第四十二話:消えた若侍の符牒 〜 The Sign of the Vanished Samurai 〜
一部AIにより作成
【冒頭:ロンドン時代】
一八九六年、初秋のことである。
ベイカー街の居間で、ホームズは珍しいものを手にして座っていた。
白い、奇妙な面である。
人の顔の形をしているが、どこか人間離れした、静謐な表情をしている。白木を削り出したような素材で、目は細く、口はわずかに開き——喜びとも悲しみとも取れる、あいまいな微笑みを湛えていた。
「ホームズ、それは何だ」
「能面だよ、ワトソン」ホームズは面を光にかざした。「日本の古典芸能——能楽で使われる仮面だ。知り合いの収集家が貸してくれた。なかなか興味深い」
「何が興味深いのだ」
「この顔に、感情がないことだよ」ホームズは面を膝に置いて、じっとその表情を見つめた。「ロンドンの演劇では、役者は表情で感情を伝える。しかし能楽では、面の角度——わずかな傾き——だけで、喜びにも悲しみにも見える。同じ面が、同じ夜に笑いもし、泣きもする」
「面白いな」と私は言った。
「面白いだけではない」ホームズは静かに続けた。「これは哲学だ、ワトソン。感情を表に出さない者が、最も深く何かを感じている場合がある。逆に、大げさに感情を見せる者が、最も何も感じていない場合がある。人を読むとき、表情を信じすぎてはいけない——それが、この面の教えだ」
私はその白い面を眺めた。確かに、見る角度によって全く違う顔に見えた。
「しかし、ホームズ」と私は言った。「今日は少し哲学的に過ぎないか。何か事件でもあるのか」
「まだない」ホームズはすっと立ち上がり、面を棚に戻した。「しかし何かある予感がする。秋というのは、奇妙な事件が持ち込まれる季節なのだ」
その言葉が終わるか終わらないうちに、窓の外から激しい音がした。
向かいの家の工事中の足場が、秋風に煽られて崩れ落ちたのだ。分厚い板材が道路に飛び散り、一枚が私たちの窓ガラスを突き破って室内に飛び込んできた。ホームズが私を庇おうとして二人もつれ合い、勢い余って暖炉の前に倒れ込んだ。頭を打ち、目の前が白くなった。
棚の能面が、秋の光の中で静かに微笑んでいた。
そして——。
******
【本編:江戸での事件】
——和登三太の語り——
私が目を覚ましたとき、まず聞こえたのは三味線の音だった。
三味線というのは、猫の皮を張った胴に、三本の弦を張った撥弦楽器である。ロンドンで言えばバンジョーに形が少し似ているが、音はずっと繊細で——弦の一本一本が、絹糸のように細い音をたてる。その音が、どこか遠くから聞こえてきた。
顔を上げると、神田の長屋の縁側にいた。
秋の午後の光が斜めに差し込んでいた。江戸の秋の光は、ロンドンのそれより角度が低く、より黄金色に近い。障子越しに差し込む光が、畳の上に四角い影を作っていた。
「起きたか、三太」
捕霧七がいた。煙管を手にして、縁側の柱に寄りかかり、庭の柿の木を眺めていた。柿の葉が半分落ちて、橙色の実がいくつか、秋空に吊り下がっていた。
「また江戸か」と私は言った。
「また秋の江戸だ」捕霧七は煙管の煙をゆっくり吐き出した。「今度は文久三年(一八六三年)の秋らしい。そして——もう相談者が来ている」
******
相談者は、四十がらみのずんぐりした男だった。
孫十郎という道具屋の主人で、神田のはずれに店を構えているという。道具屋というのは、古い家財や美術品、武具や衣類などを売り買いする古物商のことで、ロンドンで言えばキュリオショップ(骨董品店)に相当する。江戸の道具屋は武家屋敷の払い下げ品から庶民の生活道具まで、ありとあらゆる物を扱った。
孫十郎は膝の上でしきりに手をもみながら、話し始めた。
「先月のことでございます。一人の能役者が私の店に参りまして、生成の仮面を売りたいと申しました」
「生成の仮面とは」と私は聞いた。
「白木に近い、素地のような色をした能面でございます。能面と申しますのは——」
「存じている」と捕霧七がすかさず言った。「能楽に使う、木彫りの仮面だ。白式尉や翁に用いられる素朴な面で、古いものは美術品として高い価値を持つ。続けてくれ」
孫十郎は少し驚いたが、話を続けた。
その能役者は四十前後の、品の良い男だった。仮面を二十五両で売りたいと言う。二十五両というのは、今日の貨幣感覚で言えばざっと三十万円ほど——庶民の数ヶ月分の生計に相当する額だ。孫十郎は値段を確かめ、筋は良いが古物としての希少性で言えばもう少し安いとは思いつつ、とりあえず話を進めて翌日改めて金を渡す約束をした。
「つまり、仮面はその日のうちに店に置かれた。翌日受け渡しという段取りで」と捕霧七は確認した。
「左様でございます。ところが——」孫十郎は顔を曇らせた。「翌朝、今度は別の客が参りまして。三十前後の若い武士で、その仮面をどうしてもゆずってほしいと申すのです」
******
若い武士の話が、面白かった。
「その武士は——ずいぶん切迫した様子でしたか」と捕霧七が聞いた。
「それはもう」孫十郎は身を乗り出した。「青ざめた顔をして、声まで震えておりました。なんでもその仮面には、ご先祖以来の秘密がある、家の恥が隠されている、どうかこちらの手に渡る前に取り戻させてほしいと、泣かんばかりに申しまして——」
「家の恥とは、何かね」
「それがはっきりとは申さないのですが、仮面の裏側に、何かが刻み込まれているとか——刀傷の証拠とか——」孫十郎は首をひねった。「よくは聞き取れませんでしたが、とにかく只事ではない様子で」
私はそこで、ホームズ——いや、捕霧七の口元がわずかに動いたのを見た。注意深く聞いている証拠だ。
「それで、あなたはどうしたか」
「最初から売っても良かったのですが——」孫十郎はきまり悪そうに頭を掻いた。「正直に申しますと、これは値が上がると思いまして。一度は能役者と約束した手前、その武士には百五十両出すなら売ると申し上げたのです」
「百五十両」と私は繰り返した。二十五両の六倍である。かなりの吹っかけだ。
「武士はすぐに承知しました。ただ今は金の用意がないから、明日持ってくると言い残して帰りました。私は能役者に違約金として七十五両を支払い、仮面を取り戻しました。百五十両で売れれば、差し引き七十五両の儲けになりますから——」
「ところが」と捕霧七は先を読んだ。「その若侍は、二度と現れなかった」
孫十郎は深々とうなずいた。
「十日待っても。半月待っても。ついに一ヶ月が過ぎました。七十五両を損したまま、仮面だけが手元に残っています。あれは能役者と若侍が最初から示し合わせた狂言——芝居だったのでしょうか。わたくしはすっかり一杯食わされたのでしょうか」
******
捕霧七は少しの間、煙管をくるくると指で回しながら、黙っていた。
ロンドン時代から変わらぬ、思索の癖だ。バイオリンの弓をくるくる回していたことと、動作の本質がまったく同じである。
「孫十郎さん」と彼はやがて口を開いた。「一つ確認したいことがある。能役者が仮面を持ってきた日と、若侍が現れた日——その二人は、店の中で顔を合わせたか」
「いいえ」孫十郎はすぐに答えた。「能役者は前日の昼に参りました。若侍は翌朝でございます。二人が顔を合わせたことはございません」
「二人の顔立ちや様子に、似たところはあったか」
「それは……似てはおりませんでした。能役者は細面の上品な男。若侍は角張った顔の、いかにも武家らしい男でした」
捕霧七はうなずいた。そして、私の目を見た。
私はすぐに察した——この男が私の目を見るとき、すでに答えに辿り着いている。
「孫十郎さん」捕霧七は静かに言った。「その仮面を見せていただけるか」
******
仮面を手に取った捕霧七は、まず表側をじっくりと眺め、次に裏側を光にかざした。
能面の裏側というのは、普段は見えない部分である。舞台では役者がそれをつけて演じるため、観客には表面しか見えない——その表情の「あいまいさ」が、能楽の神髄だと江戸の人々は言う。
能楽というのは、室町時代(十四世紀)に完成した日本固有の演劇形式で、謡と舞と囃子で構成される。ロンドンのオペラに相当するが、より様式化されており、一つの動作に数百年の意味が凝縮されている。仮面を使うのが大きな特徴で、その面の種類は二百種以上にのぼる。
捕霧七は仮面の裏側を、指でそっと撫でた。
「ある」と彼は低く言った。「三太、見てくれ」
私が覗き込むと、木の肌の中に、細い傷が走っていた。刃物でついたような傷ではなく——もっと意図的な、文字のように見える刻み傷だった。
「何かの記号か」と私は言った。
「いや」捕霧七は目を細めた。「これは花押だ」
花押というのは、武家や公家が書類や器物に刻む署名のようなものである。西洋で言えばサイン(署名)に相当するが、より個人的な意匠を持つ——自分だけの形を持った、一種の紋章だ。
「誰かの花押が、仮面の裏に刻まれている」と私は言った。
「そうだ。これは——若侍が『家の恥』と言ったことと関係する。しかし面白いのは——」捕霧七は仮面をゆっくり孫十郎に返しながら言った。「この花押は、ひとつではない。二つある」
孫十郎が目を丸くした。
「二つ?」
「ひとつは深く、古い傷だ。おそらく十年以上前のもの。もうひとつは浅く、最近つけられたもの。色が違う」
******
その後、捕霧七は二日をかけて調べを進めた。
私は医師として傍らにいながら、その調べの過程を記録した。
まず能役者を探した。神田の周辺に聞き込みをすると、その能役者の素性はすぐにわかった——京橋のあたりに住む、橘流の能楽師、太助という男だった。捕霧七が訪ねると、太助は最初、怪訝そうな顔をした。
「道具屋に売ったあの面のことかね」と彼は言った。「あれは師匠の形見でしてね。稽古に使ってきたが、もう年を取って舞台に立てないし、弟子もいない。金に困ってやむなく売ったんですよ。ただ売ってすぐ後悔して——また取り戻そうとしたが、あの道具屋のご主人が百五十両出すなら売ると言うので、諦めていたところです」
「その面の裏に、花押が刻まれていたことは知っているか」
太助の顔色が、わずかに変わった。
「……知っています。師匠が言っていました。あの面には昔の持ち主の署名が刻まれていると。それ以上のことは——」
「若侍が道具屋に来たことは知らなかったか」
「まったく知りません」
捕霧七はうなずいて、それ以上は追求しなかった。
******
次に若侍を探した。
こちらは少し時間がかかった。捕霧七は孫十郎に若侍の風体を詳しく聞き、神田から本郷にかけての武家屋敷を一軒一軒当たった。
本郷というのは、神田の北に隣接する地域で、大きな武家屋敷が連なり、昌平坂学問所——幕府の公式学問所、ロンドンで言えばオックスフォードに相当する知の殿堂——がある、江戸でも格式の高い一角だった。
三日目の夕方、捕霧七はひとりの若侍を突き止めた。
松坂という家の次男で、源之丞という二十八歳の男だった。捕霧七が訪ねると、源之丞は青ざめながらも、きちんと向き合った。
「道具屋には参りました」と彼は言った。「しかし百五十両という金は、どうしても工面できなかった。父に事情を話せばあるいは出してもらえたかもしれないが——そうすると、仮面の秘密がすべて明るみに出てしまう。それが怖くて、結局、諦めました」
「仮面の裏の花押——二つのうち、ひとつはあなたの家の先祖の花押か」
源之丞は驚いたように捕霧七を見た。
「……よくおわかりで。そうです。三十年ほど前、私の祖父が酒の席で人を傷つけた事件があった。その仲裁をしてくれた能楽師に、和解の証として祖父が仮面を贈り、裏に祖父と能楽師の花押を並べて刻んだのだと、父に聞きました。表沙汰になれば家が傷つく——だから私は、あの面を取り戻したかったのです」
「しかし能役者の太助は、その経緯を知らなかった」
「師匠が亡くなって、弟子には何も伝わっていなかったのでしょう。だから何も知らず売りに出した」
捕霧七は静かにうなずいた。
「つまり——能役者と若侍は、最初から何の関係もなかった」
私はそこで思わず声を上げた。
「では孫十郎さんが疑った狂言(芝居)ではなく——」
「偶然の一致だ」と捕霧七は言った。「能役者は金に困って仮面を売った。若侍は家の秘密を守ろうと仮面を取り戻そうとした。二人は互いを知らず、たまたま同じ仮面をめぐって、同じ道具屋に一日違いで現れた。孫十郎さんはその間で、七十五両を損した。誰も最初から悪意を持っていたわけではない」
******
孫十郎にその一部始終を伝えると、彼はしばらく口をきけなかった。
「では……わたくしは、自分の商売気のせいで——」
「そうです」と捕霧七は穏やかに言った。「能役者に二十五両を払ってすぐ渡していれば、損はなかった。百五十両に吊り上げたために、若侍が金を用意できず消え、七十五両だけが消えた」
孫十郎はしばらく黙って、それからため息をついた。
「商売というのは——難しゅうございますな」
「難しい」と捕霧七は言った。「しかし今回の件で、本当に悪い者はいない。あなたは損をしたが、それは強欲の結果だ。能役者は師匠の形見を手放す苦しさを背負い、若侍は家の秘密を抱えている。三人とも、それぞれに何かを失った」
孫十郎は仮面を手に取り、しばらく眺めた。能面の微笑みは、その白い顔の上で、あいかわらずあいまいに輝いていた。
「では——この仮面は、どうすればよいので」
「それはあなたが決めることだ」と捕霧七は言った。「しかし私なら——源之丞に、二十五両で渡す。それが最初の、正しい値段だ」
******
秋の暮れ、私と捕霧七は帰り道に本郷の台地を歩いた。
西の空が赤く染まり、武家屋敷の屋根の向こうに、夕焼けが広がっていた。どこかで虫が鳴いていた。江戸の秋の虫は、ロンドンの秋に鳴く鳥と同じように、季節の終わりを告げる。
「捕霧七さん」と私は言った。「一つ聞いてもいいか」
「なんだ」
「最初から、能役者と若侍が無関係だとわかっていたのか」
捕霧七はしばらく黙った。それから、煙管を一吹きして言った。
「最初からではない。しかし孫十郎さんの話を聞きながら、ひとつのことが気になっていた。彼は『能役者と若侍は同類で、示し合わせた芝居だろう』と言ったが——もし本当に示し合わせているなら、なぜわざわざ二日に分けて現れる必要がある? 同じ日に来れば、もっと確実に孫十郎さんを追い詰められる」
「確かに」と私は思った。
「つまり、二人は互いの存在を知らなかった。だから別々の日に来た。それだけのことだ」
「しかし——」私は言いかけて止まった。「仮面の裏の花押のことは、どこで?」
「若侍の口から、家の恥と刀傷の話が出た時点で、仮面に何か刻まれているとわかった。後は確かめるだけだ。推理とは——観察し、整理し、最も単純な答えに辿り着く作業だ、三太」
私は笑った。
「ロンドンでも、まったく同じことを言っていたな」
「当たり前だ。江戸でもロンドンでも、人間は変わらない」
夕暮れの本郷の道に、二人の影が長く伸びていた。
******
【結末:ロンドン時代】
目が覚めると、ベイカー街の床に倒れていた。
暖炉の前に飛び込んだのだろう、絨毯に顔を押しつけた格好で、頭がわずかに痛んだ。ホームズは先に起き上がっており、棚の能面を元の位置に戻しているところだった。
「怪我はないか、ワトソン」
「大丈夫だ。しかしまた——」
「江戸に行った」ホームズは静かに言った。「秋の江戸だった。仮面の事件だ」
「私も同じものを見た」
ホームズは棚の能面を、しばらく眺めた。
「ワトソン」と彼は言った。「今回の事件で、何が面白かったかわかるか」
「犯人がいなかったことか」
「そうではない」ホームズは能面から目を離して、私を見た。「三人の登場人物が、それぞれ別の理由で、同じ一つの仮面を欲しがった——あるいは手放したがった。そしてその全員が、互いの事情を知らないまま、結果的に一つの事件を作り上げた」
「偶然の連鎖だ」
「偶然とは、実は必然の積み重ねだ」ホームズは椅子に腰を下ろした。「能役者は師匠の死という必然から仮面を手放した。若侍は先祖の過ちという必然から仮面を求めた。孫十郎は商売人としての本能という必然から値を吊り上げた。三つの必然が重なって、奇妙な事件になった」
私は棚の能面を見た。白い表情は相変わらず、喜びとも悲しみとも取れる、静かな微笑みを湛えていた。
「あの面は」と私は言った。「今もそうやって笑っているな」
「笑っているのか、泣いているのか」ホームズは言った。「それを決めるのは、見る者だ」
秋の夕暮れの光が、ベイカー街の窓から斜めに差し込んで、能面の白い表情を金色に染めた。
ホームズは長い沈黙の後、バイオリンを手に取った。今夜の曲は、一言で言えば——能楽の囃子に似た、静かで繰り返しの多い旋律だった。どこで覚えたのか。それとも、江戸の記憶が指に残っていたのか。
私には、わからなかった。
******
本作は、アーサー・コナン・ドイル著『シャーロック・ホームズの冒険』および岡本綺堂著『半七捕物帳』への敬意と感謝を込めて執筆しています。
著:コナン・綺堂異流(Conan Kidoyle)




