第十話:広重と河獺の組曲 〜 The Casebook of the Printmaker and the Otter 〜
一部AIにより作成
【冒頭:ロンドン時代】
一九〇〇年の四月、ロンドンは珍しく晴れが続いていた。
「ワトソン」とホームズはある昼下がり、窓際に立って外を眺めながら言った。「今日は歩こう。テムズ沿いを、ブラックフライアーズからタワー・ブリッジまで」
「何か目的があるのか」
「目的は歩くことだ。歩きながら話す」
これはホームズが記憶の整理をしたい時の習慣だった。ロンドンのテムズ河沿いを歩きながら、過去の事件を私に語る——そうすることで彼の中で何かが整理されるらしかった。
その日のホームズは、いつになく語り口が穏やかだった。河沿いの桟橋では帆船が揺れ、荷役の男たちが声を上げ、カモメが低く飛んでいた。
「ワトソン、一つ質問がある」とホームズはテムズを眺めながら言った。「川というものが事件を呼ぶと思うか」
「川?」
「水は人を集める。人が集まれば、人の業も集まる。江戸の隅田川も、ロンドンのテムズも——川の畔には常に、人間の欲望と哀しみが積み重なっている」
「詩的だ、ホームズ」
「観察だ」と彼は言った。
その時、上流から流れてきた空の樽が桟橋の支柱に激突し、腐っていた桟橋の床板が一枚飛んだ。飛んだ板が私の頭に直撃した。
私は倒れた。
そして——葉桜の江戸へ。
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【本編:江戸での事件】
——和登三太の語り——
今回の転生は、これまでで最も美しい季節に訪れた。
葉桜の季節——桜の花が散り、代わりに若葉が枝いっぱいに広がる、四月から五月の初めの頃だ。江戸の人々にとって花見——桜の下で飲食を楽しむ慣習——は春の最大の行事だが、花が散った後の葉桜もまた、独特の瑞々しい美しさを持つ。薄緑の葉が風に揺れ、花びらの名残が地に積もっている。
私と捕霧七が目を覚ましたのは、隅田川の西岸、浅草の少し南の堤の上だった。
隅田川は江戸の東を流れる大きな川で、浅草から向島にかけての川沿いには、桜並木が延々と続く。江戸随一の花見の名所でもあり、夏には花火大会の場ともなる。ロンドンのテムズが都市の動脈であるのと同様に、隅田川は江戸の生活と文化の背骨だった。
「今日はいい日だ」と捕霧七は立ち上がり、川を眺めながら言った。葉桜の枝が頭上に広がり、若葉の間から春の青空が覗いていた。
「事件がなければ、という条件つきで」と私は言った。
「事件は今日も二つある」と彼は静かに言った。
「どうしてわかる」
「二つの別々の話を、今夜聞く。そういう予感がする」
捕霧七の予感というものは、ロンドン時代から当たることが多かった。
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浅草の堤を北へ歩いていくと、対岸の向島の緑が水面に映ってきれいだった。
その道すがら、浅草の袖摺稲荷の近くで、私たちは騒ぎに出くわした。
旗本の屋敷の大屋根の上に、人だかりができていた。梯子をかけて何人かの男が上を覗き込み、口々に何か叫んでいる。
「何があった」と捕霧七が声をかけると、人垣の一人が振り返った。
「子供が……屋根の上に……死んでおります」
私たちは屋根に上がった。
大屋根の瓦の上に、小さな体が横たわっていた。三歳か四歳の女の子だった。着物は上等な縮緬地で、顔は穏やかに目を閉じていた。傷はない。外見上は、ただ眠っているように見えた。
縮緬とは、細かい凹凸のある絹織物で、柔らかく上品な質感を持つ。庶民の木綿とは格が違う高級品で、この幼女が着ているということは、裕福な家の子だということを示していた。
しかし——誰も知らなかった。この子が誰の子か。屋敷の者は全員首を振り、近所の者も知らなかった。
「三太、子供の死因はわかるか」と捕霧七は訊いた。
私は丁寧に調べた。
「傷はない。病死の可能性が高いが……体の状態からすると、死後それほど時間が経っていない。今朝早く、ここに置かれたのだろう」
「置かれた?」と屋敷の家臣が言った。「誰が……なぜ屋根の上に?」
「それが問題だ」と捕霧七は言い、屋根の上から周囲を見渡した。
袖摺稲荷の鳥居が見えた。遠く浅草寺の屋根が見えた。そして——川の向こう、十万坪と呼ばれる深川の方に続く砂村新田の方角に、小さな稲荷社の赤い鳥居が見えた。
捕霧七の目がそちらに向いた。
「三太、十万坪まで付き合ってくれるか」
「十万坪? 深川の向こうまで? なぜ?」
「広重の絵がある」
「……何の話だ」
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捕霧七が言う「広重」とは、歌川広重のことだった。
歌川広重は江戸時代後期の浮世絵師で、「東海道五十三次」や「名所江戸百景」などの風景版画で知られる。ロンドンで言えば、J・M・W・ターナーに相当する風景画の巨匠だ——いや、影響力という点ではターナーを超えて、後のモネやゴッホにも影響を与えることになるのだが、当時の江戸ではそこまでは誰も知らない。
「広重の名所江戸百景に、砂村新田の稲荷社を描いた絵がある」と捕霧七は歩きながら言った。「その絵の中に、ある手掛かりが隠れている気がする」
「絵の中に?」
「浮世絵師というのは、ただ景色を描くのではない。その場所に集まる人々の様子も描く。広重は特に、江戸の庶民の生活をよく観察していた。その観察眼が、今回の事件の背景を示しているかもしれない」
浮世絵というのは、江戸時代に発展した木版画の芸術形式で、歌舞伎役者・美人・風景・相撲取りなどを題材にした絵が、木の板に彫られて墨や色で刷られ、大量に流通した。ロンドンで言えば新聞の挿絵とポスターを合わせたような大衆的な存在だが、その芸術的水準は遥かに高い。一枚十六文(現代の数百円程度)から買える庶民の娯楽品でありながら、後世には世界の美術館に収蔵される芸術品となる。
深川の十万坪というのは、隅田川の東に広がる埋め立て地で、人里から少し離れた開けた場所だ。そこに続く砂村新田の一角に、小さな稲荷社があった。
その稲荷社の番人に話を聞くと、最近、夜中に人が来ていたという話が出てきた。
「若い女でした。二、三度。いつも赤ちゃんを抱いて……」
「その女の様子は」
「ひどく困っている様子で……一度、泣いているのを見かけました」
「その女はどこへ向かって来ていたか」
「浅草の方角から……」
捕霧七はその場から浅草の方角を見た。袖摺稲荷の方向——屋敷の屋根が遠く見える。
「わかった」と彼は静かに言った。
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翌日、捕霧七の推理が明かされた。
幼女は、浅草の料理屋で働く若い女中の子だった。父親は——黒沼屋敷の家臣の男で、女中と密かに関係を持っていたが、子が生まれたことを知ると知らぬ振りをした。
女中は一人で子を育てたが、子は生まれつき体が弱く、今年の正月過ぎに亡くなった。
女中は子を稲荷社に何度も連れて行き、回復を祈っていた。しかし願いは届かなかった。
「子を亡くした母親は、どこかへ正式に葬ることができなかった——父親を名乗る男もいない、貧しい女中の子として、寺に届けることが恥ずかしかったのかもしれない。あるいは、費用の問題もあったかもしれない」と捕霧七は言った。「そこで彼女は、父親の仕える屋敷の屋根に子を置いた。あの屋根から稲荷社の鳥居が見える——子の霊が、最後に参った稲荷社を見て安らかに逝けるようにと、思ったのかもしれない」
「……母親は今どこに?」と私は訊いた。
「料理屋を辞めて、行方知れずだ。探すことはできる」
「探すべきか?」
捕霧七は少し間を置いた。
「彼女は罪を犯していない。子を屋根に置いたことは法的には問題があるかもしれないが——子は病死で、母親が殺したわけではない。むしろ、父親を名乗ろうとしない男の方に問題がある」
「では——」
「奉行所への届けは、子供の身元不明の遺体という形で出す。それだけでいい」
それが捕霧七の選んだ答えだった。
浮世絵師・広重は、砂村新田の稲荷社の絵を描いた時、何を思っていたのだろう。その絵に、子を抱いた若い女の姿が描かれていたとしたら——広重の眼は、この悲しみを既に見ていたのかもしれない。
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その夜、今度は別の話が持ち込まれた。
夕暮れ時に私たちの長屋を訪ねてきたのは、本所中の郷で荒物屋を営む、五十がらみの男だった。荒物屋というのは、箒や籠など日用の道具を売る店で、ロンドンのハードウェア・ショップに近い。
「昨夜の話なのですが……」と男は言い、こういう事情を話した。
昨夜、秋雨の降る暗い夜に、血だらけの男が荒物屋に転げ込んできた。男は「暗い中を歩いていたら、傘の上から突然何かが飛び降りてきて、金を奪われた」と言った。
「何が飛び降りてきたのですか」と私は訊いた。
「それが……河獺だと思うと……」
河獺というのは、カワウソのことで、日本各地の河川に生息する水辺の動物だ。しかし江戸の人々の間では、カワウソは妖怪として恐れられることもあった——夜の川辺で人を驚かせたり、化けて悪さをすると言われていた。ロンドンのイギリス人がブラック・ドッグや妖精を恐れるのと同様の、土地の怪異譚だ。
「翌日——つまり今日の昼——下谷の道具屋の隠居、十右衛門という方が奉行所に届け出を出して……中の郷の川っぺりで何者かに傘の上から飛び降りられ、五十両入りの財布を奪われたと……」
「五十両」と私は言った。かなりの大金だ。
「それだけではなく……十右衛門の旦那は、奉行所に届け出る前に、わたしのところへ来て、こんなことを言いました——自分が囲っているお元という女の従弟を称する政吉という男が、最近うろついていて、河獺の仕業に見せかけて自分を襲ったのではないかと……」
捕霧七は聞きながら、煙管をゆっくり回していた。
「十右衛門とお元と政吉——三者の関係を整理しよう。三太、明日、十右衛門に会ってきてくれるか」
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翌朝、私は下谷の道具屋を訪ねた。
十右衛門は七十近い、痩せた老人だった。いかにも年季の入った商人という風貌で、目がよく動いた。
「お元の従弟を称する政吉という男ですが」と私は訊いた。「どのような人物ですか」
「それが……二ヶ月ほど前から突然現れて、お元の縁者だと言うのですが……お元は従弟がいるとは言ったことがなく……どうも怪しいのですが、お元が頼むものですから、時々顔を合わせていました。昨夜の事件の前日も、わたしが五十両の財布を懐に入れているのを、うっかり政吉に見られてしまいまして……」
「お元という方は今どちらに?」
「わたしが囲っている家に……」
「一つ確かめさせてください。政吉という男の話をお元にしたことはありますか。政吉が怪しいのではないかと」
十右衛門は少し考えてから言った。「……昨日の朝、愚痴のように言いました。政吉が怪しい気がする、と」
私は長屋に戻り、捕霧七に報告した。
「わかった」と彼はすぐに言った。
「何がわかった?」
「政吉はお元に指示を受けていた。お元が十右衛門の財布を政吉に教え、政吉が川で待ち伏せした。十右衛門が昨日の朝に政吉への疑いをお元に言ってしまったから——今夜、お元はどこかへ逃げようとするだろう」
「その根拠は?」
「十右衛門が五十両の財布を政吉に見られた、と言っていたが——十右衛門は人前でそんな大金を見せるような人物ではない。意図的に見せたのはお元だ。お元が政吉に合図を送った。そして疑いが政吉一人に向くように——河獺の仕業に見せかける工夫も、お元の指図だろう。江戸の川辺でカワウソが人を襲う話は、今の季節の風物だ」
その夜、捕霧七の読み通り、お元は荷物をまとめて逃げようとしていたところを、捕霧七と下っ引に捕まえられた。
政吉もまもなく見つかった。
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「二つの事件が一日で解けた」と私は夜遅く、隅田川の堤の上で捕霧七に言った。葉桜の夜は静かで、川面が月を映していた。
「どちらも、江戸の川が絡んでいた」と捕霧七は煙管を吹かしながら言った。「子を亡くした母親が稲荷社へ通った道も、財布を奪われた老人が歩いた川っぺりも——水の近くだ」
「川は人を集めると言ったことがあったな」
「ロンドンのテムズも、江戸の隅田川も——川は人の生活に欠かせないから、人が集まる。人が集まれば、悲しみも欲望も集まる。そして夜の川には、人が昼間に見せない顔が出てくる」
「広重は、それを知っていたのか」
「知っていたから描いた」と捕霧七は言った。「浮世絵師の眼は、探偵の眼と似ている。人が見ていないものを見る——あるいは、人が見ているのに気づかないものに気づく。広重の風景画には、必ず人の生活の影がある。それが彼の絵を、単なる景色の記録以上のものにしている」
「君は絵が好きなのか」
「観察として好きだ」とホームズ——いや、捕霧七は言い、煙管の煙を川面に向けて吹き出した。「良い絵というのは、描かれた対象だけでなく、描いた者の視点を示す。その視点を読むことが、絵を見る真の醍醐味だ」
葉桜の夜風が川面を渡り、若葉の香りと水の匂いが混じって届いた。
どこかで夜鳥が鳴き、隅田川の水が静かに流れ続けていた。
広重が描いた江戸の風景は——今夜もそこにあった。変わらぬ川と、変わり続ける人の営みとともに。
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【結末:ロンドン時代】
気づくと、私はベイカー街の居間にいた。
テムズ沿いから帰った後らしく、私の上着に川の匂いがした。ホームズは濡れた手拭いで頭を拭きながら、机の上の新聞を広げていた。
「頭の怪我は大丈夫か」と私は訊いた。
「この程度は怪我の内に入らない」とホームズは言い、手拭いを投げた。「ワトソン、広重という浮世絵師を知っているか」
「幾分は。大英博物館に版画が収蔵されている」
「あの男の絵は正直だ」とホームズは言った。「風景を描いているようで、実は人間の生活を描いている。橋の上の旅人、雨の中の道行く人——それぞれに物語がある。しかし見る者の多くは、景色だけを見て満足する」
「君は人物を見る方か」
「背景に何気なく描かれた人物の方が、時として主題より多くを語る」とホームズは言い、立ち上って窓際に近づいた。「テムズ沿いを歩いていた時、私は何人かの人間を観察していた。あの桟橋に近づいていた老人——あの男は先週も同じ時間に同じ場所にいた。彼が何をしているのか、今日は確かめるつもりだったが——板が飛んできてしまった」
「事故が邪魔をしたわけか」
「事故もまた、ある種の情報を含む」とホームズは言い、窓の外のテムズを眺めた。「あの桟橋が腐っていることを、誰が知っていて、誰が知らなかったか——それ自体が問いかけだ」
「その答えは?」
「次の機会に確かめる」とホームズは言い、パイプを手に取った。
窓の外でテムズが流れていた。春の日差しの中で、葉桜ならぬポプラの若葉が川沿いに揺れていた。
江戸の隅田川と、ロンドンのテムズ——水は世界中を流れ、人の物語を運んで、海へと向かっていく。
探偵という仕事も、それに似ているかもしれない——人の物語を拾い上げ、つなぎ合わせ、どこかへ届ける。
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本作は、アーサー・コナン・ドイル著『シャーロック・ホームズの冒険』および岡本綺堂著『半七捕物帳』への敬意と感謝を込めて執筆しています。
著:コナン・綺堂異流(Conan Kidoyle)




