第十三話:弁天娘の冒険 〜 The Adventure of the Benten Girl 〜
一部AIにより作成
【冒頭:ロンドン時代】
一九〇三年の三月、ロンドンはまだ冬の名残を引いていた。
ホームズは朝から機嫌が良かった——つまり、何か興味深い謎の予感があるということだ。彼はバイオリンを弾かず、実験もせず、ただ窓際に立って往来を見下ろしていた。
「ワトソン」と彼はふいに言った。「遺言というものを信じるか」
「遺言? 法的に有効な——」
「そうではなく。人が死に際に残す言葉を、どこまで信じるべきか、ということだ」
「……死に際の言葉は、嘘をつく理由がない。だから一般的には信憑性が高い、と思うが」
「一般的には、そうだ」とホームズは言い、振り返った。「しかし死に際の言葉には、別の問題がある。混乱した意識の下で発せられた誤解や、思い込みを含む場合がある。そして時として、誰かに意図的に作られた場合もある」
「作られた遺言?」
「昨日、ある依頼が来た」とホームズは机の上の手紙を示した。「神田にいる質屋の——いや、ロンドンの話だ。質屋の小僧が死の床で『娘に殺された』と言い残した。その遺言を根拠に、兄が多額の金を要求している。真相を調べてくれというのだ」
「それは——」
「行こう、ワトソン」
私たちはシティ区の一角にある質屋を訪ねた。依頼人は五十がらみの番頭で、深刻な顔をしていた。私たちが話を聞いていると、突然二階から大きな音がした——何かが倒れた音。
「待ってください!」と番頭が叫んだが、もう遅かった。
二階の棚から大量の帳簿が落ちてきた。ホームズが飛び退き、私もかわしたが——その拍子に私は階段に後ろ向きに倒れ込んだ。
階段を転がり落ちた。
頭を打った。
そして——春の江戸へ。
******
【本編:江戸での事件】
——和登三太の語り——
三月の江戸は、梅が終わり桜が待たれる季節だった。
空は高く澄んでいて、神田の方から鐘の音が聞こえてきた——神田明神の鐘だ。神田明神は江戸の総鎮守のひとつで、大己貴命・少彦名命・平将門命の三神を祀る格式ある神社だ。ロンドンで言えばセント・ポール大聖堂に近い存在感を持つが、仏教寺院と神道神社が複合した日本固有の形式だ。
私と捕霧七が目を覚ましたのは、その神田明神の下——明神下と呼ばれる門前の町の一角だった。
「三月十八日の朝だ」と捕霧七は空を見て言った。「何かが始まる気がする」
「なぜその日付がわかる?」
「あそこの暦売りが持っている暦に書いてある」と彼は路傍の露店を指さした。
なるほど、彼の観察眼は江戸に来てからも一向に衰えていない。
そこへ、一人の中年の男が速足で近づいてきた。番頭の風体——これはロンドン時代から私にも読めるようになっていた。手代や番頭という役職の男は、歩き方と着物の畳み方に独特の実務的な雰囲気がある。
「写楽の旦那ではございませんか。捕霧七の旦那……槇原の旦那のご紹介で探しておりました」
「私が捕霧七です。何かご相談が?」
「実は——今朝、とんでもないことになりまして……」
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男は利兵衛といい、神田明神下の質屋・山城屋の番頭だった。
質屋とは、品物を担保に金を貸す商売で、ロンドンのポーンブローカー(質屋)に相当する。しかし江戸の質屋は、ロンドンのそれより社会的な地位がやや高く、武士・町人を問わず幅広く利用された。品物を「流す」——つまり返済せずに手放す——ことを前提とした取引も多く、富裕な商家の傍らに並んで店を構えることも珍しくない。一両から数百両まで、様々な規模の取引を扱う。
「うちの小僧の徳次郎が、半月ほど前から口が腫れる病気になりまして……昨日、実家で息を引き取りました。それが——」と利兵衛は声を低くした。「死に際に徳次郎が、うちの一人娘のお此に殺されたと言い残したと……それを聞いた兄の徳蔵という者が、今朝、山城屋に乗り込んできて、三百両を寄越せと……」
「三百両」と私は思わず言った。
三百両は現代の価値に換算すれば数千万円規模の金額だ。一般の商家にとっても大金だが、質屋ならば動かせない額ではないかもしれない——それを知っての要求だろう。
「お此というのはどんなお嬢さんですか」と捕霧七は訊いた。
「それが……山城屋のご主人夫婦が、弁天様に願掛けをして生まれたお嬢さんで、『弁天娘』と呼ばれるほどの器量よしで。今年二十二になります。性格も優しく、小僧たちにも優しくされていた……そのお此が毒など盛るとは……」
弁天様——弁財天は、七福神のひとつで、音楽・芸術・弁舌・財産を司る女神だ。特に水辺の神社に祀られることが多く、江戸では不忍池の弁天堂が有名だ。弁天様に祈って生まれた子を「弁天娘」と呼ぶ習慣があり、特に美しい娘に対してこの名が使われた。
「お此さんに会わせてもらえますか」と捕霧七は言った。
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山城屋の店は、神田明神下に面した広い間口の構えで、格子戸の向こうに質草——担保に取った品物——を収める蔵が見えた。
お此は奥座敷にいた。
二十二の若い女で、確かに器量よしだった。色白で、目が大きく、落ち着いた物腰をしている。しかし今日は目が赤く腫れており、手が膝の上で固く握りしめられていた。
「お此さん、徳次郎さんのことを話してください」と捕霧七は静かに言った。
「私は……何もしていません」とお此は言った。「口の腫れる病気というのは、ときどきある病です。私が毒を盛ったなんて——」
「徳次郎さんと何か揉め事はありましたか」
お此は少し間を置いた。
「……一月ほど前に、私の部屋の帯留め(おびどめ)が一つなくなって、徳次郎が持ち出したことがわかりました。叱りました。強く叱ったかもしれません……でもそれだけです」
「帯留めを叱られた——その後、徳次郎の様子に変化は?」
「普通でした。気まずそうにはしていましたが……」
「お此さんに、徳次郎以外の小僧との間に、何か問題はありましたか」
「ありません」
捕霧七は部屋を見回してから、静かに立ち上がった。
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店を出ると、私は捕霧七に訊いた。
「お此が毒を盛ったと思うか」
「思わない」と彼は言った。「口が腫れる病気——これは症状として一致するものがある。腫物系の病は、口腔内の化膿から広がることがある。三太、医師として、口の腫れから半月で死亡する病気として何が考えられる?」
「急性化膿性扁桃炎の重症化……あるいは壊疽……放置すれば致死に至ることもある。それと——」
「それと?」
「毒の中には、口腔粘膜を腫れさせる作用のあるものもある。例えば水銀の化合物や、特定の植物毒素が——しかし通常の食事で摂取される量ではない」
「その毒を、長期間少量ずつ摂取させ続ければ?」
「時間をかけて蓄積し……口腔内の炎症から始まり、全身に及ぶかもしれない」
「徳次郎は半月病んで死んだ。その前一月ほど、誰かに毒を少量ずつ盛られていたとしたら——辻褄が合う」
「しかしお此ではないとすれば——誰が」
「帯留めを盗んだ小僧を叱った、という話が気になる」と捕霧七は言った。「叱られた小僧が、誰かを恨んだとしたら——あるいは、叱られた事実を利用して誰かが——」
「待ってくれ。徳次郎を毒殺したのが第三者で、しかも死に際の言葉がお此を指していたとすれば——その言葉は誰かに仕込まれたか、あるいは病で混乱した意識の中での誤認か」
「両方の可能性がある」と捕霧七は静かに言った。「まず、徳蔵という兄に会おう」
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徳蔵は三十がらみの、顔の細い男だった。どことなく目が落ち着かず、言葉を選びながら話す様子があった。
「弟が死ぬ前に言い残したんです。お此が——お此が俺に毒を盛ったって。それは確かに聞きました」
「徳次郎さんはその言葉を繰り返しましたか? 一度だけでしたか」と捕霧七は訊いた。
「……一度でした。弱ってましたから、それだけ言って……」
「その場に他に誰がいましたか」
「おふくろと、隣の家の人間が一人……」
「その隣の家の人間の名前は?」
「……安次郎という男で」
捕霧七はそこで少し間を置いた。
「安次郎という男と、あなたはどういう関係ですか」
徳蔵の顔が、わずかに動いた。
「幼馴染みです。それだけです」
「三百両の要求は、安次郎が言い出しましたか」
「……いいえ。私が——」
「一人で決めましたか」
長い沈黙。
「……安次郎が、一緒に行こうと言ったのは、確かで……」
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「三太」とその夜、捕霧七は長屋に戻って言った。「安次郎という男を調べてくれ。徳次郎の実家がある町内の者に聞き込みをすれば、何か出てくるはずだ」
翌朝、私が調べると、すぐに話が出てきた。
安次郎は徳次郎の実家のある町に住む、職のない男で、博打の借りがあることで知られていた。金に困っていることは、近所の誰もが知っていた。
「博打の借り」と私は報告した。「かなりの額らしい。山城屋への三百両の要求は——その借りを返すためではないかと」
「それは動機になる」と捕霧七は言った。「では、毒を盛ったのは安次郎か」
「しかし安次郎は山城屋には出入りしていない」
「直接盛る必要はない」と捕霧七は言った。「徳次郎に——何か渡した可能性がある。甘い菓子のようなものに混ぜて、少しずつ」
「しかし徳次郎を毒殺して、なぜお此が犯人だという言葉が出るのか」
「徳次郎が何かを誤解するように、仕向けたのかもしれない。帯留めの一件で叱られた後——安次郎が徳次郎に『お此がお前のことを恨んでいる』などと吹き込んでいたとすれば。病で弱った意識の中で、誰かが自分を傷つけていると感じた時、最近恨まれた相手の顔が浮かぶのは自然なことだ」
私は医師として、そのような混乱が臨終の際に起き得ることを、確かに知っていた。
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捕霧七はその日の午後、安次郎を探して直接話をした。
私も同行した。
安次郎は三十五、六の、いかにも小狡そうな顔の男だった。捕霧七の訪問を受けた瞬間、目の奥に警戒の色が走った。
「徳次郎に何か渡しましたか。菓子でも、飴でも」と捕霧七は最初から核心を突いた。
「渡してませんよ。何ですか突然」
「徳次郎が死んだ。三百両の要求が始まった。その要求を煽ったのはあなただ。なぜそこまでする必要があったか——博打の借りがあるからです」と捕霧七は淡々と言った。「徳次郎に何かを渡したことを、この界隈の者に確認する気はあります。時間はかかりますが、必ず確認できます」
安次郎はじっと捕霧七を見ていた。
「……一度、飴を渡したことは……ある」
「何の飴ですか」
「……ただの飴糖です。自分で作った」
「飴糖の中に何が入っていたか、教えてください」
安次郎の顔が、ゆっくりと崩れた。
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安次郎の自白によると、彼は博打の相手から教わった「口が腫れる毒」——山椒の実を過剰に煎じたものと、別の薬草を混ぜた自家製の粉——を飴の中に少量混ぜて、徳次郎に何度か渡していた。
山椒は江戸の料理に使われる一般的な香辛料だが、過剰に摂取すると口腔粘膜に炎症を引き起こすことがある。それに別の成分を加えることで、毒性が高まった。
「徳次郎が死ぬとは思っていなかった」と安次郎は言った。「ただ、病気にして、山城屋から金を引き出す口実を作るつもりで……」
「そしてお此が疑われるように、徳次郎に吹き込んだ」
「……お此がお前を恨んでいると言ったのは……確かです」
安次郎は南町奉行所に引き渡された。
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しかしそれで事件が終わらなかった。
翌日の夕刻、山城屋から急使が来た。
「徳蔵が……山城屋の主人を斬りました」
私たちが駆けつけると、山城屋の主人が肩を浅く斬られ、蔵の前で倒れていた。傷は深くはないが、出血が多かった。私はすぐに手当てをした。
徳蔵は現場から逃げていた。
事情を聞くと、安次郎が奉行所に引き渡されたことを知った徳蔵が、山城屋の主人に「安次郎を訴えたのはあなたか」と詰め寄り、揉み合いになったという。
「徳蔵はどこへ逃げた」と捕霧七は訊いた。
「安次郎の家の方へ——」と、近所の者が言った。
捕霧七は走り出した。私も続いた。
安次郎の長屋の前に、徳蔵が呆然と立っていた。刀を手に持ったまま、動けずにいた。
「徳蔵」と捕霧七は落ち着いた声で言った。「刀を置け」
「安次郎が……安次郎が弟を殺したなら……」と徳蔵は震えながら言った。「俺は何のために……三百両を……俺はただ弟の仇を——」
「弟の仇は、奉行所が裁く」と捕霧七は静かに言った。「お前が斬ることではない。それをすれば、お前が裁かれる番になる——それで弟は喜ぶか」
徳蔵は長い間、震えていた。
やがて刀が、地面に落ちた。
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徳蔵は傷害の咎で奉行所に出頭することになったが、山城屋の主人が「深手ではないし、事情も察した」として、重い処分を望まない旨を伝えた。
お此は——この一件が終わってから、初めて捕霧七に会いに来た。
「ありがとうございました」と彼女は頭を下げた。「私が疑われていたことは、わかっていました。でも……誰かを傷つけるつもりは、全くなかったのに……」
「お此さん」と捕霧七は言った。「あなたは何もしていない。それは証明されました。帯留めを盗んだ徳次郎を叱ったことも——当然のことです」
「でも、あの一言が……徳次郎に、私が恨んでいると思われる原因になったかと思うと……」
「それはあなたのせいではない」と捕霧七は静かに、しかしはっきりと言った。「安次郎が悪意を持って種を植えた。あなたにできたことは、何もない。自分を責めるな」
お此はしばらく黙ってから、深く頭を下げた。
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「捕霧七さん」と私はその夜、長屋で言った。「今回は二つの事件が一つに絡んでいた。毒殺と傷害と、そして脅迫と」
「そして誤解と」と捕霧七は言い、煙管を吹かした。「死に際の言葉というのは、重く受け取られすぎることがある。混乱した意識の下で発せられた言葉を、遺言として扱うことの危うさが、今回よく表れた」
「ホームズ時代にも同じことを言っていた——死に際の言葉を、どこまで信じるべきか、と」
捕霧七は少し驚いた顔をした。
「ロンドンで言ったか」
「転生前の朝に。偶然の一致だ」
「偶然ではないかもしれない」と彼は静かに言った。「我々がここに来るたびに、解くべき問いが既に形を変えて待っている——そういう気がしてきた」
「転生の仕組みについての考察か?」
「まだ答えは出ない。しかし問いの形は、見えてきた」
弁天様に祈って生まれた娘が「弁天娘」と呼ばれる——その美しい名前の後ろに、これほど複雑な人間の欲望が絡み合っていた。
神仏への祈りと、人の業は、いつも隣り合わせにある。
それが江戸という町の、深く豊かな部分だと、私は思っていた。
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【結末:ロンドン時代】
気づくと、私はベイカー街の階段の下にいた。
ホームズが覗き込んでいた。
「大丈夫か、ワトソン」
「……頭を打った」
「見ればわかる」と彼は言い、腕を貸してくれた。「帳簿の件だが——あれは棚の固定が甘かったせいだ。質屋の番頭に言って直させる必要がある」
「死に際の遺言の件は?」
「調べた」とホームズは居間へ案内しながら言った。「小僧が死の床で言い残した言葉——それを利用して金を要求しようとした者がいた。遺言の言葉そのものは、おそらく混乱した意識から来ている。娘への無実の疑いは晴れる方向だ」
「複雑な事件だった」
「いつも複雑だ」とホームズは言い、私を椅子に座らせ、自分は暖炉の前に立った。「ワトソン、死に際の言葉は証拠か」
「感情的には重く受け取られる。法的には証拠能力は限られる」
「正しい」とホームズは言った。「しかし人は感情で動く——そこを利用する者が常にいる。証拠と感情の間の溝を、誰かが橋渡しするのが探偵の仕事の一つだ」
暖炉の炎が、三月の夜を温めていた。
ロンドンの質屋の棚から帳簿が落ちてきた、その後に——弁天娘と呼ばれた女の無実が証明されたことを、私は思い出していた。
奇妙な繋がりだ——しかしそれが、この転生という旅の、どこかに意味があるのかもしれないと、私はひそかに思った。
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本作は、アーサー・コナン・ドイル著『シャーロック・ホームズの冒険』および岡本綺堂著『半七捕物帳』への敬意と感謝を込めて執筆しています。
著:コナン・綺堂異流(Conan Kidoyle)




