柄だったと聞いております。半次郎の兄は今から三年ほど前に亡くなりましたが」
「兄が亡くなって、弟の半次郎が誰袖とどういう関係に?」
「それは……わかりません。ただ、誰袖様が吉原に来てからも、金杉の方へはたまに文が来ていたようで……」
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翌日、私たちは再び入谷の田圃へ出かけた。
今度は按摩の徳寿を先に訪ね、一緒に連れて行ってもらうことにした。
「あの建物の中で、あなたが『ぞっとした』と言ったのは——具体的にどのあたりでしたか」と捕霧七は歩きながら訊いた。
「施術をする部屋に通される前の廊下で……床の下から、何か……」徳寿は顔をしかめた。「腐ったような……しかし少し甘い、変な匂いがしました。そして床が微かに——温かかった」
「温かかった?」
「はい。真冬なのに、廊下の床の一部が——まるで下に炬燵でも入っているかのように、温かくて……」
炬燵とは、木の框に布団をかけ、下に炭の火鉢を置いて体を温める暖房器具で、江戸の冬の家庭の必需品だ。ロンドンの暖炉と機能は似ているが、炬燵は床に直接座る江戸の生活様式に合わせた形だ。
「廊下の床が温かかった……腐臭と甘い匂い……」と捕霧七は繰り返した。
私には何か引っかかるものがあった。医師としての知識が、その描写に何かを感知していた。
「捕霧七さん」と私は小声で言った。「腐臭と甘い匂いの組み合わせ、そして床が温かい——それは……」
「わかるか、三太」
「腐敗した人体は、分解の過程で熱を発する。そして甘みを帯びた腐臭は、死後数日から数週間経った——」
「床下に、何かが埋まっている」と捕霧七は静かに言った。「あの建物の廊下の床下に」
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門の前まで来ると、いつもの女が出てきて按摩を呼び込もうとした。しかし今日は捕霧七が進み出た。
「少し中を見せていただけますか。岡っ引の者です」
女は一瞬、表情を変えた。しかしすぐに「どうぞ」と言い、私たちを建物の中へ案内した。
廊下に入った瞬間、私の鼻が何かを捉えた。かすかな——しかし確かな、甘みを帯びた異臭。
捕霧七は廊下の一角に屈み込んで、床板を指で叩いた。
「ここだ」と彼は低く言った。「三太、この板を外してくれ」
女の顔が、白くなった。
「お待ちください——」
しかし捕霧七はすでに腰の十手を床板の隙間に差し込んでいた。
板が外れた。
暗い床下から、甘い腐臭が立ち上った。
私は松明を借りて照らし込んだ。
床下の土の上に、一人の若い男が横たわっていた。
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半次郎は、死後十日ほど経っていた。
私が検分した結果、絞め殺された痕があった。
しかし最も謎なのは——なぜ半次郎がここに? なぜ花魁の養生している寮の床下に?
女を問い詰めると、女は最初は黙っていたが、やがて話した。
女の名はお仙といい、誰袖の侍女——身の回りの世話をする女——だった。
「誰袖様が……半次郎に、密かに会っていたのです。お二人は幼馴染みで……金杉に戻りたいという誰袖様の気持ちを、半次郎が何度も励ましていた。しかし——」
「半次郎が殺されたのはなぜか」
お仙は震えながら言った。「辰伊勢の主人が……知ったのです。誰袖様が金杉の若者と密かに会っていることを。花魁が廓外の男と情を通じるのは、厳しく禁じられています。主人は半次郎を呼び出して——」
「主人が殺したのか」
「主人に言われて動いた男衆がおりまして……半次郎が戻って来ないことを知った誰袖様は、自分が原因だと……それで体を悪くされて……今もあの部屋で……」
誰袖は——自分が原因で幼馴染みが死んだことを、薄々知っていたのだ。知っていたから床下の気配に怯え、体を壊し、按摩を呼んでもその者が怖がって逃げる——という悪循環が生まれていた。
捕霧七は奉行所に届けを出した。
辰伊勢の主人と、手を下した男衆は引き渡された。
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誰袖は、この件の後どうなったか。
後に私が聞いた話によれば、誰袖は病が癒えた後、吉原の外に出ることを望んだが、それは叶わなかった。吉原の花魁は、身請け(みうけ)——まとまった金を払って廓から出すこと——されない限り、自由には外に出られない。誰袖を身請けするほどの金を出す者が名乗り出るまで、彼女は吉原に留まるほかなかった。
「捕霧七さん」と私は長屋への帰り道、雪解けの始まった田圃の畦道を歩きながら言った。「誰袖は救われたのか、救われなかったのか」
「半次郎の死の真相が明かされた。そしてそれを隠していた者は裁かれた」と捕霧七は言った。「それが私たちにできることだ」
「しかし誰袖は自由になれない」
「今は、まだ」と彼は言った。「しかし事実が明らかになったことで、誰袖は何かを——気持ちの上で少し違う場所に立てるかもしれない。雪が解けた後、地面はまた新しいものを育てる余地を持つ」
入谷の田圃の雪が、春の日差しの中で少しずつ解け始めていた。
黒い土が、白の下から顔を出していた。
それを見ながら、私は思った——雪解けというのは、単に雪がなくなることではない。雪の下に隠れていたものが、再び日の目を見ることだ。今回の事件もまた、誰袖と半次郎の間にあったものが、雪解けのように表に出てきた。それが悲しみを伴っても——明かされることには、意味がある。
そう信じていなければ、探偵という仕事は続けられない。
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【結末:ロンドン時代】
気づくと、私はベイカー街の居間にいた。
窓の外の雪はすでに溶け始め、石畳の隙間から水が流れていた。ホームズはソファに横たわり、天井を見上げていた。
「ホームズ、怪我は?」
「この程度で怪我はしない」と彼は言い、起き上がった。「荷馬車の御者は大丈夫か、ワトソン」
「あなたが心配しているのか」
「御者に非はない。路面が凍っていたのだから」と彼は言い、窓の外の雪解けを眺めた。「雪というのは情報の宝庫だ。しかし解ければ消えてしまう。証拠として使えるのは、解ける前だけだ」
「今回は証拠を使う機会がなかったな」
「ある種の証拠は、物理的なものでなくてもいい」とホームズは言った。「人の記憶、人の気持ち——それらも証拠だ。ただし、それらは雪より早く解ける。だから急がなければならない」
「急いで手に入れた人の気持ちが、今回役に立ったと思うか」
ホームズはしばらく黙っていた。
「按摩の老人が感じた『ぞっとする感覚』——あれは正しかった」と彼は言った。「訓練を受けていない者の直感は、しばしば侮れない情報を含む。科学的な分析より先に、感覚が真実を掴んでいることがある。私が信じるのは証拠と論理だが、同時に、人の直感が発する信号も軽視しない」
「それは、以前の君とは少し違う発言だ」
「年を取った」とホームズは珍しく自嘲的に言い、パイプを手に取った。
窓の外で、ロンドンの雪がとけていた。
春はまだ遠いが、石畳の下の土が、少しずつ息をし始めていた。
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本作は、アーサー・コナン・ドイル著『シャーロック・ホームズの冒険』および岡本綺堂著『半七捕物帳』への敬意と感謝を込めて執筆しています。
著:コナン・綺堂異流(Conan Kidoyle)




