第三話:最後の舞台の冒険 〜 The Adventure of the Final Performance 〜
一部AIにより作成
【冒頭:ロンドン時代】
一八九三年の晩秋、私たちはヴィクトリア女王陛下の治世においても特に賑わいを見せるロンドンの劇場街、ウェスト・エンドへ出かけていた。
ホームズが珍しく自分から誘ってきたのだった。
「シェイクスピアの『ハムレット』だ、ワトソン。今夜の舞台には特別な仕掛けがある——といっても劇の仕掛けではない。私が興味を持っているのは、主役を演じる俳優の衣装だ」
「衣装?」
「昨日の公演の終了後、楽屋で盗難騒ぎがあった。私はレストレード警部から非公式に相談を受けている。犯人を特定するために、今夜の公演中の俳優たちの行動を観察する必要がある」
なるほど、純粋に芝居を楽しむためではなかったか、と私は苦笑した。
劇場はコヴェント・ガーデンに程近い古い建物で、満席のガス灯の明かりの下に、美しく着飾った紳士淑女たちが集まっていた。ホームズは前から五列目の真ん中あたりに腰を落ち着け、舞台と、両端の袖幕、そして客席の一角を等分に視野に収める絶妙の角度で双眼鏡を構えた。
「第三幕第四場に注目してくれ」と彼は囁いた。「ハムレットが剣を抜く場面だ」
「なぜそこが?」
「劇中で使われる剣が、今夜は二本用意されている。そのうち一本は本物の鉄製だ」
私は思わず双眼鏡を下ろした。「それは危険では?」
「だから観察しているのだ」
しかし、事態はホームズの予測を超えた展開を見せた。第三幕が始まった直後、舞台の袖から突然、黒煙が立ち上った。誰かが火を放ったのだ。
「ワトソン、左の非常口から——」
ホームズの声が、轟音の中に消えた。
劇場の天井から非常用の散水装置が作動し、滝のような水が降り注いだ。私はホームズの袖をつかんで非常口へ向かったが、押し寄せる群衆に揉まれ、階段を踏み外した。
暗闇の中を、落ちていった。
そして——またあの世界が始まった。
******
【本編:江戸での事件】
——和登三太の語り——
今回の転生は、私にとって最も劇的な幕開けとなった。
気づけば私は、板張りの床の上にうつぶせに倒れていた。顔を上げると、そこは広い空間で、正面に高さ一間(いちけん——約一・八メートル)ほどの木の舞台がある。舞台の上には幕が下りていて、裏方と思しき男たちが慌ただしく行き来している。
私はそこが芝居小屋であることをすぐに理解した。
江戸の芝居小屋——ロンドンのシアターに相当するが、作りは全く異なる。石造りではなく木造で、屋根の一部に天窓があって昼の光を取り入れる。客席は「桟敷」と呼ばれる畳敷きの区画と、土間と呼ばれる板張りの平場に分かれている。桟敷は格式が高く、土間はより庶民的な席だ。ロンドンのギャラリー席とピット席の関係に似ていなくもない。
「三太、起きろ」
捕霧七が隣で立ち上がりながら言った。彼はすでに周囲を観察し終えたような顔をしていた。
「ここは……素人芝居の小屋か」と彼は言った。「見ろ、あの舞台の装置を。あれは歌舞伎の仕掛けだ。しかしプロの座——一座——の規模ではない。裏方の技量も、本職には程遠い」
なるほど、彼の言う通りだった。舞台の幕は所々ほつれていたし、裏方の動きもどこかぎこちない。
その時、舞台の奥から、慌てた様子の男が飛び出してきた。
「誰かいないか! 医者を——医者を呼んでくれ!」
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私たちが舞台の裏手へ回ると、そこには修羅場が広がっていた。
板張りの楽屋の床に、若い男が横たわっている。着物の腹のあたりが赤く染まっており、傍らには一本の刀が転がっていた。
私の医師としての本能が動いた。私はすぐに傍らに跪き、傷の状態を確かめた。
「浅くはない。しかし急所は外れている。今すぐ手当てすれば——」
「三太、手当てを頼む」と捕霧七は静かに言い、自分は刀を拾い上げた——いや、拾い上げようとして、立ち止まった。「触れるな、と言いたいところだが、もう何人も触っているようだな」
周囲に集まった裏方たちが、うろたえた顔で立ち尽くしている。
「何があったか、順番に話してくれ」と捕霧七は言った。
口を開いたのは、五十がらみの、芸人らしい化粧の跡が顔に残った男だった。
「今夜は、この浜屋が主催する素人芝居でございまして——演目は忠臣蔵の六段目。あの倒れているのが、浜屋の若旦那の角太郎様で……早野勘平の役を……」
「忠臣蔵の六段目」と私は繰り返した。
忠臣蔵というのは、江戸時代を代表する演劇の演目で、元禄時代(十七世紀末)の赤穂藩の家臣たちが、主君の仇を討った実話を基にした物語である。ロンドンで言えばシェイクスピアの史劇——ヘンリー四世やリチャード三世——に相当するほどの知名度を持ち、江戸の人々にとって歌舞伎といえばまず忠臣蔵、というほどの人気演目だ。
六段目は「勘平腹切の場」と呼ばれる場面で、早野勘平という武士が切腹する悲劇的な名場面である。
「舞台用の刀というのは、普通どういうものを使うのか」と捕霧七が問いかけた。
「竹光でございます」と男は答えた。「竹を削って刀の形にしたものに、銀紙を貼って刀に見せかけたものでございます。芝居で実際に切腹の場面を演じるといっても、腹を押しあてるだけで、切ったりはしません。だから竹光で充分なのです」
「しかし今夜は違った」
男は蒼白になって頷いた。「……気づいたのは、倒れてからでございます。竹光のはずが、本身の刀——つまり本物の刃のついた刀に、いつのまにか……」
捕霧七の目が光った。
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まず江戸の貨幣制度について一言触れておかなければなるまい。
この事件は「浜屋」という商家が主催した素人芝居であったが、浜屋というのは京橋付近で呉服——絹織物の着物——を商う大店である。江戸の商家には、店の格に応じた貨幣の扱いがあり、金、銀、銭の三種類が使われる。一両の金貨は四分、一分は四朱、さらに千文の銭と交換できる。ロンドンのポンド・シリング・ペンス制と同様に複雑な換算が必要で、私もいまだに完全には把握できていない。
浜屋のような大店の主催する素人芝居は、江戸の豊かな商家文化の一つだった。富裕な商人たちが自分たちで役者となり、本式の舞台装置を用意して演じる——これはロンドンでアマチュア劇団が公演を打つのと似た感覚だが、江戸では歌舞伎の人気が圧倒的に高いため、素人芝居もほぼ歌舞伎の演目に倣う。
「浜屋の若旦那は、角太郎と申されますね」と捕霧七は続けた。「角太郎さんは日頃から芝居好きで」
「はい、大変な芝居道楽でございまして。今夜の忠臣蔵も、何ヶ月も前から稽古をされておりました」
「他に配役は誰がいる」
「常磐津の師匠の文字清様が三味線と浄瑠璃を担当し、他の役は浜屋の奉公人たちが……」
「文字清というのは?」
「はい、京橋界隈では知られた常磐津の師匠で……角太郎様も長年、その師匠に稽古を付けていただいていたようで……」
捕霧七は少し眉を寄せた。
私も傍で聞きながら、気になることがあった。
「文字清師匠は、今どこに?」と私は訊いた。
「それが……今の混乱で、いつの間にか姿が……」
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角太郎の傷の手当てをしながら、私は考えていた。
本身の刀というのは、普通の商家に転がっているものではない。江戸では、武士以外の者が刀を持つことは原則として禁じられている——これは日本の身分制度の根幹に関わることで、武士と町人とでは、所持できる武器が明確に違う。町人が刀を持つには特別な許可が必要だ。ロンドンで一般市民が軍用銃を持つことが禁じられているのに似ているが、江戸の場合はより厳格である。
では、この本身の刀はどこから来たのか。
「捕霧七さん」と私は傷の手当てをしながら小声で言った。「刀を調べてくれ」
「すでに調べた」と彼は言った。「古い刀だ。しかし磨かれている。最近まで誰かが手入れをしていた証拠だ。そして——」彼は刀の柄のあたりを指さした。「この柄の巻き方——武士の刀の巻き方とは少し違う。これは芝居道具屋の扱う刀の巻き方だ」
「つまり、芝居道具の刀を誰かが本物の刃に取り替えた?」
「あるいは、芝居道具屋から最初から本物を入手した。どちらにせよ、これは偶然ではない。誰かが意図的にやった」
「動機は?」
捕霧七は少し間を置いた。
「まだわからない。しかし文字清師匠の話を聞く必要がある」
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文字清が見つかったのは、舞台裏からやや離れた小部屋——楽屋の奥の物置を兼ねた小さな部屋——だった。
四十を過ぎたかと思われる女性で、常磐津の師匠らしく帯を高く締め、髪を綺麗に結い上げていたが、今は顔が蒼白で、膝の上に置いた両手が微かに震えていた。
常磐津というのは、歌舞伎の伴奏音楽の一つで、三味線と浄瑠璃——語りと歌を合わせた芸——を組み合わせた様式である。三味線は、猫の皮や犬の皮を張った箱形の胴に三本の弦を張った楽器で、ロンドンのバンジョーに幾分似ているが、音色はより繊細で哀愁がある。浄瑠璃は人形浄瑠璃——後に「文楽」と呼ばれる人形芝居——から発展した語り芸で、その詞章(しかし、ことば)は複雑な節回しで語られる。
「文字清師匠」と捕霧七は静かに言った。「角太郎さんのことを、どう思っておられましたか」
女の目が揺れた。
「……大切な弟子でございます」
「それだけですか」
沈黙。
「文字清師匠、今夜の竹光と本身の刀の入れ替わりについて、何かご存知ではないですか」
「……知りません」
捕霧七はそれ以上は問わなかった。ただ静かに、女の顔を見ていた。ロンドン時代のホームズが、依頼人の真実を引き出す時の、あの無言の圧力——それとまったく同じ目だった。
文字清はやがて、静かに口を開いた。
「……角太郎は、実は私の子でございます」
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話は複雑だった。
二十年以上前のこと——まだ文字清が若い師匠見習いだった頃、浜屋の先代の主人と深い仲になった。しかし先代には正妻がいた。文字清は子を身籠ったまま別れざるを得なかったが、先代は生まれてくる子を引き取り、自分の跡継ぎとして育てると約束した。それが角太郎だった。
「私は……二十年以上、陰から見守ってきただけでございます。師匠と弟子として、顔を合わせることだけが、せめてもの……」
「では、なぜ今夜のような事が起きたのか」と捕霧七は言った。「角太郎さんを傷つけることに、あなたは利益がない。むしろ誰よりも傷ついたはずだ」
「…………」
「文字清師匠、今の浜屋の女将と角太郎さんの関係は、どうなっておりますか」
女の肩が、わずかに強張った。
「……仲はよくないと聞いております」
「先代が亡くなったのはいつのことか」
「三年前でございます」
「先代が亡くなった後、浜屋の家督は角太郎さんが継いだ。今の女将は……?」
「先代の後妻でございます。角太郎とは血がつながっておりません。年もさほど離れていない……」
捕霧七は立ち上がった。
「わかりました」と彼は言い、今度は私を振り返った。「三太、今の浜屋の女将に会いたい」
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浜屋の女将、お澄は、四十前後の、顔立ちの整った女だった。
私が最初に気づいたのは、その着物だった。紺地に白い格子縞の、上品な小紋を着ていたが、右の袖口が微かに汚れていた。油汚れのような、黄みがかった染みだ。
捕霧七もそれを見ていた。私にはわかった——彼が何かを確信した時の、目の細め方。
「女将さん、今夜の素人芝居の準備は、いつ頃からなさっていましたか」と捕霧七は訊いた。
「半年ほど前から」とお澄は答えた。「角太郎が熱心に言うものですから、仕方なく」
「舞台道具の管理は?」
「それは道具方に任せておりました」
「竹光の管理も?」
「……そうです」
「竹光は、普段どこに保管されていましたか」
「道具蔵に」
「道具蔵の鍵を持っているのは誰ですか」
「道具方の源七と……私です」
お澄はそこで初めて、表情に何かが走った。ほんの一瞬の、しかし確かな動揺だった。
「女将さん」と捕霧七は静かに言った。「あなたの袖口の汚れは、鬢付け油——芝居の化粧に使う油——の染みではないですね。刀の手入れに使う油——椿油の染みです。手入れした刀を、布で拭った時についた跡だ」
場が静まり返った。
お澄は何も言わなかった。
「芝居道具の竹光の代わりに、本物の刀を置いておく——それには刀の手入れが必要です。錆びた刀では、舞台で使った時に怪しまれる。あなたは丁寧に刀を磨き、鞘に収め、道具蔵の竹光と入れ替えた」と捕霧七は続けた。「動機は、家督でしょう。角太郎さんが亡くなれば、浜屋は血縁のない後妻であるあなたのものにはならない——しかし先代の遺言書の内容次第では、あるいは……」
「証拠があるのですか」
「袖口の油の染みと、道具蔵の鍵を持っていたこと。それに——」捕霧七はここで、懐から何かを取り出した。「竹光が入っていた布袋の内側に、椿油の跡があります。あなたが刀を入れ替えた際に、油のついた手で袋を触ったのでしょう。三太、北町奉行所への届けは、私が担当の同心に話をします」
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お澄はその夜、北町奉行所の役人に引き渡された。
角太郎の傷は深かったが、私の手当てが功を奏し、命は取り留めた。その後、数ヶ月の養生の末に回復したと聞いた。
忠臣蔵の六段目——勘平の切腹の場——は、舞台の上の演技として何千回と繰り返されてきた。勘平という武士が、誤解から自分の罪を信じ込み、腹を切る。その悲劇の名場面が、現実の犯罪の道具に使われた——この皮肉を、捕霧七はどう見ていたか。
「三太」と彼は帰り道に言った。「芝居というのは、人間の業を舞台に写し取ったものだ」
「業、とは?」
「人間が逃れられない、執着や欲望や怨念のことだ。勘平は誤解から自分を責め、切腹する。お澄は金と地位への執着から、人を殺めようとした。どちらも舞台と現実の話だが、根本は変わらない」
「ホームズ……いや、捕霧七さん、あなたは忠臣蔵という話を、面白いと思うか?」
彼は少し間を置いて、
「人間心理の緻密な描写という点では、興味深い」と言った。「しかし、誤解を解こうとせずに死を選ぶ勘平は、私には理解しがたい。証拠を集めて、真実を明らかにするべきだった」
「それがあなたらしい」と私は笑った。
「探偵が芝居に登場しないのは、おそらくそのためだ」と彼は、一切表情を変えずに言った。「探偵が早い段階で動けば、ほとんどの悲劇は喜劇で終わる」
京橋の夜風が、私たちの着物の裾を揺らして通り過ぎた。
どこかの芝居小屋から、三味線の音が聞こえてきた。悲しみと愉しみが混じり合った、あの独特の音色が、夜の江戸の空気に溶けていった。
文字清師匠のことを、私は思い出した。二十年以上、「師匠と弟子」としてしか近づけなかった母と息子——その関係を、事件は壊さなかった。角太郎が回復したという報告と同じ日、文字清が初めて角太郎の病床を訪れたと、後に新助が教えてくれた。
すべての真実が明らかになる時、人は救われる場合もあれば、傷つく場合もある。しかし明らかにしないままでいることが、最も深い傷を残す——と、その日の私は思った。
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【結末:ロンドン時代】
気づくと、私はベイカー街の居間にいた。
窓の外の霧の中に、コヴェント・ガーデン劇場のガス灯がぼんやりと見えていた。あの夜の火事の跡が、夢のように遠かった。
「ホームズ」と私は言った。「ハムレットの舞台は、一体どうなったのだろう」
「犯人はすでにレストレード警部が拘束している」とホームズは言った。暖炉の前で、バイオリンの弦を一本ずつ調律しながら。「楽屋の盗難は、俳優の一人による内部の犯行だった。そしてワトソン、私は今夜の件でひとつ確信を持った」
「何を?」
「舞台というものは、犯罪者にとって都合の良い隠れ蓑になりうる」ホームズはそこでバイオリンを下ろし、私を見た。「芝居の最中の混乱、道具の行き来、照明の暗さ——こうした条件が揃えば、観客のみならず、俳優たちでさえ目の前の異変に気づかない。見せることに慣れた場所では、隠すことが最も容易だ」
「それは名言だ」と私は言った。
「ワトソン」とホームズは続けた。「日本に、忠臣蔵という演劇があるのを知っているか」
私は少し驚いた。「知っている、と言えなくもないが……どこでそれを?」
「先日、大英博物館の東洋部に行った時に、解説書を読んだ。そこに出てくる早野勘平という武士が面白い。証拠を持たないまま、思い込みで自分を断罪し、切腹してしまう」
「探偵が早い段階で動けば、悲劇にならなかった、と?」
ホームズはわずかに口の端を上げた。
「まったくもって、その通りだ」
窓の外で、霧が深くなっていた。テムズの方から汽笛が聞こえ、コヴェント・ガーデンのどこかで、夜の公演が終わった劇場から、人々の声が流れてきた。
芝居が終わった後の、あの独特の余韻——虚構の世界から現実へ、人が引き戻される瞬間の静けさ——が、霧の中に漂っていた。
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本作は、アーサー・コナン・ドイル著『シャーロック・ホームズの冒険』および岡本綺堂著『半七捕物帳』への敬意と感謝を込めて執筆しています。
著:コナン・綺堂異流(Conan Kidoyle)




