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ホームズ捕物帳 ~ロンドンの名探偵、江戸に転生して岡っ引きになる  作者: コナン・綺堂異流


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10/26

第十話:広重と河獺の組曲 〜 The Casebook of the Printmaker and the Otter 〜

一部AIにより作成


挿絵(By みてみん)


【冒頭:ロンドン時代】


一九〇〇年の四月、ロンドンは珍しく晴れが続いていた。


「ワトソン」とホームズはある昼下がり、窓際に立って外を眺めながら言った。「今日は歩こう。テムズ沿いを、ブラックフライアーズからタワー・ブリッジまで」


「何か目的があるのか」


「目的は歩くことだ。歩きながら話す」


これはホームズが記憶の整理をしたい時の習慣だった。ロンドンのテムズ河沿いを歩きながら、過去の事件を私に語る——そうすることで彼の中で何かが整理されるらしかった。


その日のホームズは、いつになく語り口が穏やかだった。河沿いの桟橋では帆船が揺れ、荷役の男たちが声を上げ、カモメが低く飛んでいた。


「ワトソン、一つ質問がある」とホームズはテムズを眺めながら言った。「川というものが事件を呼ぶと思うか」


「川?」


「水は人を集める。人が集まれば、人の業も集まる。江戸の隅田川も、ロンドンのテムズも——川の畔には常に、人間の欲望と哀しみが積み重なっている」


「詩的だ、ホームズ」


「観察だ」と彼は言った。


その時、上流から流れてきた空の樽が桟橋の支柱に激突し、腐っていた桟橋の床板が一枚飛んだ。飛んだ板が私の頭に直撃した。


私は倒れた。


そして——葉桜の江戸へ。




******




【本編:江戸での事件】


——和登三太の語り——


今回の転生は、これまでで最も美しい季節に訪れた。


葉桜はざくらの季節——桜の花が散り、代わりに若葉が枝いっぱいに広がる、四月から五月の初めの頃だ。江戸の人々にとって花見はなみ——桜の下で飲食を楽しむ慣習——は春の最大の行事だが、花が散った後の葉桜もまた、独特の瑞々しい美しさを持つ。薄緑の葉が風に揺れ、花びらの名残が地に積もっている。


私と捕霧七が目を覚ましたのは、隅田川すみだがわの西岸、浅草の少し南の堤の上だった。


隅田川は江戸の東を流れる大きな川で、浅草から向島むこうじまにかけての川沿いには、桜並木が延々と続く。江戸随一の花見の名所でもあり、夏には花火大会の場ともなる。ロンドンのテムズが都市の動脈であるのと同様に、隅田川は江戸の生活と文化の背骨だった。


「今日はいい日だ」と捕霧七は立ち上がり、川を眺めながら言った。葉桜の枝が頭上に広がり、若葉の間から春の青空が覗いていた。


「事件がなければ、という条件つきで」と私は言った。


「事件は今日も二つある」と彼は静かに言った。


「どうしてわかる」


「二つの別々の話を、今夜聞く。そういう予感がする」


捕霧七の予感というものは、ロンドン時代から当たることが多かった。




******




浅草の堤を北へ歩いていくと、対岸の向島の緑が水面に映ってきれいだった。


その道すがら、浅草の袖摺稲荷そでずりいなりの近くで、私たちは騒ぎに出くわした。


旗本の屋敷の大屋根の上に、人だかりができていた。梯子をかけて何人かの男が上を覗き込み、口々に何か叫んでいる。


「何があった」と捕霧七が声をかけると、人垣の一人が振り返った。


「子供が……屋根の上に……死んでおります」


私たちは屋根に上がった。


大屋根の瓦の上に、小さな体が横たわっていた。三歳か四歳の女の子だった。着物は上等な縮緬ちりめん地で、顔は穏やかに目を閉じていた。傷はない。外見上は、ただ眠っているように見えた。


縮緬ちりめんとは、細かい凹凸のある絹織物で、柔らかく上品な質感を持つ。庶民の木綿もめんとは格が違う高級品で、この幼女が着ているということは、裕福な家の子だということを示していた。


しかし——誰も知らなかった。この子が誰の子か。屋敷の者は全員首を振り、近所の者も知らなかった。


「三太、子供の死因はわかるか」と捕霧七は訊いた。


私は丁寧に調べた。


「傷はない。病死の可能性が高いが……体の状態からすると、死後それほど時間が経っていない。今朝早く、ここに置かれたのだろう」


「置かれた?」と屋敷の家臣が言った。「誰が……なぜ屋根の上に?」


「それが問題だ」と捕霧七は言い、屋根の上から周囲を見渡した。


袖摺稲荷の鳥居が見えた。遠く浅草寺の屋根が見えた。そして——川の向こう、十万坪と呼ばれる深川の方に続く砂村新田すなむらしんでんの方角に、小さな稲荷社の赤い鳥居が見えた。


捕霧七の目がそちらに向いた。


「三太、十万坪まで付き合ってくれるか」


「十万坪? 深川の向こうまで? なぜ?」


「広重の絵がある」


「……何の話だ」




******




捕霧七が言う「広重」とは、歌川広重うたがわ ひろしげのことだった。


歌川広重は江戸時代後期の浮世絵師で、「東海道五十三次とうかいどうごじゅうさんつぎ」や「名所江戸百景めいしょえどひゃっけい」などの風景版画で知られる。ロンドンで言えば、J・M・W・ターナーに相当する風景画の巨匠だ——いや、影響力という点ではターナーを超えて、後のモネやゴッホにも影響を与えることになるのだが、当時の江戸ではそこまでは誰も知らない。


「広重の名所江戸百景に、砂村新田の稲荷社を描いた絵がある」と捕霧七は歩きながら言った。「その絵の中に、ある手掛かりが隠れている気がする」


「絵の中に?」


「浮世絵師というのは、ただ景色を描くのではない。その場所に集まる人々の様子も描く。広重は特に、江戸の庶民の生活をよく観察していた。その観察眼が、今回の事件の背景を示しているかもしれない」


浮世絵うきよえというのは、江戸時代に発展した木版画の芸術形式で、歌舞伎役者・美人・風景・相撲取りなどを題材にした絵が、木の板に彫られて墨や色で刷られ、大量に流通した。ロンドンで言えば新聞の挿絵とポスターを合わせたような大衆的な存在だが、その芸術的水準は遥かに高い。一枚十六文(現代の数百円程度)から買える庶民の娯楽品でありながら、後世には世界の美術館に収蔵される芸術品となる。


深川の十万坪というのは、隅田川の東に広がる埋め立て地で、人里から少し離れた開けた場所だ。そこに続く砂村新田の一角に、小さな稲荷社があった。


その稲荷社の番人に話を聞くと、最近、夜中に人が来ていたという話が出てきた。


「若い女でした。二、三度。いつも赤ちゃんを抱いて……」


「その女の様子は」


「ひどく困っている様子で……一度、泣いているのを見かけました」


「その女はどこへ向かって来ていたか」


「浅草の方角から……」


捕霧七はその場から浅草の方角を見た。袖摺稲荷の方向——屋敷の屋根が遠く見える。


「わかった」と彼は静かに言った。




******




翌日、捕霧七の推理が明かされた。


幼女は、浅草の料理屋で働く若い女中の子だった。父親は——黒沼くろぬま屋敷の家臣の男で、女中と密かに関係を持っていたが、子が生まれたことを知ると知らぬ振りをした。


女中は一人で子を育てたが、子は生まれつき体が弱く、今年の正月過ぎに亡くなった。


女中は子を稲荷社に何度も連れて行き、回復を祈っていた。しかし願いは届かなかった。


「子を亡くした母親は、どこかへ正式に葬ることができなかった——父親を名乗る男もいない、貧しい女中の子として、寺に届けることが恥ずかしかったのかもしれない。あるいは、費用の問題もあったかもしれない」と捕霧七は言った。「そこで彼女は、父親の仕える屋敷の屋根に子を置いた。あの屋根から稲荷社の鳥居が見える——子の霊が、最後に参った稲荷社を見て安らかに逝けるようにと、思ったのかもしれない」


「……母親は今どこに?」と私は訊いた。


「料理屋を辞めて、行方知れずだ。探すことはできる」


「探すべきか?」


捕霧七は少し間を置いた。


「彼女は罪を犯していない。子を屋根に置いたことは法的には問題があるかもしれないが——子は病死で、母親が殺したわけではない。むしろ、父親を名乗ろうとしない男の方に問題がある」


「では——」


「奉行所への届けは、子供の身元不明の遺体という形で出す。それだけでいい」


それが捕霧七の選んだ答えだった。


浮世絵師・広重は、砂村新田の稲荷社の絵を描いた時、何を思っていたのだろう。その絵に、子を抱いた若い女の姿が描かれていたとしたら——広重の眼は、この悲しみを既に見ていたのかもしれない。




******




その夜、今度は別の話が持ち込まれた。


夕暮れ時に私たちの長屋を訪ねてきたのは、本所ほんじょ中のなかのごう荒物屋あらものやを営む、五十がらみの男だった。荒物屋というのは、ほうきかごなど日用の道具を売る店で、ロンドンのハードウェア・ショップに近い。


「昨夜の話なのですが……」と男は言い、こういう事情を話した。


昨夜、秋雨の降る暗い夜に、血だらけの男が荒物屋に転げ込んできた。男は「暗い中を歩いていたら、傘の上から突然何かが飛び降りてきて、金を奪われた」と言った。


「何が飛び降りてきたのですか」と私は訊いた。


「それが……河獺かわうそだと思うと……」


河獺かわうそというのは、カワウソのことで、日本各地の河川に生息する水辺の動物だ。しかし江戸の人々の間では、カワウソは妖怪として恐れられることもあった——夜の川辺で人を驚かせたり、化けて悪さをすると言われていた。ロンドンのイギリス人がブラック・ドッグや妖精を恐れるのと同様の、土地の怪異譚だ。


「翌日——つまり今日の昼——下谷したやの道具屋の隠居、十右衛門じゅうえもんという方が奉行所に届け出を出して……中の郷の川っぺりで何者かに傘の上から飛び降りられ、五十両入りの財布を奪われたと……」


「五十両」と私は言った。かなりの大金だ。


「それだけではなく……十右衛門の旦那は、奉行所に届け出る前に、わたしのところへ来て、こんなことを言いました——自分が囲っているおもとという女の従弟いとこを称する政吉まさきちという男が、最近うろついていて、河獺の仕業に見せかけて自分を襲ったのではないかと……」


捕霧七は聞きながら、煙管をゆっくり回していた。


「十右衛門とお元と政吉——三者の関係を整理しよう。三太、明日、十右衛門に会ってきてくれるか」




******




翌朝、私は下谷の道具屋を訪ねた。


十右衛門は七十近い、痩せた老人だった。いかにも年季の入った商人という風貌で、目がよく動いた。


「お元の従弟を称する政吉という男ですが」と私は訊いた。「どのような人物ですか」


「それが……二ヶ月ほど前から突然現れて、お元の縁者だと言うのですが……お元は従弟がいるとは言ったことがなく……どうも怪しいのですが、お元が頼むものですから、時々顔を合わせていました。昨夜の事件の前日も、わたしが五十両の財布を懐に入れているのを、うっかり政吉に見られてしまいまして……」


「お元という方は今どちらに?」


「わたしが囲っている家に……」


「一つ確かめさせてください。政吉という男の話をお元にしたことはありますか。政吉が怪しいのではないかと」


十右衛門は少し考えてから言った。「……昨日の朝、愚痴のように言いました。政吉が怪しい気がする、と」


私は長屋に戻り、捕霧七に報告した。


「わかった」と彼はすぐに言った。


「何がわかった?」


「政吉はお元に指示を受けていた。お元が十右衛門の財布を政吉に教え、政吉が川で待ち伏せした。十右衛門が昨日の朝に政吉への疑いをお元に言ってしまったから——今夜、お元はどこかへ逃げようとするだろう」


「その根拠は?」


「十右衛門が五十両の財布を政吉に見られた、と言っていたが——十右衛門は人前でそんな大金を見せるような人物ではない。意図的に見せたのはお元だ。お元が政吉に合図を送った。そして疑いが政吉一人に向くように——河獺の仕業に見せかける工夫も、お元の指図だろう。江戸の川辺でカワウソが人を襲う話は、今の季節の風物だ」


その夜、捕霧七の読み通り、お元は荷物をまとめて逃げようとしていたところを、捕霧七と下っしたっぴきに捕まえられた。


政吉もまもなく見つかった。




******




「二つの事件が一日で解けた」と私は夜遅く、隅田川の堤の上で捕霧七に言った。葉桜の夜は静かで、川面が月を映していた。


「どちらも、江戸の川が絡んでいた」と捕霧七は煙管を吹かしながら言った。「子を亡くした母親が稲荷社へ通った道も、財布を奪われた老人が歩いた川っぺりも——水の近くだ」


「川は人を集めると言ったことがあったな」


「ロンドンのテムズも、江戸の隅田川も——川は人の生活に欠かせないから、人が集まる。人が集まれば、悲しみも欲望も集まる。そして夜の川には、人が昼間に見せない顔が出てくる」


「広重は、それを知っていたのか」


「知っていたから描いた」と捕霧七は言った。「浮世絵師の眼は、探偵の眼と似ている。人が見ていないものを見る——あるいは、人が見ているのに気づかないものに気づく。広重の風景画には、必ず人の生活の影がある。それが彼の絵を、単なる景色の記録以上のものにしている」


「君は絵が好きなのか」


「観察として好きだ」とホームズ——いや、捕霧七は言い、煙管の煙を川面に向けて吹き出した。「良い絵というのは、描かれた対象だけでなく、描いた者の視点を示す。その視点を読むことが、絵を見る真の醍醐味だ」


葉桜の夜風が川面を渡り、若葉の香りと水の匂いが混じって届いた。


どこかで夜鳥が鳴き、隅田川の水が静かに流れ続けていた。


広重が描いた江戸の風景は——今夜もそこにあった。変わらぬ川と、変わり続ける人の営みとともに。




******




【結末:ロンドン時代】


気づくと、私はベイカー街の居間にいた。


テムズ沿いから帰った後らしく、私の上着に川の匂いがした。ホームズは濡れた手拭いで頭を拭きながら、机の上の新聞を広げていた。


「頭の怪我は大丈夫か」と私は訊いた。


「この程度は怪我の内に入らない」とホームズは言い、手拭いを投げた。「ワトソン、広重という浮世絵師を知っているか」


「幾分は。大英博物館に版画が収蔵されている」


「あの男の絵は正直だ」とホームズは言った。「風景を描いているようで、実は人間の生活を描いている。橋の上の旅人、雨の中の道行く人——それぞれに物語がある。しかし見る者の多くは、景色だけを見て満足する」


「君は人物を見る方か」


「背景に何気なく描かれた人物の方が、時として主題より多くを語る」とホームズは言い、立ち上って窓際に近づいた。「テムズ沿いを歩いていた時、私は何人かの人間を観察していた。あの桟橋に近づいていた老人——あの男は先週も同じ時間に同じ場所にいた。彼が何をしているのか、今日は確かめるつもりだったが——板が飛んできてしまった」


「事故が邪魔をしたわけか」


「事故もまた、ある種の情報を含む」とホームズは言い、窓の外のテムズを眺めた。「あの桟橋が腐っていることを、誰が知っていて、誰が知らなかったか——それ自体が問いかけだ」


「その答えは?」


「次の機会に確かめる」とホームズは言い、パイプを手に取った。


窓の外でテムズが流れていた。春の日差しの中で、葉桜ならぬポプラの若葉が川沿いに揺れていた。


江戸の隅田川と、ロンドンのテムズ——水は世界中を流れ、人の物語を運んで、海へと向かっていく。


探偵という仕事も、それに似ているかもしれない——人の物語を拾い上げ、つなぎ合わせ、どこかへ届ける。




******




本作は、アーサー・コナン・ドイル著『シャーロック・ホームズの冒険』および岡本綺堂著『半七捕物帳』への敬意と感謝を込めて執筆しています。




著:コナン・綺堂異流(Conan Kidoyle)

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