表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ホームズ捕物帳 ~ロンドンの名探偵、江戸に転生して岡っ引きになる  作者: コナン・綺堂異流


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
4/24

第四話:湯屋の二階の奇譚 〜 The Adventure of the Bathhouse Gallery 〜

一部AIにより作成


挿絵(By みてみん)


【冒頭:ロンドン時代】


一八九四年の初春、私とホームズはロンドン西部のハマースミスにある古い倶楽部を訪れていた。


ホームズが珍しく自分から「社交の場に出向く」と言い出したのは、その夜の演奏会に出演する著名なヴァイオリニストの奏法に興味があるためだということだった。


「あの男の弓の角度には、クライツラーとは異なる独自の理論がある。実際に聴かなければ確かめられない」


「純粋に音楽を楽しみに行くのではないのか」


「楽しむことと分析することは、私にとって同義だ」


倶楽部の広間は、ガス灯の明かりの下に、紳士たちの正装が並んでいた。演奏会の前に軽食が振る舞われ、私はサンドウィッチとクラレットをいただいた。ホームズはといえば、炭酸水を一杯だけ手に持ち、演奏者が登場するまでの間、あちこちの紳士の手や靴を観察していた。


「あの角の男、ホームズ」と私は小声で言った。「ひどく落ち着かない様子だが」


「三件のカード負けを抱えている。右の袖口の磨耗、左の靴のすり減り方、それとここ数日ろくに眠っていないことが服の皺から読み取れる。今夜ここへ来たのも、逃げ場所を探してのことだろう」


「なぜ逃げ場所が倶楽部に?」


「債権者はこういう場所には入れない。会員制の壁というのは、ある種の人間にとって最も堅固な防壁になる」


演奏会が始まった直後、その「落ち着かない紳士」が突然立ち上がり、非常扉へと向かって走り出した。追いかけてきたのは、ホームズが予言した通り、険しい顔の男が二人。


「ワトソン、我々は関係ない」とホームズは言ったが、私は医師の習性で立ち上がりかけた。


その刹那、誰かが非常扉の外でガス管を誤って蹴倒した。轟音とともに火が噴き出し、倶楽部の壁が燃え上がった。


「逃げろ!」


私はホームズの腕をつかんで走ったが、天井の一部が崩落した。重い梁が私たちの背後に落ちた衝撃で、私の意識は飛んだ。


そして——また、あの江戸が始まった。




******




【本編:江戸での事件】


——和登三太の語り——


今回、私が目を覚ました場所は、これまでで最も奇妙な場所だった。


板張りの床の上に横たわっている、というのは前回と同じだったが、周囲の空気がやけに温かく、湿気を帯びていた。かすかに木の香りと、何か石鹸に似た匂いが漂っている。


頭を起こして見渡すと、そこは広い座敷のような部屋で、あちこちに棚が作られ、脱いだ着物や手拭いが置かれていた。


「ここは……湯屋ゆやの二階か」と、捕霧七がすでに起きあがって、懐から煙管を取り出しながら言った。


湯屋というのは、江戸の公衆浴場のことである。ロンドンにも公衆浴場はあるが、用途と構造がまるで異なる。江戸の長屋に住む庶民の多くは自宅に風呂を持たないため、湯屋は日常的に欠かせない施設だ。男湯と女湯に分かれた浴場は一階にあり、二階は休憩の場として設けられている。


この二階というのが、単なる休憩所ではなかった。


「二階には何がある?」と私は訊いた。


「将棋、囲碁、読書——そして双六すごろくのような博打の類も、半ば黙認されていた。浪人や職人、ちょっとした小商人が集まって、時間を潰す場所だ。ロンドンで言えば、会員制ではない、誰でも入れる下層向けの社交倶楽部といったところか」


なるほど、確かに部屋の隅には将棋盤が二つ置かれており、骰子さいころの転がった跡も残っていた。


その時、階段を駆け上がってくる音がして、湯屋の番頭らしき男が飛び込んできた。


「旦那方! どこからいらしたのかは存じませんが——大変なことに……」


番頭の顔は蒼白だった。




******




事情を聞くと、こういうことだった。


この湯屋——神田橋の近くにある「松の湯」という名の銭湯——には、ここ十日ほど、毎夜のように二階に上がってくる一人の浪人者があったという。


浪人ろうにんとは、仕える主君を持たない武士のことである。江戸には数多くの浪人がいた。武家社会においては、武士は主君(藩主や旗本)に仕えることでろく——俸禄、すなわち給与——をもらう仕組みになっているが、仕官の口を失った者は浪人となり、剣術の指南や警護の仕事などで糊口をしのぐことになる。ロンドンで言えば、除隊した軍人が職を探しているようなものだ——いや、私自身がそうだったか。


その浪人者は名を熊太郎くまたろうといい、年は三十前後、色黒で体格の良い男だったという。毎夜、着流し姿(着物の帯だけ締めて袴をはかない姿)で現れ、囲碁を打ったり双六をしたりしていたが、特に誰と親しくするわけでもなかった。


「それが——昨夜、二階で一人の若い侍と囲碁を打っておりまして、深夜になっても帰らないと思っておりましたら……今朝見ると、その侍の方が二階のこの部屋の押し入れに押し込まれて……亡くなっておりました」


「押し入れに?」と私は言った。


「はい。はじめは単に酔って眠っているのかと……」


「その若侍というのは?」


「名乗りはしていただけませんでしたが——身なりの良い方で、着物も上等な縞柄しまがらの絹物で……」


捕霧七はすでに部屋の中を歩き回っていた。将棋盤を眺め、骰子を拾い上げ、押し入れの中を覗き込み、窓の格子を調べた。


「熊太郎という浪人は、どこへ行ったか」と彼は訊いた。


「それが……今朝から姿が見えません」


「窓は?」


「二階の窓は朝まで閉まっておりました。階段から外に出る以外に出口はございません」


捕霧七はそこで静かに立ち止まり、煙管を口に咥えて天井を見上げた。




******




死体は若い男だった。


二十二、三歳といったところか。私が見た限りでは、首を絞められたあとがあった。抵抗した様子はそれほどなく、おそらく眠りかけているところを背後から——。


着物は確かに上等だった。縞柄の絹の着物に、良質な博多帯はかたおびを締めている。博多帯というのは、福岡の博多で作られる堅地の帯で、武士も裕福な町人も好んで用いる。着物のもんを見ると、小さく「剣花菱けんはなびし」の紋が入っていた。


紋というのは、家の印として着物の背や袖に染め抜く家紋のことで、ロンドンの貴族の紋章コート・オブ・アームズに似ているが、より簡潔で抽象的な意匠が多い。江戸では武士はもちろん、商人にも家紋がある場合が多い。


「剣花菱の紋か」と捕霧七は低い声で言った。「三太、これは武家の紋だ。それも、相当格のある家の」


「では、武家の子弟がなぜ湯屋の二階に?」


「それを今から調べる」


捕霧七は番頭を呼び、いくつか質問した。


「この若侍が初めて現れたのはいつか」


「十日ほど前でございます。熊太郎さんとほぼ同じ時期に……」


「二人は以前から知り合いだったか」


「さて……初日から声をかけ合っておりましたから、顔見知りではないかと……」


「若侍が二階で使っていた場所を教えてくれ」


番頭が指さしたのは、窓際の棚の傍らの一角だった。捕霧七はそこを丁寧に調べ、棚の裏側に手を入れてから、小さく「ほう」と言った。


私が覗き込むと、彼の手に、紙に包まれた小さな束があった。


「金だ」と彼は言った。


紙包みを開くと、中には小判こばんが数枚入っていた。小判とは金で作られた楕円形の金貨で、一枚が一両いちりょうに相当する。一両は今日の価値に換算するとおよそ数万円から十数万円程度——つまり、これは相当な額の金だった。


「若侍がここに隠していたのか」と私は言った。


「そうだろう。帰る前に回収するつもりだったが、機会がなかった——いや、機会を奪われた」


「しかし、なぜここに金を隠す必要がある?」


捕霧七は立ち上がり、私を見た。


「武家の子弟が、家の者に知られたくない理由で金を持ち歩いていた。そして湯屋の二階という、身分を問わない場所で時間を過ごしていた。考えられることは一つだ」




******




私たちはその日の午後、神田橋の近くの武家地で聞き込みを行った。


捕霧七の推測は正確だった。


剣花菱の紋は、小石川にある旗本、丹羽にわ家の家紋だった。丹羽家は三千石取りの旗本で、当主には嫡男ちゃくなんと次男がいる。嫡男は主君のもとに仕え、次男の源次郎げんじろうは——どうやら家の厳しい管理の下に置かれていたらしかった。


「次男というのは難しい立場でございます」と、近所の糸物屋の主人が話してくれた。「嫡男でなければ家を継げない。かといって武家の子弟だから好き勝手な商売も始められない。手当てはもらうものの、家の中での立場は……何かとご不満もあったのではないかと」


源次郎は二十三歳。身なりの良い若者だったが、近頃は博打に手を染めていたという噂があった。


博打ばくちと言っても、表向きは囲碁や将棋でございますが——湯屋の二階でやっている分には、あまり咎める者もおりませんで……」


江戸では、博打は建前上は禁止されていた。奉行所ぶぎょうしょによる取り締まりも行われるが、湯屋の二階のような半ばグレーな空間での小さな賭け事は、見逃されることが多かった。ロンドンのジェントルマンズ・クラブでの賭けカードと、社会的な役割として似ているかもしれない。


「そして熊太郎という浪人は?」


「それが……」と糸物屋の主人は声を低くした。「あの方は、博打の仲介で食べている方だと聞いております。いわゆる胴師どうしの下っ端のようで……」




******




「三太」と、その夜、長屋に戻った捕霧七は私に言った。「この事件の構図が見えてきた」


「聞かせてくれ」


「熊太郎という浪人は、博打で人を食い物にすることを生業なりわいにしていた。源次郎という武家の次男を見つけ、小遣い稼ぎのつもりで始めた博打に引きずり込んだ。源次郎は最初こそ勝ったかもしれないが、次第に負けがこんで、金が足りなくなった」


「それで隠してあった金を?」


「家から持ち出せる金には限りがある。しかし負けを重ねれば、熊太郎への借りはどんどん膨らむ。そしてある夜——源次郎は身の危険を感じ、あの棚の裏に金を隠した。いざとなれば熊太郎に渡して手を切るつもりで。しかし熊太郎は先手を打った」


「殺したのか。借りをとりたてるより、口封じを選んだ?」


「武家の次男を博打で食い物にしていたことが露見すれば、熊太郎も只では済まない。源次郎が家の者に打ち明けるか、奉行所に駆け込む前に、始末しようとしたのだろう」


「では、熊太郎はどこへ逃げた?」


捕霧七は煙管の雁首をゆっくり回した。


「逃げた先がある。博打の胴師どうしの親分のもとへだ。そういう世界では、しくじった手下を匿う仕組みがある。しかし——」


彼は立ち上がり、腰の十手を確かめた。


「私には手掛かりがある。熊太郎が囲碁を打つ時の癖から、彼の出身が読み取れた」


「囲碁の癖から出身が?」


「石の置き方に、上方かみがた——つまり大阪・京都の流儀が出ていた。江戸育ちの者と、上方育ちの者では、盤の扱い方に微妙な差がある。そして上方出身の浪人が博打の胴師に繋がりを持つとすれば、神田の一角に上方者が集まる木賃宿きちんやどがある」


木賃宿きちんやどとは、自炊を前提とした安宿のことで、旅人や日雇い労働者が使う。ロンドンで言えばコモン・ロッジング・ハウスに相当する、江戸で最も安価な宿泊施設だ。




******




翌朝、捕霧七は縄付きの下っしたっぴき——岡っ引の手伝いをする者——を二人連れて、その木賃宿を訪ねた。私も同行した。


宿の帳場で事情を話すと、主人は渋々ながら案内した。


熊太郎は、二階の隅の小さな部屋にいた。


逃げようとする気配を察したのか、捕霧七はすでに一階の裏口を下っ引に押さえさせていた。熊太郎は部屋の中で立ち往生し、青ざめた顔で私たちを見た。


「観念してくれ」と捕霧七は静かに言った。「あの棚の裏の金のことは、もうわかっている」


熊太郎はしばらく黙っていたが、やがて膝から崩れた。




******




熊太郎は北町奉行所に引き渡された。


丹羽源次郎の死については、丹羽家に通報がなされた。旗本家としては、次男が湯屋の二階で博打に入れ込んでいたことを公にしたくなかったが、殺人である以上、奉行所の沙汰は避けられない。


江戸の刑事司法においては、殺人は「死罪しざい」——すなわち死刑——に相当する重罪である。熊太郎がどのような処分を受けたかは、私は直接知らないが、捕霧七は「まず助かるまい」と、いつもの静かな口調で言った。


「捕霧七さん」と私はある夕、訊いた。「囲碁の石の置き方から出身地がわかるというのは、本当のことか」


「本当だ」と彼は言った。「人の癖というのは、思いのほか多くのことを語る。歩き方、筆の持ち方、はしの使い方——それぞれに、その人物が育った環境と文化が刻まれている。江戸と上方とでは生活様式が違う。例えば箸の長さ一つとっても——」


「箸の長さまで調べるのか」と私は苦笑した。


「当然だ。ロンドン時代も、ナイフとフォークの持ち方からエトンで学んだか否かを読み取っていたではないか。本質は変わらない」


「しかし、その知識をいつ仕入れた?」


「この江戸に来てから、毎日少しずつ積み上げている」と彼は言った。「長屋の隣の爺さんから囲碁を教わり、豆腐屋の親父から上方の言葉を聞き、橋の下の物乞いから江戸の裏事情を仕入れた。探偵の仕事というのは、どこにいても変わらない。足で稼ぐものだ」


湯屋の二階というのは、江戸の中でも特別な場所だった。武士も町人も、裸になれば身分の差は薄まる——しかし湯屋の二階では、その解放感が裏切りと欲望の温床にもなる。


人が「素の顔」を見せる場所というのは、いつの時代も、探偵にとっての狩り場である。




******




【結末:ロンドン時代】


気づくと、私はベイカー街の居間にいた。


暖炉の炎が赤く揺れている。ホームズは肘掛け椅子に沈んで、今夜の演奏会のプログラムを眺めていた。


「ホームズ、例のハマースミスの倶楽部は?」


「焼け落ちた。幸いに死者は出なかった」とホームズはあっさりと言った。「犯人は、君が言った『落ち着かない紳士』の債権者の一人だ。レストレード警部がすでに拘束している」


「ガス管を蹴倒したのは故意だったのか」


「放火未遂だ。追い詰められた人間がやることというのは、いつも単純で、だからこそ危険だ」


ホームズはプログラムを膝に置き、私を見た。


「ワトソン、日本の銭湯というものを知っているか」


「少しは。公衆浴場のようなものだろう」


「その二階が、なかなか興味深い社交の場として機能していたらしい。身分の垣根を取り払った、素の人間が集まる場所だ」と彼は言った。「会員制の倶楽部より、よほど人間の本質が見えそうではないか」


「君は会員制の倶楽部より銭湯の二階を好むというのか」


「観察の対象として、という意味だ」とホームズはすげなく言った。「素の人間こそ、最も多くを語る。格式の場では人は仮面をつける。しかし湯上がりの気の緩んだ状態では——」


「真実が出る」と私は引き取った。


「その通り」とホームズは満足そうに頷いた。「ワトソン、観察の基本はそこだ。人が最も無防備な瞬間を逃さないこと」


窓の外に、ロンドンの夜が深まっていた。遠くでどこかの倶楽部の扉が開いて、笑い声が漏れてきた。


人が集まる場所には、必ず人のごうが滲み出る。ロンドンだろうと江戸だろうと、それは変わらない——と、私はあの湯屋の二階を思い出しながら、ひそかに思った。




******




本作は、アーサー・コナン・ドイル著『シャーロック・ホームズの冒険』および岡本綺堂著『半七捕物帳』への敬意と感謝を込めて執筆しています。




著:コナン・綺堂異流(Conan Kidoyle)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ