第十二話:猫騒動の研究 〜 A Study in Cats 〜
一部AIにより作成
【冒頭:ロンドン時代】
一九〇二年の九月、ロンドンは秋の始まりを迎えていた。
ベイカー街の居間に、珍しい来客があった。
「ホームズ先生」と言って入ってきたのは、四十がらみの、上品な婦人だった。「隣人のことでご相談が……」
「どうぞ」とホームズは肘掛け椅子から動かずに言った。
婦人の話はこうだった——彼女の隣に住む老婦人が、大量の猫を飼っている。臭い、鳴き声、外へ出ていっては庭を荒らす——というのが相談の要旨だった。
「それは警察の扱う問題ではなく、行政の窓口か、あるいは直接話し合いが」とホームズは言いかけた。
「ところが昨夜、その老婦人が突然亡くなりまして——頭に傷があると言うのです」
ホームズの表情が変わった。
「それは、私の扱う問題かもしれない」
婦人を連れてケンジントンの住宅街へ向かった。例の老婦人の家は、外から見ても猫の気配が濃かった——窓辺に三匹、玄関先に二匹、塀の上に一匹。
「驚くほどの数だ」と私はつぶやいた。
「問題は数ではなく、頭の傷だ」とホームズは言い、玄関に向かった。
その瞬間、二階の窓が突然開き、中から大量の猫が飛び出してきた。十匹以上の猫が一斉に階段を駆け降り、私たちの足元を走り抜けた。
「うわっ——」
私は足を踏み外し、玄関前の三段の石段を転げ落ちた。
頭を打った。
霧がかかったように意識が遠のいた。
そして——また、秋の江戸へ。
******
【本編:江戸での事件】
——和登三太の語り——
秋の江戸の午後は、金色の光に満ちていた。
落葉が始まった木々の葉が、風にさらさらと音を立てる。どこかから焼き芋の甘い香りが漂ってきた。焼き芋は、江戸の秋冬の風物詩のひとつで、石焼き芋売りが「い〜しや〜きいも」と独特の節回しで呼びかけながら街を歩く。ロンドンのチェスナット売りに似た、秋の街角の風景だ。
私と捕霧七が気づいたのは、芝の方の、神明宮に近い路地だった。
芝神明宮というのは、港区の芝に鎮座する神社で、正式には芝大神宮という。伊勢神宮——日本の神道の最高神殿——の神を勧請した格式ある神社で、九月の「だらだら祭」と呼ばれる長い祭礼で庶民に親しまれていた。
「だらだら祭か」と捕霧七は周囲の露店や参拝者を見渡して言った。「三週間ほど続く祭礼で、境内に生姜の市が立つ。江戸随一の長い祭りだ。ロンドンのコヴェント・ガーデンの市場より、はるかに賑やかだろう」
なるほど、周囲には参拝者が行き来し、境内からは祭囃子の音が漏れてきていた。
その賑わいの中を、一人の若い男が足早に歩いてきた。魚を入れた桶を担ぎ、腕まくりをした魚屋の出で立ちだ。顔に疲れと焦りが混じっている。
「旦那方、岡っ引きの旦那はおられませんか」と彼は言い、私たちの前で立ち止まった。
「私が捕霧七です」と捕霧七が言った。
「ちょうどよかった……母が死にました。頭に傷があって……猫の祟りだと近所の者が言いますが……私は、何かおかしいと思って……」
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七之助という名のその若者は、芝の裏店で魚屋を営む二十五の男だった。
裏店とは、表通りに面した商家の裏手に建てられた長屋のことで、庶民の多くがここで暮らした。表通りの店と路地一本隔てただけの密集した生活空間だ。風呂も厠も井戸も共用で、隣人の声が筒抜けに聞こえる。ロンドンのバック・コートに建て込んだテネメント(長屋)に近い環境だが、もう少し明るく、共同体としての結束は強かった。
七之助の母、おまき(六十八歳)は、この長屋随一の——というより、おそらく江戸でも指折りの——猫好きとして知られていた。
「十五、六匹おりました」と七之助は言った。「母は猫を一匹でも手放さず、近所の方々には大変なご迷惑を……」
江戸でも猫は身近な動物で、長屋では珍しくなく飼われていた。しかし十五、六匹となれば話が違う。臭い、鳴き声、食べ残しで集まる野良猫との喧嘩——おまきの長屋では、それが日常的な問題だったという。
「隣人の方々は、猫に対して何か行動を起こしましたか」と捕霧七は訊いた。
七之助は少し表情を曇らせた。「……先月のことですが、家主の安兵衛さんが中心になって、隣人が一緒に猫を全部捕まえて、俵に詰めて海に投げ込んでしまいました」
「俵に詰めて海に?」
「母が留守の間に……。母は戻って来て大変に嘆きましたが……その七日後に……頓死したのです」
頓死とは、突然の死のことだ。病気でもなく、怪我でもなく、突然倒れて死ぬ——江戸の長屋では時折ある話だが、今回は頭に傷があった。
「頭の傷はどこに?」と私は医師として訊いた。
「脳天に一つ。拳大の打ち傷が……」
「病死や転倒の傷にしては……少し変だ」と私は言った。
捕霧七の目が細くなった。
「七之助さん、案内してくれますか」
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おまきの部屋は、長屋の一番奥にある二間だった。
もはや猫の姿はなく、しかし濃い猫の匂いが残っていた。畳には猫の爪跡が無数についており、柱には引っ掻き傷が幾重にも重なっている。
おまきの遺体はすでに引き取られていたが、倒れていた場所の畳に、黒ずんだ染みが残っていた。
捕霧七は部屋を一通り調べた。天井を見上げ、梁を確認し、窓の格子を触り、そして畳の染みの周囲を丁寧に観察した。
「七之助さん、おまきさんが倒れているのを発見したのは誰ですか」
「隣の熊吉さんです。朝になっても母が出てこないので、様子を見に来て……」
「発見した時、部屋の戸は開いていましたか」
「……熊吉さんは、戸が閉まっていたと言っていました。しかし鍵はかかっていなかったと」
「窓は?」
「閉まっていました」
捕霧七は部屋の隅にある小さな押し入れを開けた。中には古い着物が畳まれており、猫用の布が数枚入っている。
「三太」と彼は私に言った。「梁の上を見てくれ」
私が椅子に乗って見上げると、太い梁の上に、黒ずんだものが引っかかっていた。私は手を伸ばして取り下ろした——それは、古びた荒縄の端切れだった。
「これは……」
「そうだ」と捕霧七は静かに言った。
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「隣人の方々に話を聞きたい」と捕霧七は七之助に言った。
長屋の住人は七世帯ほどで、私たちが訪ねると、口々に「化け猫の祟りだ」と言い合っていた。
「猫婆の怨念が……」
「あれほどの数の猫が俵に詰められて海に沈められれば……」
江戸では「猫は化ける」という信仰が広く行き渡っていた。老いた猫が二本足で歩いたり、人間の言葉を話したり、死んだ主人の仇を取ったりする——いわゆる「化け猫」の話は、江戸の怪談の定番の一つだ。歌舞伎にも「猫の怨み」を題材にした演目が何本もある。
隣人たちの一人、熊吉は四十がらみの大工だった。発見者として、捕霧七に事情を話した。
「朝になっても音がしないので……おまきさんは毎朝早く猫の世話をするから、必ず音がするのに……変だと思って戸を叩いて、それでも返事がないから開けたら……仰向けに倒れていて……」
「前の夜、何か変わったことはありましたか」と捕霧七は訊いた。
「それが……夜中に物音がした気がして……猫の祟りかと思って怖くて……」
「具体的にどんな音でしたか」
「ドン、という重い音が一つ……それきりでした」
捕霧七はそれ以上は問わず、礼を言って立ち上がった。
「家主の安兵衛に会いたい」
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安兵衛は五十がらみの、太った男で、この長屋の家主として住人たちをまとめていた。
家主とは、長屋の所有者または管理者のことで、店子——賃貸住人——から家賃を集め、長屋の維持管理をし、住人間の揉め事を調整する。ロンドンのランドロードに相当するが、江戸の長屋の家主は住人の生活により深く関わり、町奉行所との間の連絡係もつとめた。
安兵衛は私たちを見ると、少し身を固くした。
「おまきさんの一件ですか。化け猫の祟りというのは……迷信だと思いますが……」
「猫を俵に詰めて海に投げ込んだのは、あなたが中心に?」と捕霧七は訊いた。
「それは……住人が一致して言うので、私もやむなく……しかし私は直接手は出していません。住人の男たちが」
「猫を処分した後、おまきさんとの間に何か問題はありましたか」
安兵衛はしばらく黙ってから言った。「……おまきさんが、長屋を出るつもりはないと言い張って。それで……家賃を値上げするということを、私は言いました」
「おまきさんはどう反応しましたか」
「大変怒って……あなたを訴えてやると」
「誰に訴えると?」
「……大家の親分に。私の上の、この長屋の地主のことですが……その方に直接かけ合うと……」
「それは、あなたにとって困る話でしたか」
安兵衛の顔が、わずかに変わった。
「……そうですね。私は長屋の管理を任されているだけですから、住人が地主に直訴すると……私の立場が」
「おまきさんが亡くなった夜、あなたはどこにいましたか」
「……家にいました。一人で」
「証人は?」
「…………いません」
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その夜、捕霧七は私に言った。
「三太、梁の上の荒縄の意味がわかるか」
「荒縄……猫を縛るためのものか?」
「違う。あの梁は、部屋の天井から一メートル近い高さにある。その上に荒縄の端切れが引っかかっていた——誰かがその梁を使って、部屋の中に侵入したか、脱出したということだ」
「しかし戸は閉まっていた。窓も閉まっていた。どうやって——」
「天井裏だ」と捕霧七は静かに言った。「江戸の長屋は壁を共有している。天井裏は隣と繋がっている場合が多い。隣の部屋から天井裏に入り、梁を伝っておまきの部屋に降り立ち——そして同じ経路で戻った」
「では、おまきの脳天の傷は」
「天井裏から降りてくる際に、重いものを落とした——あるいは、降りた後に何か重いもので一撃を加えた。ドン、という音を熊吉が聞いている」
「犯人は……安兵衛か?」
「安兵衛の部屋と、おまきの部屋は隣同士だ。天井裏を通って侵入できる位置にある。動機もある——おまきが地主に直訴すれば、自分の立場が危うくなる。証人もいない」
翌日、捕霧七は安兵衛を問い詰めた。
最初は否定していた安兵衛だが、天井裏に残されていた荒縄の跡と、安兵衛の部屋の天井裏への開口部を指摘されると、顔が崩れた。
「……おまきが本当に地主のところへ行くつもりだと知って……私は焦って……夜中に……ただ脅かすつもりで……しかし、力を入れすぎて……」
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安兵衛は北町奉行所に引き渡された。
七之助は事件の真相を聞いた後、しばらく言葉をなくしていた。やがて彼は私に言った。
「母は……猫のことがなければ、こんなことには……」
「猫のことがなければ」と私は言いかけた。
「しかし、猫のことがなくても」と捕霧七が横から言った。「おまきさんと安兵衛との間には、別のことで揉め事が起きたかもしれない。人と人の間の軋轢というのは、きっかけを選ばない」
七之助は黙って頷いた。
「一つだけ聞かせてください」と捕霧七は七之助に言った。「おまきさんは、なぜそれほど猫を好きだったのですか」
七之助はしばらく考えてから、こう言った。
「父が早くに亡くなって……私が魚屋を継いで、母は一人になりました。私は仕事が忙しくて、あまり家にいられなかった。その頃から、一匹、また一匹と……猫が増えていったのです」
捕霧七は何も言わなかった。
ただ静かに、七之助の顔を見ていた。
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「捕霧七さん」と私はその夜、長屋に戻ってから言った。「今回の事件は——猫が原因のように見えて、実は猫は関係なかった」
「猫は関係あった」と彼は言い、煙管を手に取った。「猫がいなければ、おまきは長屋の問題児にならなかった。問題児にならなければ、安兵衛と衝突しなかった。猫は原因の一部だ。ただし——猫に罪はない」
「七之助の話を聞いて、どう思ったか」
「孤独だ」と捕霧七は静かに言った。「おまきは孤独だった。息子が忙しくて傍にいない。その寂しさを、猫が埋めていた。江戸の長屋は密集した共同生活だが、その中でも人は孤独になれる。ロンドンのテネメントでも同じだろう」
「猫は孤独の薬か」
「猫というのは興味深い動物だ」と捕霧七は言い、少し考えてから続けた。「従順ではないが、傍にいる。感情を示さないが、温かい。人間に頼りきらないが、必要とされていることを知っている——そういう存在が、孤独な人間には必要なのかもしれない」
「それはホームズらしくない感想だ」と私は言った。
「江戸に来て、私も少し変わった」と彼は言い、煙管の煙をゆっくり吹き出した。
秋の夜風が、長屋の戸の隙間から吹き込んできた。
どこかで猫の鳴き声がした。
おまきの長屋の猫たちは、今頃どこにいるのだろう——俵に詰められた猫の中で、生き延びたものが、江戸のどこかで今夜も鳴いているのかもしれない。
それがいかにも江戸らしいと、私は思った——生命は、意外なほど、しぶとい。
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【結末:ロンドン時代】
気づくと、私はベイカー街の玄関先にいた。
石段の下に倒れていた私を、ハドソン夫人が発見して居間に運んでくれたらしかった。頭に濡れ手拭いが乗っていた。
「猫に足を払われたのか」とホームズが、机の上で書き物をしながら言った。
「十匹以上に一斉に——」
「大変珍しい経験だ」と彼は言い、ペンを置いた。「ワトソン、老婦人の頭の傷の件だが——隣人に話を聞いた。傷は猫の引っ掻き傷ではなく、転倒による打撲だった。老婦人は猫に驚いて転び、頭を打って——即死ではないが、そのまま意識を失ったらしい」
「猫が間接的に……」
「猫に罪はない」とホームズは言った。「しかし大量の猫が逃げ出すような環境を放置していた、という管理の問題はある。そして——」と彼は少し間を置いた。「あれほど大量の猫を飼っていたのは、老婦人が一人暮らしで、孤独だったからだそうだ」
「孤独か」
「孤独は、人を奇妙な行動に向かわせる」とホームズは言い、窓の外を見た。「そして奇妙な行動は、周囲の人間を困らせ、時として悲劇を招く。しかし奇妙な行動の根本にある孤独を、誰も問題にしない」
「孤独の解決は探偵の仕事ではないからか」
「だからこそ、時々考える」とホームズは静かに言った。「探偵は結果を追う。しかし結果を生んだ原因の、さらに奥にある原因まで追うことは——なかなか難しい」
窓の外で、ロンドンの秋が深まっていた。
どこかで猫が一声、高く鳴いた。
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本作は、アーサー・コナン・ドイル著『シャーロック・ホームズの冒険』および岡本綺堂著『半七捕物帳』への敬意と感謝を込めて執筆しています。
著:コナン・綺堂異流(Conan Kidoyle)




