第十四話:山越えの符牒 〜 The Sign of the Mountain Pass 〜
一部AIにより作成
【冒頭:ロンドン時代】
一八九二年、五月のことである。
ロンドンは珍しく晴れていた。五月のイングランドというのは、曇天と雨の合間にほんの数日だけ黄金色の光が差し込む季節で、その日はまさにそんな日だった。ベイカー街の窓から、柔らかな陽光が居間の床に四角く落ちていた。
ホームズは珍しく旅行鞄を出していた。
「ホームズ、まさか旅行か」と私は言った。
「ブライトンへ」と彼は答えた。「依頼人がいる。海岸沿いの宿に泊まっている老紳士で、何か重大なものを持ち込んでいるらしい。レストレード警部から聞いた。一泊か二泊で済む」
「同行してもよいか」
「むしろ来てくれと言おうとしていたところだ、ワトソン。今回は海辺の空気が必要かもしれない。君の肺にも良かろう」
私たちはヴィクトリア駅から汽車に乗り、サセックスの丘陵を越えてブライトンへ向かった。汽車の窓から、緑の牧草地と白亜の崖が次々と過ぎていった。私は久しぶりの旅の空気に気分が良くなり、ホームズとパイプを並べて軽い議論をしていた——関所という制度について、だ。私が先日読んだ中世ヨーロッパの関税史の本から話が始まり、ホームズが各国の国境検問の論理と欠陥について存分に述べ始めたところで、私は内心うんざりしながらも聞き続けた。
「通行を管理する制度というのは」とホームズは言った。「常に二つの問題を抱えている。一つは、通行する者全員を正確に把握することの不可能性。もう一つは、管理者自身の腐敗と人情だ」
「人情を腐敗と同列に置くのか」
「同列ではない。しかし機能としては同じ穴を開ける」ホームズはパイプをくゆらした。「関所というのは、抜ければ意味をなさない。しかし誰かが憐れみで通してしまえば——」
そのとき、急カーブにさしかかった汽車が激しく揺れた。
ホームズが立ち上がりかけたとき——轟音。
線路上の何かに衝突したのだ。車両が大きく傾き、私は荷物棚に頭をぶつけ、ホームズの叫び声を聞いた——いや、聞こうとした。
世界がひっくり返った。
そして、すべてが白くなった。
******
【本編:江戸での事件】
——和登三太の語り——
目が覚めたとき、私の頬に当たっていたのは、乾いた木の床の感触だった。
ブライトンの浜辺でも、ヴィクトリア駅のホームでもない。板張りの、古びた旅籠の一室だった。窓の向こうに緑の山が見え、谷間から流れる川の音が聞こえた。鳥の声が遠く、湿った土と杉の香気が漂っている。
江戸だ、と私は思った。
もう何度もこの転生を経験しているせいか、最初の混乱がずいぶん短くなった。とはいえ今回は、ロンドンとは異なる違和感があった。ここは江戸の町中ではない。山のそばだ。
「三太」と捕霧七の声がした。「起きろ。旅の途中だ」
私は身を起こした。捕霧七は部屋の隅で煙管を手に持ち、旅装束のまま——股引に草鞋を履き、着物の裾を端折って腰に挟み込んだ旅支度で——窓の外の山を眺めていた。
「旅?」と私は言った。
「箱根へ向かう途中だ。子分の多三と三人で、同心の奥方の湯治先を見舞うための旅だ。昨夜は小田原に泊まった——ここがその旅籠だ」
小田原というのは、江戸の南西、箱根山の麓に位置する宿場町で、相模と駿河を結ぶ東海道の要所に当たる。ロンドンから言えば、国道を旅するとき必ず立ち寄る宿場地——バースやソールズベリーのような町だ。そして箱根といえば、江戸の外へ出る最も重要な関所がある場所である。
関所というのは、江戸幕府が街道の要所に設けた検問所で、江戸に入る鉄砲と、江戸から出る女——「入鉄砲に出女」と呼ばれる——の監視が主な目的だ。ロンドンの税関と警備の中間に当たるが、もっと厳格だ。通行には「通行手形」と呼ばれる許可状が必要で、これがなければ関所を越えることができない。
「関所を越えるのか」と私は言った。
「越えようとして、今朝ひと騒ぎあった」と捕霧七は言った。そして、戸口の方を見た。「ちょうど話を聞こうとしていた。——多三、入れ」
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戸が開いて、三十がらみのがっしりした男が入ってきた。
多三というのは、捕霧七の子分の一人で、魚河岸で働いていた経歴を持つ気のいい男だ。しかし今朝は顔が青ざめており、額に脂汗をかいていた。
彼の後ろに、もう一人の男がいた。
二十五、六の若い男で、羽織も持たない粗末な身なりをしていた。着物は旅の汚れで薄黒く、下駄の鼻緒が片方ほどけかけている。顔は青白く、目が泳いでいた。江戸の男にしては手が白く、指が細い。どこか貴族の奉公人のような風情があった。
「こちらが七蔵という人で」と多三は言った。「わっしの昔なじみでございます。昨夜、助けを求めてこちらへ参りました」
「座れ」と捕霧七は言った。
七蔵はおそるおそる畳の上に腰を下ろした。畳というのは、藁を圧縮して作った床材で、その上に薄い藺草の表面を縫いつけたものだ。ロンドンのカーペットとは全く趣が異なるが、座って生活する江戸の人々にとって、これが最も基本的な居住空間の床材である。
「事の起こりから話せ」と捕霧七は言った。
七蔵は深く息を吸い、話し始めた。
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七蔵は、若い与力・小森源次郎という役人の中間を務めていた。
与力というのは、町奉行所に仕える武家の役職で、同心の上に位置する。ロンドンで言えば警部補から警部の間くらいの官職だ。その与力の雑用や従者を務めるのが「中間」で、武士の格式には入らない奉公人のことだ。
七蔵は昨日の昼、ちょうど小田原の宿場でひとりの男に声をかけられた。男は四十がらみの旅人で、通行手形を持っていないと言った。急な旅立ちで手形を取る暇がなかったが、どうしても箱根を越えて駿河の家に帰らなければならない事情がある、という。謝礼を払う、とも言った。
七蔵は迷った。
「通行手形を持たない者を関所に連れて行く方法がないわけではなかった」と七蔵は言った。「同心や与力の家の者として連れて行けば、荷物運びの雇い人として、関所を通れることがある。わっしは……その、謝礼につられまして」
通行手形のない人間を、知り合いだと偽って関所を越えさせる。これはれっきとした違法行為だが、当時の関所では実際にしばしば行われた抜け道だったらしい。ロンドンの港でも、検問を賄賂で通り抜ける輩がいたのと同じことだ。
七蔵はその男を、小森与力の荷物運びの雇い人と偽って箱根の関所を通した。男は礼を言って去っていった。
問題はその夜、起きた。
小田原の旅籠の一室で、商人の旅人が強盗に刺され、大金を奪われた。逃げた犯人の人相を証言した者がいた——それが、七蔵が関所を通してやった男だった。
「与力の小森さまは、わっしが連れて行った男が下手人だと知って……その、手討ち(てうち)にすると」と七蔵は言った。声が震えていた。
手討ちというのは、武士が無礼を働いた者をその場で斬り殺すことを認められた、江戸時代の慣習的な特権だ。ロンドンで言えば……実は比較できるものがない。現代のロンドンには存在しない概念だ。武士の身分と格式が生み出した、江戸の社会の特殊な制度である。
七蔵は命からがら逃げ出して、昔なじみの多三を頼ってきたのだ。
******
捕霧七は話を最後まで聞いて、しばらく黙っていた。
彼が沈黙しているとき、私は彼の目を見るのが習慣になっていた。沈黙の中で、彼の目は静かに何かを整理している。ロンドン時代から変わらぬ、思考の時間だ。
「七蔵」と彼はやがて言った。「その男の人相を、もう一度話せ。できる限り細かく」
七蔵は記憶を辿りながら答えた。四十がらみ、やや背が高い、右の頬に小さな傷がある、旅姿だが袖口の布地が上等だった——。
捕霧七は煙管をくるくると指で回し始めた。ロンドン時代にパイプをひねる、あの癖だ。
「袖口の布地が上等だった、というのは確かか」
「はい、はっきりと」
「旅支度は古びていたのに?」
「……はい」
捕霧七はそこで一度だけ、薄く笑った。
「三太、一緒に来い。多三、七蔵はここに待たせておけ。どこへも行くな」
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私たちが向かったのは、昨夜の強盗殺人が起きた旅籠だった。
小田原の旅籠というのは、東海道沿いに多数ある宿泊施設で、一般の町人から武士まで、様々な旅人が利用する。規模の大きいものはロンドンのインに近いが、造りはまったく違う——畳の部屋に布団を敷いて寝る形式で、食事は宿の女中が部屋に運んでくる。
殺されたのは江州——近江国、今の滋賀県にあたる——の薬種商だった。大金を持って旅をしていたことを誰かに知られていた、と宿の主人は言った。
捕霧七はまず、殺された男の部屋を見た。
私は、彼が部屋に入るたびに行う観察の手順を、江戸に来てから何十回と見ていた。まず入口から全体を眺める。次に畳の上の足跡の乱れを確かめる。それから窓の錠と、建具の傷を見る。最後に——今回は——刃傷の痕を見た。
「刃傷の向きを見ろ、三太」と彼は言った。「右から左へ、上から下へ、だ」
「それが何を意味する」
「右利きの人間が、被害者の左側に立って斬りつけた。あるいは突いた。ところが——」彼は部屋の隅を指さした。「血の飛び散り方を見ろ。被害者はここに倒れていた形跡があるが、出入口はあちらだ。つまり被害者は、下手人が来る方向——出入口の方——を向いていた。見知らぬ者がいきなり来た様子ではない」
「顔見知り、ということか」
「少なくとも、被害者は相手が来るのを見て、驚かなかった。それだけは確かだ」
宿の女中に話を聞くと、昨夕、殺された薬種商の部屋を訪ねてきた男が一人いたという。四十がらみで、右の頬に傷があった——七蔵が通してやった男の人相と一致した。
しかし、女中はもう一つのことを言った。
「あの方がお部屋に入る前に、若い武士の方も前を通られました。廊下をゆっくり歩いて、部屋の前で少し立ち止まって……」
「若い武士?」と捕霧七は言った。「小森という名を聞いたことがあるか」
女中は少し驚いた顔をした。「……はい。ここの常連の方で、小森さまというお若い与力のお方が……」
捕霧七の目が、静かに光った。
******
私たちは旅籠を出て、通りを歩きながら捕霧七が静かに話した。
「七蔵が言ったことの中で、一つ引っかかる点がある」
「どの点だ」
「小森与力が七蔵を手討ちにしようとしている、という話だ。七蔵は関所の違反に加担した。これは確かに問題だ。しかし与力が中間を手討ちにするのは、どれほどの無礼や失態があったときだ。通行手形のない旅人を通した程度で、即座に手討ちを言い渡すのは——少し異常に早い」
「つまり……」
「小森は七蔵に黙っていてほしいのだ」と捕霧七は言った。「手討ちを恐れた七蔵が逃げれば、七蔵は以後、小森の前に現れない。それが小森の望みではないかと、私は思い始めている」
「小森が……何かを隠している?」
「もし殺された薬種商が、何らかの形で小森と繋がっていたとしたら——関所で違反を犯した七蔵を、取り調べられると困る事情が、小森の側にもある」
私は考えた。七蔵が語った話の中で、もう一つ気になることがあった——小森与力の荷物運びとして七蔵が男を連れて行ったとき、小森は何と言ったか。
「捕霧七さん」と私は言った。「七蔵は小森の名前を使って男を通した、と言った。しかしそれは——小森の許可があったのか、それとも七蔵が勝手に使ったのか」
捕霧七が立ち止まった。
「……それを聞いていなかった」と彼は言った。珍しく、反省の色を顔に浮かべた。「戻って確認する。三太、君は時々よいことを言う」
「時々?」と私は言った。
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旅籠に戻り、七蔵にもう一度訊くと、答えは明快だった。
「小森さまに頼んで、お許しをいただいてから通しました」と七蔵は言った。「勝手にお名前を使うなど……そんな恐ろしいことは」
捕霧七は目を閉じ、しばらくそのままでいた。
やがて彼は、静かに言った。
「わかった。七蔵、お前は何も悪くない——正確には、悪いことをしたが、主犯はお前ではない」
「え……」
「小森が、お前を使ったのだ。謝礼を渡すあの男を、誰か信頼できる者を通じて関所越えさせたかった。自分が直接動けない事情があった。だからお前に目をつけて、謝礼を餌に使ったのだ。お前は利用されたのだ」
七蔵は声を失った。
多三が「では、小森さまが……」と言いかけて、口をつぐんだ。
捕霧七は立ち上がり、着物の裾を整えた。
「三太、いいか。これはもはや旅先の偶然の事件ではない。江戸からここまで、あの薬種商の動きに絡む何かがある。岡崎同心への報告は旅から戻ってからになるが——今夜中に、もう一つ確かめることがある」
「何を」
「小森がなぜ、その男を関所越えさせる必要があったか、だ。通行手形がなかったのは、男が江戸から追われていたからかもしれない。あるいは——」と彼は言って、窓の外の山を見た。「逆に、駿河の方から江戸を狙っていた者だったか。どちらかだ。そしてどちらの場合も、小森は深みにはまっている」
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その夜遅く、捕霧七は子分を使って小田原の町をひそかに調べさせた。
私は旅籠の部屋で待ちながら、床に就くこともできず、窓の外の山の暗さを眺めていた。
箱根の山は、夜になると深く暗い。江戸の夜は行灯のぼんやりとした灯りが町を照らすが、宿場の外れに来ると、人の気配がすっと薄くなる。ロンドンのガス灯に慣れた私には、この暗さがいまだに心細い。
深夜、捕霧七が戻ってきた。
「わかった」と彼は言った。短く、しかし確信に満ちた声だった。
小森与力は、江州の薬種商と以前から金銭の貸借関係にあった。多額の借財だ。商人は証文を持って追ってきた。小森はその証文を消したかった。
関所を越えてきた男は——小森が雇った、始末屋だった。
男は薬種商を仕留めて証文を奪った。その後の逃げ道も、小森が段取りをつけていた。しかし男は欲を出した。証文だけでなく、薬種商が持っていた旅の大金まで奪い、小森とは別の方向へ逃げた。
「小森は裏切られたのだ」と捕霧七は言った。「雇った男に。だから七蔵を手討ちにしようとした——七蔵に余計なことを言われては、小森自身が捕まる。しかし七蔵が逃げた今となっては、かえって七蔵の証言が残る」
「ではどうする」と私は訊いた。
「岡崎同心への報告文を、今夜のうちに早飛脚で江戸へ送る」と捕霧七は言った。「早飛脚というのは——」
「知っている」と私は言った。「専門の飛脚が書状や荷物を、通常の旅より速い速度で届ける、ロンドンで言えば急便の制度だ。私も江戸に来てからずいぶん覚えた」
捕霧七はそれを聞いて、わずかに口元を緩めた。彼が笑うのは珍しい。
「成長したな、三太」
「失礼な。私はいつも観察している」と私は言った。「君ほど素早くはないが」
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翌朝、早飛脚が江戸へ向かった。
七蔵は多三に預けて、別の道で江戸へ戻らせた。小森与力の一件は、江戸の奉行所が改めて取り調べることになる。旅先での強盗殺人は相模の奉行が管轄するが、主犯が江戸の役人だとなれば、江戸から役人が出向くことになる。
私と捕霧七は、予定通り箱根へ向かった。同心の奥方の湯治先を見舞うという当初の目的を、果たすために。
箱根の関所を越えるとき、私は改めてその構造に目を向けた。
関所は石垣と木の柵で造られており、役人が通行人の手形を確認し、荷物を点検する。通行人は関所の前で列をなし、一人ずつ検問を受ける。武士は刀を持ったまま通れるが、庶民は様々な制限を受ける。
「毎回これを越えていた七蔵の気持ちが、少しわかった気がする」と私は言った。「緊張するものだな」
「当然だ」と捕霧七は言った。「制度があるから、抜け道を探す者が生まれる。そして抜け道があるから、それを利用する者が現れる。これはロンドンも江戸も変わらない」
「しかし今回は、その制度の隙を使って人が死んだ」
「そうだ」と彼は言った。「制度の問題ではない。それを悪用した、一人の男の欲望の問題だ」
関所の向こうに、箱根の山が緑深く広がっていた。
初夏の光の中で、峠道がゆったりと曲がりながら山の奥へ続いていた。
「捕霧七さん」と私は歩きながら言った。「小森のような者は……最終的にどうなるのか」
「取り調べられ、裁かれる」と彼は答えた。「武士だろうと、役人だろうと、人を殺した者を使った者は、その罪を問われる。江戸の法はそれほど鷹揚ではない」
「そうか」と私は言った。「ロンドンでも同じだ。身分があっても、罪は罪だ」
「人を殺した者と、人を殺させた者と——どちらが重いか。ロンドンの法廷はどう考えるかね、三太」
「共犯だ。そして主犯は……依頼した側だろう」と私は答えた。
捕霧七は頷いた。それ以上は何も言わなかった。
峠の風が吹き抜けて、私たちの着物の袖を揺らした。
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【結末:ロンドン時代】
気づくと、私はヴィクトリア駅のホームにいた。
汽車の転覆事故は、奇妙なことに、大した怪我人を出していなかった。ホームズは座席から転げ落ちて肩を強打したが、骨には異常がなく、私も頭のこぶと打撲だけで済んだ。乗客たちが騒然とする中で、私たちは二人とも、しばらく茫然とした表情で向かい合っていた。
「ホームズ」と私は言った。「妙な夢を見た」
「箱根の夢か」とホームズは即座に言った。
「君も?」
「見た」とホームズは言った。肩を軽く押さえながら、いつもの表情に戻っていった。「ワトソン、関所という制度について、私は先ほど批判的なことを言っていたね」
「言っていた。人情が穴を開ける、と」
「だが今は少し修正したい気分だ」とホームズは言った。「関所を守るために厳格に生きた者も、また一方で、関所の人情に救われた者もいる。七蔵のような男は——」
「七蔵という名前を、君も知っているのか」
ホームズはそこで少し黙った。
「……夢の中では、知っていた」と彼は言った。「そしてあの男は、悪意があったわけではない。ただ、人情につけ込まれた。その構造が——私の関心を引く」
駅のホームに、汽車が別の線から滑り込んできた。事故の処理が始まり、制服の人間たちが動き始めた。
「ホームズ」と私は言った。「山を越えるとき、あの関所の風景を見て、私はロンドンのことを考えた。国境とか、制度とか、許可状とか——形は違えど、どこの世界にも、通行を制限しようとする力と、それを抜けようとする力がある」
「そして」とホームズは言った。「その狭間で、人が死ぬ」
私は頷いた。
ホームズは立ち上がり、落ちた旅行鞄を拾い上げた。
「ブライトンへの旅は、また別の機会にしよう」と彼は言った。「今日はベイカー街に戻る。肩が痛い。それから——ワトソン、君は時々よいことを言う」
私は笑った。
「時々?」と私は言った。
ホームズは何も答えず、改札の方へ歩き始めた。五月のロンドンの光の中に、その長身の影が伸びていった。
******
本作は、アーサー・コナン・ドイル著『シャーロック・ホームズの冒険』および岡本綺堂著『半七捕物帳』への敬意と感謝を込めて執筆しています。
著:コナン・綺堂異流(Conan Kidoyle)




