第十一話:朝顔屋敷の失踪 〜 The Adventure of the Morning Glory Mansion 〜
一部AIにより作成
【冒頭:ロンドン時代】
一九〇一年の十一月、ロンドンは霧の季節の真っ只中にあった。
ホームズはここ数日、不機嫌というよりも、妙に熱心な状態が続いていた。机の上には大量の書類が積み重なり、それは幕府時代の日本の行政制度に関する資料だった——大英博物館から借り出した英文の文献と、どこかから手に入れた日本語の文書が混在していた。
「ホームズ」と私は言った。「なぜ急に江戸の行政制度を?」
「先日、日本公使館のある人物と話す機会があって」と彼は書類から目を離さずに答えた。「幕府が行っていた官吏登用試験の話を聞いた。素読吟味というものだ」
「どんな試験か」
「儒学の素読——漢籍を音読し、その内容を問われる試験だ。旗本や御家人の子弟が受け、成績次第で幕府の職に就く機会が生まれる。科挙と呼ばれる中国の官吏登用試験の簡略版に相当する。興味深いのは——」と彼はようやく書類を置き、私を見た。「この試験を受ける途中で失踪した若者の話が、当時の記録に残っている。試験当日の朝、付き添いの者が目を離したわずかな間に消えた。誰にも行き先を告げず、動機も不明——」
「まるで我々の仕事みたいな話だ」と私は言った。
「その通りだ」とホームズは言い、立ち上がった。「ワトソン、今夜は少し頭を使いたい。ちょっと出かけよう——霧の中でも構わないか」
「どこへ?」
「なんとなく、歩きながら考えたい」
霧のロンドンを歩きながら、ホームズは例の失踪事件を私に語り続けた。話に熱が入るほど、彼の歩調は速くなった。私は必死についていった。
角を曲がった瞬間、馬車が突っ込んできた——霧で御者が見えていなかったのだ。
私は飛び退いたが、ホームズは——。
「ホームズ!」
霧の中で、彼の姿が消えた。
その瞬間、私も何かに踏み外して——側溝に落ちた。
頭を打った。
そして——また、江戸の初冬へ。
******
【本編:江戸での事件】
——和登三太の語り——
十一月の江戸の朝というのは、凛とした寒さがある。
秋が深まり、木々の葉が落ち始め、空気が澄んでいて遠くまで見通せる。ロンドンの十一月は霧と雨だが、江戸の十一月は晴れが多く、富士山が西の空に白く浮かぶ日もある。
私と捕霧七が目を覚ましたのは、八丁堀の近くだった。
八丁堀というのは、江戸の治安の中心地だ。ここには幕府直属の与力と同心——すなわち江戸の警察組織の中核をなす役人——の組屋敷が集まっていた。与力は上位の警察官で、同心はその下で実際の捜査にあたる。岡っ引きは同心の下で動く民間協力者だ。ロンドンで言えば、与力がスコットランド・ヤードの警部、同心が警部補、岡っ引きが私立探偵に近い——ただし岡っ引きは給与がなく、謝礼で暮らすという点でホームズに近いかもしれない。
「捕霧七さん、八丁堀の同心組屋敷の近くだ」と私は言った。
「用事ができたようだ」と彼はすでに起き上がり、着物の裾を払いながら言った。
そこへ、一人の武家の男が足早に近づいてきた。年は五十がらみで、羽織に紋がついている。用人——武家屋敷の家政や対外交渉を取り仕切る上級家臣——という風貌だった。
「あの……写楽の旦那ではございませんか。槇原様のご紹介で……捜していました」
「私が捕霧七です。どのようなご用件で」
「実は——内密にご相談したいことが。旗本杉野家の用人、中島と申します」
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中島の話は、こういうことだった。
今から八日前——十一月八日の早朝のこと。
四谷の裏四番町に屋敷を構える旗本、杉野家の嫡男大三郎が、その朝行われる素読吟味のために、付き添いの小小姓山崎とともに早朝に屋敷を出た。
素読吟味とは、幕府の昌平坂学問所——御茶の水の聖堂に設けられた幕府直属の学問機関——で行われる試験だ。旗本・御家人の子弟が漢籍——中国の古典——を音読し、その理解を問われる。成績優秀者には幕府の役職に就く機会が与えられる。ロンドンで言えばオックスフォードやケンブリッジの入学試験に近いが、武家社会において、旗本の嫡男がこの試験を受けることは大きな意味を持つ。合格すれば家名の誉れとなり、将来の出世の道が開かれる。
「大三郎様は屋敷を出て、しばらく歩いたところで、付き添いの山崎が草履の緒が切れたのに気づきました。草履屋に寄って緒をすげ替えるほんのわずかな間に——大三郎様の姿が消えていたのです」
草履の緒とは、足の指に挟む紐のことで、歩いているうちに切れることがある。すげ替えるのに要する時間は、精々五分程度だ。
「その五分の間に消えたのか」と私は言った。
「はい。山崎が気づいて周囲を探しましたが、もうどこにも……。試験の日に嫡男が行方知れずになったことは、杉野家にとって恥辱も恥辱、外には絶対に漏らせない。そこで内密に岡っ引きの旦那のお力をお借りしようと……」
「山崎という小小姓は今どこに」と捕霧七は訊いた。
「屋敷に控えております」
「その者に会いたい」
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小小姓とは、武家屋敷で主人に近侍する若い家臣のことだ。主人の外出に付き添い、荷物を持ったり、雑用をこなしたりする。年齢は十代から二十代が多く、将来の出世の足がかりとして重要な役職だ。ロンドンで言えば、貴族の邸宅のフットマン(随行召使い)に近い。
杉野屋敷を訪ねると、門番が顔をしかめたが、中島の口添えで中へ通された。
山崎という小小姓は、二十二、三の若者だった。細面で、目元が利口そうだが、私たちを見た瞬間、その目に微かな緊張が走った。
捕霧七はそれを見逃さなかった。
「山崎殿、あの朝の話を聞かせてください」と彼は静かに言った。
山崎は淡々と話した——草履の緒が切れた、草履屋に寄った、戻ると大三郎がいなかった。それだけだ。表情は落ち着いており、動揺を見せなかった。
「草履屋はどこにありましたか」と捕霧七は訊いた。
「麹町の通りに……」
「そこから聖堂まで、大三郎殿は一人で歩けない距離ではないですね。つまり自分から消えることはできた」
「……さようでございます」
「大三郎殿は、試験についてどのようにお考えだったか。楽しみにしていましたか、それとも……」
山崎は一瞬、答えを探すように目を泳がせた。
「……前向きに、勉強をなさっておられました」
捕霧七はそれ以上は問わなかった。しかし帰り際に、私に小声で言った。
「あの男は何かを隠している。しかしまだ時ではない」
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「捕霧七さん」と私は帰り道に言った。「杉野家には『朝顔屋敷』という怪談があると聞いたが」
捕霧七は少し考えてから答えた。
「朝顔とは、夏に咲く蔓性の花だ。青や紫の鮮やかな花を朝に開かせ、午後にはしぼむ。江戸では朝顔を育てることが庶民の間で大変流行し、特に変わった形や色の朝顔を競い合う『朝顔番付』というものまで作られていた。ロンドンのガーデニング愛好家と似た文化だ」
「その屋敷に朝顔の怪談があると?」
「昔、杉野家の先代の奥方が、朝顔の花に目を覚ますのが好きで、毎朝庭に出ていた。ある夏の早朝、奥方が朝顔の前で倒れて亡くなった——その後、早朝に庭で女の声が聞こえるとか、朝顔の花が血のように赤く染まるとか……そういう話が残っている」
「それが今回の失踪と何か関係が?」
「わからない。しかし杉野家には、怪談以上の何かが潜んでいる気がする」
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翌日、捕霧七は別の方向から調べを進めた。
素読吟味が行われる昌平坂学問所の近くで、当日を知っている者を探したのだ。
すると、一つの話が出てきた。
試験当日の朝、御茶の水の橋の上で、若い武士と女が話しているのを見た、という目撃談だった。話していたのはほんの短い時間で、女は急ぎ足で去り、若い武士は何かを受け取った——そう話してくれたのは、毎朝その橋の上で豆腐を売る老人だった。
「若い武士の年格好は」と捕霧七は訊いた。
「十七か八の、なかなか男前の若者でした。紋付き袴姿で、試験に行く身なりに見えました」
「女の方は」
「年は三十ちょっとくらい。上等な着物を着ていましたが、顔は少し……疲れているような……何かひどく辛そうな顔をしていました。若い武士に何か渡して、涙をこらえているように見えました」
「何を渡した?」
「手紙のように見えました。折りたたんだ紙を」
捕霧七は豆腐売りの老人に礼を言い、私と二人で静かに歩き始めた。
「三太」と彼は言った。「杉野家の内情をもう少し調べる必要がある。近所の者に当たってくれ。特に——杉野家の奥向きのことに詳しい者を」
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私が近所の米屋で聞き出した話はこうだった。
杉野家の当主は六十がらみの武骨な旗本で、大三郎は先妻の子だ。現在の奥方——後妻——は当主より二十以上も年下で、大三郎とは十歳ほどしか歳が離れていない。
「後妻の方と大三郎様は、仲がよくなかったようですね」と米屋の女房は声を低くした。「大三郎様が試験を受けるのも、後妻の方が強く勧めたと聞きましたが——大三郎様本人は乗り気でないようで……」
「後妻の方にお子はいるか」と私は訊いた。
「いません」
「それは……」と私は思い当たった。後妻に子がなく、先妻の子が嫡男として試験を受けて出世する——後妻にとって大三郎の将来は、複雑な意味を持ちうる。
しかし私が長屋に戻って捕霧七に報告すると、彼は首を横に振った。
「後妻が大三郎を排除しようとしたのであれば、試験の前日に消えさせることに意味はない。試験に失敗させる方が自然だ。あるいは別の方法があるが——今回の失踪には、もっと単純な動機がある」
「単純な動機?」
「大三郎は自分から消えた。そして橋の上で女から手紙を受け取った。山崎はそれを知っていて、黙っている」
「では、あの女は誰で、手紙の内容は——」
「明日、山崎に直接聞く。今度は本当のことを話してもらう」
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翌朝、捕霧七は山崎を単独で呼び出した。
私は少し離れたところで、様子を見ていた。
捕霧七は山崎に向かい、いつもの静かな口調で言った。
「山崎殿、大三郎殿が橋の上で女から手紙を受け取ったことを、あなたは見ていましたね。そして草履の緒は——切れていなかった。切れたと言ったのは、二人が話せる時間を作るためだった」
山崎の顔が、蒼白になった。
「……どうして……」
「草履屋に行ったのが本当なら、新しい緒に替えた草履の状態が残っているはずだ。しかしあなたの草履はもう一度、古い緒に替えられている。草履屋に寄るふりをして、実は大三郎殿と女が話す時間を作るために離れた——そういうことですね」
山崎は長い沈黙の後、観念したように話し始めた。
大三郎は——杉野家の屋敷の近くに住む、ある浪人の娘と密かに恋仲だった。しかし杉野家の当主は、嫡男が浪人の娘と関係を持つことを絶対に許さない。二人は半年前から文のやりとりを続けており、山崎がその仲立ちをしていた。
試験の当日の朝、橋の上で渡されたのは——「この試験が終わったら、私のことは諦めてください」という女からの手紙だった。女の父親が重い病で倒れ、もはや娘を養う余裕がなく、縁談を断る力もないという内容だった。
「大三郎様は、その手紙を読んで……」と山崎は絞り出すように言った。「試験の場に向かえなくなったのだと思います。しかし私には……大三郎様がどこへ向かったか……本当にわからないのです」
「女の名前と居所を教えてください」と捕霧七は言った。
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女の名はおそで(袖)という、二十歳の娘だった。
浪人の父親は確かに重い病に臥しており、おそでが一人で看病していた。
捕霧七が訊くと、おそでは最初は黙っていたが、大三郎の安否を案じる様子が真剣だったため、やがて話してくれた。
「あの朝、手紙をお渡しした後……大三郎様は泣いておられました。私が行ってしまってから……どこかへ行かれたのだと思います。でも私には……行き先が……」
「一つだけ聞かせてください」と捕霧七は言った。「大三郎殿が、誰かを頼るとすれば——屋敷の者でも、あなたでもない、第三の人物はいますか」
おそでは少し考えてから言った。
「……お母様、かもしれません」
「先代の奥方はすでに亡くなられているはずですが」
「いいえ。大三郎様のお母様は——杉野家を出て、深川の方に……ひっそりと暮らしておられると聞きました。大三郎様が時々、こっそり会いに行かれていると……」
捕霧七の目が、ゆっくりと細くなった。
「深川のどの辺りか」
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その夕方、私たちは深川の長屋の一角にある、小さな一室を訪ねた。
そこに、先代の奥方——今は離縁されてひっそりと暮らすお松という女性がいた。五十前後の、静かな顔をした女だった。
大三郎は——そこにいた。
部屋の隅に正座して、俯いていた。私たちが入ってくると顔を上げた。目が赤く腫れていた。
「大三郎殿」と捕霧七は静かに言った。「杉野家の方々が心配しています。帰ってください」
大三郎はしばらく黙っていたが、やがて言った。
「私は……あの屋敷が、嫌です」
「わかります」と捕霧七は言った。「しかし帰らないことで、一番傷つくのは誰ですか」
「……母上です」と大三郎は言い、傍らのお松を見た。「母上が、この長屋で肩身を狭くされているのは……私があの屋敷にいるからです。私が出ていけば——」
「出ていけば、お母様の立場がもっと悪くなる」と捕霧七は穏やかに言った。「あなたが杉野家の嫡男である間は、あなたのお母様は元奥方としての立場が保たれる。あなたが失踪すれば——その立場さえ失われます」
大三郎の顔が、くしゃりと歪んだ。
お松が静かに息子の手を取った。
「帰りなさい、大三郎。お母様はここで大丈夫です」
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大三郎は翌朝、杉野屋敷に戻った。
素読吟味は八日遅れたが、担当の同心の配慮で、体調不良を理由とした再受験の届け出が認められた。
「捕霧七さん」と私は杉野屋敷から帰る道で言った。「朝顔屋敷の怪談というのは——先代の奥方が庭で亡くなった話だったが、実は先代の奥方は生きていた」
「生きている者が怪談になった」と捕霧七は言った。「おそらく当主が、先妻を離縁した事実を隠すために、死んだと話した。朝顔の前で亡くなったという話を作った。しかし屋敷の中では、先妻が生きていることを知る者もいて——それが怪談として変形して伝わった」
「それは悲しい話だ」
「人が怪談を作る時、そこには必ず現実の悲しみがある」と彼は言った。「朝顔は毎朝花を開かせ、夕方にしぼむ。それを好きだった女は今も深川で生きている。屋敷の庭の朝顔は、今も毎夏咲いているだろう。しかしそれを誰も、彼女に伝えない」
初冬の道に、枯れ葉が舞っていた。
もうすぐ冬が来れば、朝顔の蔓も枯れる。しかし来年の夏にはまた咲く——花というものは、それを覚えている人間がいなくても、変わらず咲き続ける。
その健気さを、私はロンドン時代には感じたことがなかった。江戸の花々には、何か人の感情に直接触れてくるものがある。
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【結末:ロンドン時代】
気づくと、私はベイカー街の居間にいた。
十一月の霧の中、暖炉の炎が赤く揺れていた。ホームズは机の前に座り、例の日本の行政制度の資料をまだ読んでいた。
「ホームズ、大丈夫か」と私は言った。「馬車に——」
「掠っただけだ」と彼は言い、こめかみの辺りを手で触れた。「ワトソン、素読吟味について調べていたが——面白いことがわかった」
「何が」
「この試験で優秀な成績を収めた者の名簿が残っているが、その中に幕末から明治にかけて活躍した人物が何人もいる。試験というのは——人の可能性を測るものだが、同時に、試験に失敗した者の物語は残らない」
「消えた者の話が残らない」と私は言った。
「そう。しかし消えた者にも物語がある」とホームズは言い、資料を閉じた。「失踪というのは、往々にして逃げているのではなく——何かに向かっている。行き先がある。今回の霧の中で、私は少し考えていた」
「何を?」
「我々が江戸へ転生して戻ってくる——その繰り返しにも、行き先があるのではないかと」とホームズは珍しく真面目な顔で言った。「解くべき謎があって、それを解くたびに戻ってくる。しかし最終的にどこへ向かっているのか——それはまだわからない」
「怖くはないか」
「失踪した大三郎がお母上のもとへ向かったように」とホームズは静かに言った。「どんな旅にも、行き先がある。それを信じる」
霧の夜、暖炉の炎が揺れていた。
朝顔は今夜も、どこかの庭で来年の夏を待ちながら、根を土の中に宿しているのだろう——と、私はふと思った。
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本作は、アーサー・コナン・ドイル著『シャーロック・ホームズの冒険』および岡本綺堂著『半七捕物帳』への敬意と感謝を込めて執筆しています。
著:コナン・綺堂異流(Conan Kidoyle)




