第六話:半鐘の怪人 〜 The Phantom of the Fire-Watch Tower 〜
一部AIにより作成
【冒頭:ロンドン時代】
一八九六年の初冬、ロンドンはシーズン最初の濃霧に包まれていた。
ホームズはここ数日、異様に上機嫌だった。上機嫌、というのは彼にとっては危険信号で——退屈が頂点に達する直前か、あるいは何か面白い謎の予感がある時にのみ、彼はそのような状態になる。
「ワトソン」と彼はある夜、暖炉の前でバイオリンを弾きながら言った。「ロンドンの霧というのは、犯罪者にとっていかに便利なものか、考えたことがあるか」
「霧の中に紛れて逃げる、ということか」
「それだけではない。霧は音を変える。足音が聞こえなくなる。目撃者がいなくなる。そして——警察の反応が遅くなる。霧の夜の犯罪は、晴れた夜の犯罪より平均して三十分長く未解決のまま放置される。私の計算だ」
「君はいつそんな計算を……」
「暇な時に」
その夜遅く、レストレード警部から使いが来た。
「ホームズ氏、例の件でご助力を」
例の件というのは、ここ二週間ほどロンドン東部で続いている奇妙な騒動だった。夜中に誰かが消防署の鐘を根拠なく鳴らす。女性の帽子が何者かに引っ張られる。煤だらけの何かが建物の屋根を走る——という、一見無害だが不可解な事件が連続していた。
「面白い」とホームズは言い、外套を手に取った。「行くぞ、ワトソン」
ロンドン東部の夜の路地は、霧と煤煙が混じり合って視界は五メートルもなかった。私たちは消防署の裏手に回った時、突然、屋根の上から人影が飛び下りてきた。
「捕まえろ!」とレストレード警部の声が響いた。
私たちは追った。人影は路地を曲がり、塀を飛び越え、暗い倉庫の裏へ消えた。
「こちらだ、ワトソン!」
ホームズの声を追って私が角を曲がった瞬間、頭上から何かが崩れてきた。倉庫の壁の一部が腐っており、私の足元が突然抜けた。
暗い地下空間へ落ちた。
そして——また、あの江戸。
******
【本編:江戸での事件】
——和登三太の語り——
今回私が目を覚ましたのは、夜だった。
それも、かなり深い夜だ。
空は澄み渡り、江戸の冬の星が鋭く光っていた。ロンドンの曇天に慣れた私の目には、その星の数が、まるで異世界のもののように思われた。江戸の夜は暗い——ガス灯も電灯もなく、軒先の行灯と月明かりだけが頼りだ。闇は本当に闇で、目が慣れるまでに時間がかかる。
私と捕霧七は、下町の路地の真ん中に横たわっていた。
下町というのは、江戸の低地——特に神田、日本橋、深川、浅草などの、商人や職人が住む地区のことを指す。武家地が台地に多いのに対し、下町は川沿いの平地に広がる。密集した長屋と商家が入り組み、江戸の庶民文化の核心をなす地域だ。
立ち上がると、遠くに木造の高い塔が見えた。
「あれは……」と私は言いかけた。
「火の見櫓だ」と捕霧七は即座に答えた。「江戸の防火監視塔だ。あの上に番人が常駐して、火の手が上がれば半鐘を鳴らして町に知らせる。ロンドンの消防署の鐘に相当するが、あちらより高く、見晴らしが良い」
火の見櫓は、江戸の防火体制の要だった。木造建築が密集する江戸では、火事は最も恐れられる災害だった——「火事と喧嘩は江戸の華」と言われるほど、大火が頻繁に起きた。半鐘の鳴り方には意味があり、一打ちは「火事が遠い」、連打は「火事が近い」、そして乱打は「すぐそこに迫っている」という合図だ。
「ところで」と捕霧七は空を見上げたまま言った。「今夜、妙な音がしている。聞こえるか」
私は耳を澄ませた。
遠くから、鐘の音が——。
「……半鐘だ」
「しかし火の手は見えない。空は澄んでいる。煙も匂いもない」と捕霧七は言った。「つまり、火がないのに半鐘が鳴っている」
******
翌朝、私たちが長屋に落ち着くと、すぐに近所の人々の口から騒ぎの話が入ってきた。
この界隈——神田の裏手にある下町の一角——では、ここ一月ほど奇妙な出来事が続いていた。
まず、夜中に半鐘が鳴る。火事でもないのに。それが月に二度、三度と繰り返された。
次に、若い女が夜道を歩いていると、傘の上に何かが飛び乗ってきた、という話が出た。傘とは、竹の骨に紙を張った和傘のことで、雨の日に頭上に差す。その上に何者かが圧しかかってきたというのだから、相手はかなりの重さと大胆さを持っている。
さらに——洗濯物を被ったまま屋根の上を走り回る影があった、という目撃談が出た。
「狐狸の仕業だ」と町内の老人たちは囁き合った。
狐狸とは、狐や狸が化けたものを指す。江戸の人々の世界観では、動物が長命になると霊力を持ち、人を化かすことができると信じられていた。特に狐は稲荷信仰と結びついており、神聖な動物でもあり、同時に恐れられる存在でもある。
「ロンドンの庶民が幽霊を恐れるように、江戸の庶民は狐狸を恐れる」と捕霧七は私に説明した。「本質は変わらない。人は説明のつかない現象に、文化に応じた名前をつける」
「しかしあなたは、狐狸の仕業だとは思っていない」
「当然だ」
******
この騒ぎに、さらに一事が加わった。
鍛冶屋の弟子の権太郎という、十八歳の若者が疑われて、自身番に引っ張られたのだ。
自身番というのは、江戸の町内自治の拠点だ。各町内には自身番屋という番所があり、そこには交代で番人が詰め、町内の治安を維持する。ロンドンの警察署とは違い、強制力は限られているが、町内の自治としての機能はかなり強い。疑わしい者を一時的に拘束して事情を聞く、くらいのことはできた。
権太郎が疑われたのには理由があった。
彼は鍛冶屋の弟子だったが、性格が活発で、屋根の上を走るような大胆な悪戯で以前から知られていた。腕力もあり、半鐘が鳴る夜はいつもその場に現れていなかった——というより、深夜に夜歩きをする習慣があったのだ。
「権太郎がやったのだろう」と町内の人々は言い合い、自身番に訴え出た。
権太郎は抗議しながらも引き渡され、自身番の一室に拘束された。
しかし——その夜、また半鐘が鳴った。
権太郎が中にいるにもかかわらず。
「狐狸だ!」と町中が震え上がった。
******
翌朝、私たちのもとに、この話が届いた。
連絡してきたのは、近所の米屋の主人だった。
「旦那方、お力を貸してください。権太郎は正直に言って素行が良くない子ですが、今回だけは濡れ衣だと思います。しかし町内の者はみんな、狐か狸の仕業だと怖がっていて……」
「面白い」と捕霧七は言った。彼が「面白い」と言う時の声の調子を、私はもう何度も聞いているが、毎回、その言葉の後に事件は展開する。
「三太、今夜は半鐘の火の見櫓の周辺を観察しよう」
「夜中に?」
「怪異というものは、昼間には現れない」と彼は言い、懐から煙管を取り出して火をつけた。「ロンドン時代も、同じことをしていただろう。夜中の霧の中を歩き回るのが、我々の仕事だ」
「それは職業的なものとして受け入れているが……」と私はぼやいた。
「文句は事件が解決してから言え」
******
夜の見張りの前に、私たちは昼間のうちに火の見櫓の周辺を調べた。
火の見櫓は、町内の一角にある空き地の端に立っていた。高さは三間(さんけん——約五・四メートル)ほどで、木の柱を組み合わせた構造に、頂上に見張り台と半鐘が吊るされている。梯子で上り下りする仕組みだ。
捕霧七はまず梯子を調べた。
「最近、何者かが頻繁に上り下りした跡がある」と彼は言った。「梯子の桟の一部に新しい傷がついている。それも、通常の番人が上り下りする時の使い方ではなく——より素早く、滑るように降りた時の跡だ」
「素早く降りた?」
「半鐘を鳴らして、すぐに姿を消す必要があったからだ。しかも——」彼は地面に屈んで何かを拾い上げた。「これを見ろ」
彼の手にあったのは、小さな布の切れ端だった。黒く煤けた、粗い麻布だ。
「梯子の下の地面に落ちていた。半鐘を鳴らして飛び降りた時に、着物の裾か袖から破れたものだろう」
「これだけでわかるのか」
「麻布の質と縒り方から、職人の作業着に近い。しかし染め方が少し特殊だ」と彼は布を鼻に近づけて匂いを確かめた。「煤と油の匂いがする。しかも通常の炭火や木火の煤とは違う——これは硫黄の入った燃料の匂いだ」
「硫黄の燃料?」
「花火師か、あるいは煙火を扱う者が使う」
******
「三太」とその夜、見張りの前に捕霧七は言った。「花火師のことを調べてくれ。この界隈に店を持つ者を」
江戸は花火の盛んな町だ。
隅田川の花火大会は、毎年夏に行われる江戸随一の見世物で、両国橋の橋の上から川の両岸にかけて数十万の人が集まる。花火師——煙火師とも言う——は、火薬と硫黄と金属の粉を配合して色とりどりの火花を作り出す職人で、その技術は門外不出として親から子へ伝えられる。
私が近所の聞き込みで調べると、この界隈に「玉屋系の煙火師の出」と称する男が住んでいることがわかった。名を兼吉という、四十がらみの男で、今は小さな花火の問屋を営んでいるという。
「兼吉が半鐘を鳴らしているのか?」と私は捕霧七に報告した。
「まだ断言できない。しかし今夜、確かめる」
******
その夜、私と捕霧七は火の見櫓の近くの物陰に身をひそめた。
冬の夜風が刺すように冷たかった。江戸の冬は、ロンドンの湿った寒さとは違う、乾いた底冷えのする寒さだ。着物の袷の上に綿入れの羽織を重ねても、足の先から冷えが上がってくる。
「ホームズ……いや、捕霧七さん」と私は小声で言った。「見張りながら一つ聞いてもいいか」
「何だ」
「今まで、江戸に来るたびに毎回違う死に方をして転生している。今回はガス灯火と倉庫の床抜けだった。あなたは、これがなぜ起きているのかを考えたことがあるか」
捕霧七はしばらく黙っていた。
「考えたことはある」と彼は静かに言った。「しかし答えは出ていない。ただ——毎回、江戸に来るたびに解くべき事件がある。そしてそれを解くと、ロンドンに戻る。この繰り返しに何らかの意図があるとすれば、われわれはまだここで必要とされているということだろう」
「誰に?」
「それが、最大の謎だ」と彼は言い、そこで黙った。
深夜の子の刻(ねのこく——真夜中の零時ごろ)を過ぎた頃——。
火の見櫓の梯子に、影が現れた。
素早い。鼬のように梯子を駆け上がり、見張り台に飛び乗ると——。
鐘が鳴った。
半鐘の、鋭く高い音が夜空に響き渡った。
「行くぞ、三太!」
捕霧七は飛び出した。私も後を追った。
影は半鐘を鳴らすと同時に梯子をすべり降り、地面に着地して走り出した。その速さは尋常ではなかった。屋根の軒に手をかけて、するすると上り、瓦の上を走る。
「あれは人間か!」と私は思わず叫んだ。
「人間だ!」と捕霧七は走りながら答えた。「しかし軽い。そして——」
影は路地に飛び下りた。その瞬間、捕霧七が正確な角度で待ち構えていた路地の角から飛び出し、影の進路を塞いだ。
影は止まった。
松明の光の下に姿が現れた。
それは——十三か十四の、小柄な少年だった。
煤けた黒っぽい着物を着て、顔も手も煤で汚れている。捕まえられたと知ると、大きな目でこちらをまじまじと見た。
「……名前は」と捕霧七は静かに言った。
少年は唇を固く結んで黙っていた。
「怒りはしない。話してくれ」
******
少年の名は市松といった。
話を聞けば、その事情は思いのほか複雑だった。
市松は、この界隈で花火の材料を売っている兼吉という男の使い走りをしていた。兼吉は表向き問屋だが、裏では御禁制——幕府が禁じている——の危険な花火の材料を、横流ししていた。町内の鍛冶屋がその顧客の一人だった。
「鍛冶屋?」と私は言った。「権太郎の親方の?」
市松は頷いた。
「旦那は……あたしに、半鐘を鳴らすように言いました」と市松は言った。「半鐘が鳴れば、町内が大騒ぎになる。大騒ぎになれば、奉行所の同心が見回りに来る。同心が来ている間は、禁制の材料を運ぶ荷車は動けない」
「つまり、半鐘は囮か」と捕霧七は言った。「奉行所の目を一か所に引きつけておいて、その隙に別の場所で材料を運ぶ」
「そうです。あたしは……断れなくて……旦那に借りがあって……」
傘の上に飛び乗ったのも、洗濯物を被って屋根を走ったのも——市松が見張りの番人の注意を別の方向に引き付けるためにやったことだった。小柄で身軽な少年にしかできない、離れ業だった。
「兼吉という男はどこにいる」と捕霧七は訊いた。
市松は少し迷ってから、場所を教えた。
******
兼吉は翌朝、北町奉行所の役人に引き渡された。
禁制の花火材料の横流しは、江戸では重罪だった。火薬の管理は幕府が厳しく統制しており、無許可で扱う者には厳しい処分が下る。江戸の木造都市において、火の管理は命がけの問題だったからだ。
権太郎は自身番から解放された。
「ご迷惑をおかけしました」と権太郎は私たちに頭を下げた。筋骨たくましい若者で、しかし目には素直さがあった。「あたしは確かに悪戯が好きで……疑われても仕方なかったかもしれませんが……」
「人は過去の評判で裁かれることが多い」と捕霧七は静かに言った。「しかしそれは、証拠に基づく裁きではない。気をつけることだ——疑われやすい人間というのは、余計な苦労をする」
「は……はい」と権太郎は面食らいながら頷いた。
そして市松のことだが——捕霧七は奉行所への引き渡しにあたって、市松については「自ら協力して犯人を告発した」という事実を添えて報告した。江戸の法では、犯罪に加担した者でも、積極的に捜査に協力した場合は情状酌量の余地がある。
市松がどうなったか、私は後日まで詳しくは知らなかった。しかし後に、神田の別の鍛冶屋に丁稚として雇われたという話を聞いた。
******
「捕霧七さん」と私は事件の翌日の夜、長屋の縁側で言った。「今回は殺人でも重傷者でもなかった。珍しく穏やかな事件だった」
「穏やかには見えたが、本質は穏やかではない」と彼は煙管をゆっくりと吹かしながら言った。「禁制の火薬材料が江戸の町に出回っていた。もし誰かがそれを使って火を放っていれば、木造の下町は一晩で焼け野原になっていた。火事の一件だけで、大勢の命が失われる」
「そう考えると……」
「半鐘の怪は、怪異でもなく妖怪でもなく、小さな少年が大人に使われてやっていたことだ。しかしその裏に、大勢の命に関わる犯罪が隠れていた」
捕霧七は煙管を下ろして、空を見上げた。冬の江戸の夜空には、またあの鋭い星が光っていた。
「三太、江戸には『火事と喧嘩は江戸の華』という言葉がある」
「聞いたことがある」
「しかし実際に火の中で命を失う人々にとって、火は華ではない。美化された言葉の陰に、現実の恐怖がある。探偵の仕事は、その陰にあるものを引っ張り出すことだ——たとえそれが、狐狸の仕業に見えていても」
彼はそう言い、もう一服吹かした。
煙が、冬の星空に向かって、ゆっくりと昇っていった。
******
【結末:ロンドン時代】
気づくと、私はベイカー街の居間にいた。
暖炉の前で、ホームズは机に向かって新聞を広げていた。ロンドン東部の怪事件について、小さな記事が載っているのを私は覗き見た。「謎の鐘鳴らし、ついに逮捕か」という見出しだった。
「レストレード警部が解決したのか」と私は言った。
「レストレードが解決した、と記事には書いてある」とホームズは新聞を折り畳んで言った。「実際にどうだったかは、もはや関係ない。重要なのは、結果だ」
「それが君らしい鷹揚さだ」
「鷹揚というよりも」とホームズはパイプを手に取りながら言った。「私はレストレードが手柄を立てることを、本質的に妨げる理由がない。彼がうまくやれるなら、それに越したことはない」
「今回のロンドン東部の件は、結局何だったのか」
「消防署の鐘を鳴らしていたのは、近所の子供だ。動機は——さほど重大なものではなかった。しかしその子供を使っていた大人がいて、その大人は別の犯罪に手を染めていた」と彼は言った。「いつも同じだ、ワトソン。子供は道具として使われる。大人の犯罪を隠すための道具として」
ホームズはパイプを吹かし、窓の外の霧を眺めた。
「いつか、子供が道具として使われない世界になるといいが」と彼は珍しく感傷的な口調で言った。「しかしそれは、探偵の仕事がなくなる世界でもある」
「探偵が不要な世界は、理想の世界か」と私は言った。
「理想かどうかは、立場による」とホームズはいつもの乾いた口調に戻って言った。「少なくとも私にとっては、退屈な世界だ」
窓の外でロンドンの霧が深まり、ガス灯の光が淡く滲んでいた。
どこかで遠く、鐘の音が聞こえた——消防署の定時の鐘だろう。火事でもなく、謎でもない、ただの時の鐘。
しかしその音を聞いて、私は市松という少年のことを思った。煤けた顔で、大きな目で、こちらを見ていたあの少年を。彼があの夜、鳴らした半鐘の音もまた、同じ音色だったのだ。
******
本作は、アーサー・コナン・ドイル著『シャーロック・ホームズの冒険』および岡本綺堂著『半七捕物帳』への敬意と感謝を込めて執筆しています。
著:コナン・綺堂異流(Conan Kidoyle)




