第八話:帯取りの池の秘密 〜 The Mystery of the Sash in the Pond 〜
一部AIにより作成
【冒頭:ロンドン時代】
一八九八年の三月、ロンドンはまだ冬の名残を引きずっていた。
ホームズは一週間ほど、ひどく不機嫌な状態が続いていた。事件がないのだ。レストレード警部からも連絡はなく、依頼人も来ず、新聞の三面記事も退屈な内容ばかりだった。
「ワトソン」と彼はある朝、朝食のバタートーストを半分だけ食べて言った。「ロンドンは今、驚くほど平和だ」
「それは良いことではないか」
「探偵にとっては致命的だ」
「君は本当に——」と私は言いかけて、やめた。ホームズの退屈は、つまり彼の頭脳が飢えているということで、そこに議論を挟んでも仕方がない。
その日の午後、珍しい来客があった。
テムズ川の南岸で船着場を営む老人で、彼が持ち込んだのは奇妙な話だった——テムズ河の岸辺に、昨夜から美しい刺繍入りのショールが流れ着いて浮かんでいる。地元の者は「嫌な予感がする」と誰も取ろうとしない。それだけなら届け出るほどのことでもないが、ショールの持ち主と思しき若い女性が近所で行方不明になっているという。
ホームズは瞬く間に目を輝かせた。
「参りましょう、ワトソン」
テムズ南岸の倉庫街は、春まだき三月の風が冷たく、河の匂いが鼻を刺した。私たちがショールの浮く水辺に近づいた時、ホームズが「あそこだ」と指さした先に——老朽化した桟橋があった。
「あの桟橋は——」
「危ない!」
警告の声が間に合わなかった。腐った桟橋の床板が私の足元で砕け、私は暗い水面へ落ちた。ホームズが手を伸ばしたが届かなかった。
三月のテムズは氷のように冷たかった。
意識が遠のいた。
そして——また、江戸。
******
【本編:江戸での事件】
——和登三太の語り——
春の江戸の朝というのは、独特の美しさがある。
ロンドンの春は霧雨と泥の記憶だが、江戸の春の朝は——まだ肌寒いながらも、空が澄んでいて、梅の香りが路地に漂っている。梅とは、日本で桜よりも早く咲く春告げの花で、白や淡紅の小さな花が枝に点々とつき、甘い香りを放つ。ロンドンのスノードロップが春の先触れであるように、江戸では梅が春の訪れを告げる。
私と捕霧七が意識を取り戻したのは、市ヶ谷の方の、小高い台地の麓に近い場所だった。
正面に、小さな池があった。
水面は朝の光を受けて静かに光り、葦が岸辺に枯れたまま残っていた。池のほとりには石の小さな祠があり、古びた縄と紙垂が結ばれている。
「この池には伝説がある」と捕霧七は起き上がりながら言った。
「何の伝説か」
「帯取りの池と呼ばれている。池の近くを帯をつけた女が通ると、池の何者かが帯を引き込むという——江戸ではよく知られた怪談だ」
帯とは、着物の腰に巻く布のことで、着物文化において帯は単なる実用品ではなく、装飾の中心でもある。上等の帯は絹地に金糸や銀糸で刺繍を施した芸術品で、その値段は着物本体を超えることさえある。女性の帯は特に幅広く、背中で美しい結び目を作る。ロンドンの女性のコルセットや腰飾りに似た役割を持つが、より視覚的に豊かな存在だ。
「その池に」と捕霧七は静かに言った。「今朝、帯が浮かんでいる」
私は池の水面を見た。確かに——派手な朱地に金の刺繍が施された、豪奢な女物の帯が、岸辺近くの水面に漂っていた。
「これは……」
「美しいが、不吉だ」と捕霧七は言った。
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その日の午前中、私たちは池の近くで聞き込みをした。
すぐに話が出てきた。
昨夜から、近所の長屋に住む若い女が行方知れずになっているというのだ。名をおみよ(みよ)といい、年は二十四、五。色白で器量よしの女で、旗本の囲い者だったという。
囲い者とは、武士や裕福な商人が妻以外に密かに養っている女性のことだ。ロンドンで言えば愛人に相当するが、江戸では一定の社会的認知があり、囲い者の女性には住まいと生活費が与えられる。彼女たちは正式な妻(正室、ないし奥方)ではないが、主の子を産めば、その子の地位に応じて扱われることもあった。
「おみよさんを囲っていた旗本というのは?」と私は訊いた。
「市ヶ谷の方に屋敷のある、坂部様とかいう方だそうで……」と、近所の野菜売りの女が言った。「でも最近は坂部様も来なくなって、おみよさんはとても困っていたようで……」
「池の帯はおみよのものか」
「それが……おみよさんが持っていた帯に似ているという話で……」
その夜、おみよの遺体が見つかった。
池からさほど遠くない竹薮の中に、首に絞め痕をつけて倒れていた。帯だけが外されて——その帯が池に投げ込まれていた。
「なぜ帯だけを取って池に捨てたのか」と私は言った。
「それが鍵だ」と捕霧七は静かに言った。
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翌朝、私たちは坂部屋敷を訪ねた。
市ヶ谷の台地の上に構える旗本屋敷は、この界隈では中堅程度の規模だった。坂部庄兵衛という当主は四十がらみで、私たちが来たと知ると、顔色を変えながらも玄関先で話を聞いた。
「おみよの一件は……何と言えばよいか……」
「いつからおみよさんと会わなくなったのですか」と捕霧七は訊いた。
「二ヶ月ほど前から……家の事情で……」と坂部は口ごもった。「正直に申せば、別れたいとは思っていたが、まだ正式に話はしていなかった」
「おみよさんに、あなた以外の男の縁はありましたか」
「それは……知りません」
「帯についてはいかがか。おみよさんに、上等の帯を贈ったことは?」
坂部の目が、わずかに揺れた。
「……去年の秋に一本。朱地に金の鶴の刺繍入りの帯を、京から取り寄せて」
「それが池に浮いていた帯です」と捕霧七は言った。
坂部は長い沈黙の後、「何かお役に立てることがあれば」と言って頭を下げた。
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坂部屋敷を出た後、捕霧七は私に言った。
「坂部は犯人ではない」
「なぜそう言い切れる」
「あの男は帯のことを知って動揺した。しかしそれは帯が見つかったことへの驚きではなく、帯が池にあることへの驚きだ。犯人なら、自分が帯を投げ込んだことを知っているから驚かない。あの男は、帯が池にあることを知らなかった」
「では誰が——」
「雑司ヶ谷へ行こう」と捕霧七は言った。「おみよの縁者が雑司ヶ谷の方にいると、近所の者が言っていた。それと——鬼子母神に寄ってみたい」
鬼子母神は、雑司ヶ谷にある有名な神社で、子授け(こさずけ)や安産の神として、江戸の庶民に広く信仰されていた。境内には大きな銀杏の木が立ち、参拝者は絶えない。ロンドンの庶民がウェストミンスター寺院に自然と足を向けるように、江戸の庶民は困った時に寺社へ向かう。
「鬼子母神に何か関係があるのか?」と私は訊いた。
「わからない。しかし、おみよが行方不明になる前の夜、近所の者が『おみよが着物を着替えて出かけた』と言っていた。何か願掛け(がんかけ)をしに行ったとすれば、鬼子母神は一番近い大きな寺社だ」
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雑司ヶ谷の道を歩きながら、私は江戸の信仰について捕霧七に教わった。
江戸の人々は、仏教と神道を自然に混ぜ合わせて信仰する。寺社への参詣は、礼拝の意味だけでなく、縁日の楽しみや、願掛けの場としての機能も持つ。願掛けとは、神仏に何かを願う時に、「願いが叶うまでは○○をしない」という誓いを立てることだ。ロンドンの人々が困った時に教会へ行くのと似ているが、よりインタラクティブで、個人の具体的な願いを直接神仏に申し込む感覚に近い。
「おみよは何を願いに行ったのだろう」と私は言った。
「坂部に捨てられたと感じていれば——縁が戻ることを願いに、かもしれない。あるいは——別の男との縁を」
「別の男?」
捕霧七はそれには答えず、鬼子母神の境内へ入った。
境内は梅の香りが漂い、参拝者がちらほらと歩いていた。大きな銀杏の木が境内の奥にそびえ、その根元に供え物が積まれている。
その時、境内の隅の茶店で休んでいる一人の女に、捕霧七の目が止まった。
「あの方は……」と彼は低く言った。
女は四十を過ぎたかと思われる、品の良い着物を着た人物だった。一人でいるのに、深刻な表情で何かを抱えているように見えた。
捕霧七は私に目配せをして、女に近づいた。
「失礼ながら——清元の師匠でいらっしゃいますか」
女は驚いて顔を上げた。
「……なぜわかりましたか」
「指の使い方と、座った時の姿勢に、三味線を長年弾かれた方の特徴がございます」と捕霧七は静かに言った。「こちらへは、尋ね人の願掛けに?」
女の目に、涙が光った。
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清元とは、江戸時代に発達した三味線音楽の一流派で、哀愁を帯びた甘い旋律が特徴だ。特に芸者の間で好まれ、師匠のもとに弟子が通って習う。この女——清元の師匠・文字菊——は、行方不明になっていた弟子を探して鬼子母神へ願掛けに来ていた。
「弟子というのは?」
「おみよと申します……わたくしのところで清元を習っていた子で……昨夜から姿が見えないと聞きまして……」
「おみよさんのことを、よくご存知ですか」と捕霧七は言った。
「ええ。三年ほど前から弟子に来ていました。坂部様に囲われてからも、ずっと稽古を続けていて……最近は、別の男の方と良い仲になっているようでした」
「その方はどのような人物ですか」
文字菊は少し躊躇してから言った。
「坂部様の、同じ組の旗本の方で……若沢様、とおっしゃいます。おみよが坂部様から離れたいと言い出したのも、その方との縁ができてから……」
「若沢という方はおみよと会っていたのですか」
「はい。おみよはわたくしに、若沢様が坂部様への別れの話をつけてくれると言っておりました。しかし……それがなかなか進まなくて……」
捕霧七の目が、静かに細くなった。
「文字菊師匠、おみよさんは今朝、竹薮で発見されました。亡くなっておられます」
女の口から、息を飲む音が漏れた。
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そこから先は、早かった。
捕霧七は同日の夕刻、若沢という旗本を訪ねた。
若沢は三十がらみの、細面の武士だった。私たちが訪ねると、ひどく動揺した様子を見せた。
「おみよのことは……気の毒だとは思っているが、私には関係が……」
「帯を池に投げ込んだのはなぜですか」と捕霧七は静かに言った。
若沢の顔が蒼白になった。
「何を……」
「あの池は『帯取りの池』と呼ばれている。帯を持って近づけば何かが引き込む——という伝説の場所です。おみよを絞め殺した後、その帯を池に投げ込めば、伝説の怪異の仕業に見える。あなたはその伝説を利用した」
「証拠はない」
「あります」と捕霧七は言った。「坂部様があなたへの書状の中で、おみよのことを『早晩手を切る』と書いていたはずです。その書状をおみよが持っていた——彼女がそれをあなたに見せて、坂部様から正式に別れてもらう交渉に使おうとした。しかしあなたは、その書状が外に出ることを恐れた」
若沢は何も言わなかった。
「その書状には、坂部様とあなたとの間の、別の話も書かれていたのではないですか。おみよには関係のない、旗本同士の取引か、あるいは何か公にできない内容が。その内容があなたに関わるものだとすれば——おみよを黙らせる動機は、坂部への未練からではなく、書状の内容を隠すためだ」
若沢は長い沈黙の後、ゆっくりと頭を垂れた。
「……おみよは、書状を全部読んでいた」
「わかりました」と捕霧七は言い、十手を取り出した。
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若沢は北町奉行所に引き渡された。
おみよの帯は、池から引き揚げられて清元の師匠・文字菊のもとへ届けられた。文字菊はその帯を手に、しばらく泣いていたという。
帯というものは、江戸の女性にとって単なる着物の一部ではなかった。上等の帯は一生ものの宝であり、大切な人から贈られた帯には、贈った者との縁が宿ると信じられていた。
「帯取りの池の伝説」というのは——考えてみれば奇妙な話だ。帯を引き込む池の怪異。しかしその伝説を利用して人を殺した若沢の行為の方が、よほど怪異に思われた。
「捕霧七さん」と私はその夕暮れ、市ヶ谷の池のほとりを歩きながら言った。「池の伝説は、本当にただの伝説なのか」
「伝説とは、人の記憶だ」と彼は言った。「過去にここで何かが起きた——帯を失った女がいた、あるいは帯とともに何かを失った者がいた——その記憶が積み重なって、伝説になる。でたらめではない。ただ、形を変えた記憶だ」
「では今回の帯も、伝説の一部になるかもしれない」
「なるだろう」と捕霧七は静かに言った。「しかし伝説になる前に、真実を知っておく必要がある。伝説は美しいが、真実の方が、もっと大切だ」
池の水面が、夕暮れの光を受けて橙色に染まっていた。
岸辺の葦が風に揺れ、かすかな音を立てた。
帯のない池は、ただ静かに水を湛えていた。
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【結末:ロンドン時代】
気づくと、私はベイカー街の居間にいた。
暖炉の前で、ホームズはテムズ河から引き揚げられたばかりのように、タオルで髪を拭いていた。
「君も落ちたのか」と私は言った。
「先に落ちたのはワトソン、君だ」とホームズはタオルを置いた。「私はその後を追った」
「そしてどうなった」
「桟橋の下の杭に引っかかって、通りがかりの荷船に救助された。レストレードの部下が見張っていたのが幸いした」と彼は言い、新聞を手に取った。「ショールの件は——川沿いの倉庫で、女性の遺体が見つかった。ショールの持ち主だ。犯人は先刻、警察に出頭した」
「誰が?」
「女性の愛人だった男だ。女性が別の男との関係を告白したことで、逆上した。ショールを川に投げ込んだのは——何かを隠すためではなく、動転していたからだろう。人は動転すると、奇妙なことをする」
「それは今回に限らない」と私は言った。
「伝説というものがある」とホームズはふいに言った。「テムズ河にはいくつかの伝説がある——特定の場所で溺れた者は助からない、河に落ちた帽子は三日後に浮かぶ、など。根拠はないが、人はそれを信じる。なぜだと思うか」
「説明のつかない恐怖を、形にしたいのだろう」
「その通り」とホームズは言い、暖炉の前の椅子に腰を下ろした。「ワトソン、人間の感情は、常に理性に先行する。それが探偵にとっての最大の障壁であり、同時に最も重要な手がかりになる」
「感情が手がかりに?」
「犯人の感情が、論理では説明できない行動を生む。その不合理な行動の中にこそ、犯人だけが知っている事実が潜んでいる。今回、川にショールを投げ込んだ行為は、論理的には意味がない。しかしその不合理さが、彼が現場にいたことを示した」
窓の外にロンドンの春の夕暮れが広がり、テムズの方からかすかに潮の香りが漂ってきた。
私は市ヶ谷の池を思い出した。朱地に金の刺繍の帯が、静かな水面に漂っていた、あの朝を。
美しいものが、悲しみの証拠になる時がある。それは江戸でも、ロンドンでも、変わらない。
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本作は、アーサー・コナン・ドイル著『シャーロック・ホームズの冒険』および岡本綺堂著『半七捕物帳』への敬意と感謝を込めて執筆しています。
著:コナン・綺堂異流(Conan Kidoyle)




