第三十四話:雷獣と蛇の符牒 〜 The Sign of the Thunder-Beast and the Serpent 〜
一部AIにより作成
【冒頭:ロンドン時代】
一八九三年、七月の夕刻のことである。
ベイカー街二百二十一番地Bの窓ガラスを、烈しい雨が叩きつけていた。テムズの上空から流れ込んだ積乱雲が、ロンドン全体を暗褐色の底に沈めて、居間の暖炉の明かりだけが、かろうじて人の世の温もりを守っていた。
シャーロック・ホームズは窓辺に立ち、雨脚の向こうに光る稲妻を、腕を組んで眺めていた。その目には、珍しく子どものような輝きがあった。
「ワトソン」と、彼は言った。「雷鳴が轟くとき、人はなぜ怖れるのだと思うかね」
私は医師の日誌から顔を上げた。「音が突然で大きいからだろう。本能的な反応だ」
「凡庸な答えだ」ホームズは振り向かずに言った。「しかし的外れでもない。だが本質は別にある。人間が雷を怖れるのは、稲妻が理屈なく、予告なく、どこへでも落ちるからだ。制御できぬものへの恐怖——それが雷神話をあらゆる文明に生み出した。日本では雷を『雷神』と呼んで太鼓を持った鬼に描くそうだ。ギリシャでは全能のゼウスの武器とした。どちらも、説明できぬものに顔と物語を与えようとした人間の、同じ衝動から来ている」
「君はずいぶん雷神話に詳しいね」
「今朝、大英博物館で日本の錦絵を見てきた」ホームズはようやく振り向いた。「江戸時代の版画だ。実に奇妙で、実に正直な絵だと思った。人々が怖れるものを、そのまま怪物の姿に変えて描いている。説明より、恐怖の形を先に与える——それは科学よりも、ある意味で誠実だ」
その瞬間、稲妻が走った。
窓ガラスが白く光り、一拍おいて地響きのような雷鳴が轟いた。ホームズは身じろぎもしなかったが、私は思わず椅子から立ち上がった。
「座りたまえ、ワトソン」ホームズは涼しい顔で言った。「雷は怖くない。問題は——」
次の瞬間、それは起こった。
稲妻が、ベイカー街の対面の煙突に直撃したのだ。爆発に似た轟音とともにレンガが飛び散り、炎が上がった。衝撃波が窓ガラスを内側から押し破り、ホームズと私は部屋の中へ吹き飛ばされた。
暗闇の中に落ちていきながら、私は奇妙なことを思った。
——雷神話を話していたところで、雷に打たれるとは。
そして気が付くと、私はどこか別の場所にいた。
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【本編:江戸での事件】
——和登三太の語り——
最初に感じたのは、激しい雨の匂いだった。
ロンドンの雨とは違う。あちらは石畳と馬糞と煤煙が混じり合う、重く湿った匂いだが、こちらは——土と草と木の匂いが、雨粒とともにどっと押し寄せてくる、むしろ清冽な香りだった。
私は、軒下に横たわっていた。
頭を持ち上げると、見慣れた江戸の風景が広がっていた。板葺きの軒。泥の路地に落ちる雨粒の波紋。向かいの長屋の壁に、蔓草が這い上がっている。
「三太」
傍らに、捕霧七が座っていた。今日は紺地の着物に黒の羽織をはおり、煙管を指でくるくると回しながら、雨雲の切れ目を見上げていた。雨はちょうど小降りになり始めたところだった。
「今日の転生は」と私は言った。「雷でしたね」
「稲妻に誘われて、江戸に来たというわけだ」捕霧七はわずかに頷いた。「悪くない趣向だ。問題は——この江戸でも、どうやら雷に関わる奇妙な一件が待っているらしい」
その言葉が終わらぬうちに、路地の向こうから足音が近づいてきた。
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足音の主は、近所の表具師——障子や襖、掛け軸などを仕立て直す職人——の息子で、辰次という二十歳前後の若者だった。父親が重病で、兄の辰吉のことを相談したいという。
表具師というのは、日本の建具に欠かせない職人である。ロンドンで言えばインテリア職人と建具屋を兼ねたような存在で、武家屋敷から寺院、裕福な町人の家まで、内装を整える仕事を担う。紙と糊と布を扱う繊細な仕事であり、腕のよい職人は重宝された。
私と捕霧七が長屋の中に辰次を招き入れると、若者は畳の上に正座して、少し恥ずかしそうに話し始めた。
「兄の辰吉が、どうも様子がおかしいのでございます。この三日ほど前、雷雨の夜に近所の空き地へ出かけて行って——雷獣を見た、と申しまして」
「雷獣とは」と私は訊いた。
捕霧七が代わりに答えた。「江戸の人々が信じる妖怪だ。雷が落ちる際、雷神の使いとして地に降りてくる獣の類とされている。姿は様々に伝えられるが——たぬきに似た体に、鉤爪があるとも、鼬に似るとも言われる。雷の落ちた場所に奇妙な傷跡や爪痕が残っているのを、人々はその証拠だと言う」
外国人の私には、雷獣とは古代ローマのユピテルの鷲のようなものだと理解するのがいちばん近かった。稲妻に付随する神聖な生き物——あるいは怪物——という概念は、洋の東西を問わず存在するらしい。
「兄は雷獣を見て、腰が抜けて動けなくなったとか。翌朝、気を取り直して帰ってきたのですが、それから妙に塞ぎ込んでいて、夜になると怯えて眠れないと申しております。それだけならまだしも——」
辰次は一瞬、言いよどんだ。
「兄の部屋に、蛇が出るようになったのです」
捕霧七の手が、煙管を回すのをやめた。
「蛇が?」
「毎晩ではございません。しかし雷の夜に限って、布団の中や、押し入れ(おしいれ)の隅に、青大将が入り込んでいるのです。兄はすっかり怯えておりまして——雷獣に祟られているんだと思い込んでおります」
捕霧七は三太と目を合わせた。
私には、彼の目が何かを掴んだときの微かな輝きが見えた。ロンドン時代から変わらぬ、その光だった。
「辰次さん」と捕霧七は穏やかに言った。「お兄さんが雷の夜に行った空き地というのは、どのあたりにございますか」
「本所の、廃屋になった油問屋の跡地でございます」
「油問屋の跡地。なるほど」捕霧七は煙管をまた指でくるくると回し始めた。「現場を見に行く必要がある。それから——お兄さんのお部屋も、拝見したい」
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本所というのは、隅田川の東側に広がる地区で、江戸の東の外れにあたる。ロンドンで言えばテムズの南岸のサザーク、あるいはサウスウォークに相当する——川を隔てた、少し猥雑で生活の匂いが濃い地域だ。
ただしロンドンのテムズと違い、隅田川は橋が整備されており、両国橋や永代橋などが東西を繋いでいる。私たちは両国橋を渡って本所へ向かった。
橋の上から見る川面は、昨夜の雨を吸って濁り、黄土色の流れが轟々と音を立てていた。川岸には荷を積んだ小舟が繋がれ、船頭が棹を操りながら行き交っている。江戸の物流の多くは、こうした水路によって支えられていた。ロンドンのテムズが産業と貿易の大動脈であったように、江戸の川もまた、都市の血管だった。
廃屋の空き地は、本所の古い町並みの奥にあった。
かつて油問屋——菜種油や灯明用の油を売り買いする商人の店——があった場所らしく、敷地の隅に傷んだ蔵が一棟残っていた。周囲は背の高い草が茂り、昨夜の雨を含んでまだしっとりと濡れている。
捕霧七は空き地の入り口で立ち止まり、地面をじっくりと見回した。
「三太、これを見ろ」
彼が指さしたのは、草の根元に残った、奇妙な痕跡だった。泥の上に、何かが引きずられたような跡が、入り組んで残っている。加えて——確かに、土が盛り上がったような、浅いくぼみが不規則に点在していた。
「爪痕に見えなくもない」と私は言った。
「見えなくもない、というのが鍵だ」と捕霧七は言った。「雷獣の爪痕と言われれば、そう見える。しかし——」彼は屈み込んで、手で土を少し払った。「このくぼみは規則的すぎる。等間隔に近い。本物の獣が歩いた跡ではない」
「では何の跡なのですか」と辰次が訊いた。
「それはまだわからない」捕霧七はすっと立ち上がった。「次は蔵の中を見せてもらおう」
廃蔵の中は薄暗く、黴と油の古い匂いが染み込んでいた。
捕霧七は蔵の隅々を丁寧に調べた。床板の継ぎ目、壁の割れ目、天井の梁——ひとつひとつを指で触れ、鼻で嗅ぎ、目で確かめる。その様子を見ていると、私はロンドン時代のホームズを思い出さずにいられなかった。犯罪現場の絨毯に膝をついて、虫眼鏡で繊維一本を確認するあの男と、まるで同じ動作だった。
やがて捕霧七は蔵の奥の壁際で、足を止めた。
「ここだ」
壁の板と板の隙間に、細い溝があった。捕霧七は懐から細い木べらを取り出して隙間に差し込むと、板がわずかに動いた。
「隠し戸だ」
板を外すと、その奥に人ひとりがやっと通れる狭い通路があった。中は土間になっており、奥へ続いている。捕霧七はためらいなく進んだ。私もその後に続いた。
通路の奥には、小さな地下の空間があった。そこに積み上げられていたのは——油を入れた陶製の壺が数十個、丁寧に並べてあった。
「油だ」と私は言った。「かなりの量だ」
「上物の菜種油だ」捕霧七は蓋を一つ開けて確かめた。「これは隠し荷だ。正規の取引では流せない——おそらく抜け荷だろう」
抜け荷というのは、幕府や問屋仲間の統制をすり抜けた密売品のことである。江戸では油をはじめ様々な物品の売買が仲間制度によって管理されており、許可なく取引すれば厳しく罰せられる。ロンドンで言えば密輸品に相当する。
「つまり」と私は言った。「この廃屋は、密売の倉庫として使われていた」
「そして辰吉という男は、それを偶然見てしまった」捕霧七はゆっくりと立ち上がった。「雷雨の夜に、空き地をうろついて」
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辰次の家は本所から少し離れた横町にあった。
表具師の家らしく、土間には糊の道具や裂——布の端切れ——が整然と並んでいた。父親は奥で病に伏しており、辰吉は私たちを見て、最初は警戒した目をしたが、弟の辰次が説明すると、渋々ながら話してくれた。
辰吉は三十手前の、がっちりした体つきの男だった。しかし今は顔色が悪く、目の下に深い隈があった。
「あの夜は、表具に使う紙を乾かすために夜更けまで働いておりまして——酔い覚ましに少し外に出ましたら、本所の空き地のあたりで、大きな光が走るのを見ました。雷が落ちたのです。地面に火花が散って——そのあと、草の中に何かが動くのを見た気がしました。黒くて、体の大きな、獣のような——」
「その獣の具体的な形は、見えましたか」と捕霧七は訊いた。
「暗くて、はっきりとは。ただ、草をかき分けながら動いていくのが——」辰吉は身震いした。「雷獣に違いないと思いました」
「蛇が出始めたのは、その翌日からですか」
「そうです。布団の中に青大将が入っていて……あれには本当に驚きました。翌朝また、押し入れに。お祓い(おはらい)をしてもらいましたが、変わりがなくて——」
捕霧七は部屋の中を見回した。そして——ロンドン時代のホームズがよくやったように——家の中の些細な点を次々と確認し始めた。
床板の隙間。窓枠の歪み。壁の染み。天井の梁の陰。
「三太、蛇というものは何を嫌うか、知っているか」
「硫黄、だったかな」
「正解だ。しかし何を好むかも知っておくべきだ。蛇は温かく暗い場所を好む。そして——油の匂いに引き寄せられることがある」
私は、はっとした。
「油問屋の跡地の油! あの廃蔵に、蛇が棲みついていた」
「そして辰吉さんが偶然あの場所を見てしまった翌日から、部屋に蛇が現れた」捕霧七は静かに言った。「これは偶然ではない。誰かが意図的に、辰吉さんの部屋に蛇を入れているのだ」
辰吉の顔が青くなった。
「な……なぜそのようなことを」
「あなたを怖がらせて、口をふさぐためだ」捕霧七は穏やかに、しかし明確に言った。「あなたが雷の夜に見た『獣』は、雷獣ではない。あの廃蔵を使っている密売人が、荷を動かしていたのを、偶然目撃したのです。そしてその男は、あなたが誰かに話すことを怖れて、蛇を使って脅している」
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「では雷獣の爪痕は」と私は訊いた。
「人が作ったものだ」捕霧七は淡々と答えた。「あの痕跡は等間隔すぎる。棒か何かで規則的に地面を突いた跡だ。辰吉さんが雷の夜に草の中で見た動く影——あれは荷を運ぶ人間だったのを、暗さと雷の衝撃で、獣のように見間違えたのだ。そして密売人は、辰吉さんが誰かに話す前に、あの男を怯えさせることにした。雷獣に祟られたと思い込ませれば、誰にも言えなくなる——江戸の人々が雷獣をいかに恐れるかを、その男はよく知っていたのだ」
辰次が、声を絞り出すように言った。「では、蛇を入れたのは……」
「廃蔵の近くに住む者だろう。油の匂いに慣れた蛇を飼っているか、棲み場所を知っている者だ。そして——こちらの家の作りを知っている者でもある。青大将は普通、人の住まいに自然には入り込まない。誰かが運んで、床下や戸の隙間から入れているのだ」
私は改めて部屋の床板を見た。角の一枚が、わずかにずれていた。人が意図的に動かした跡のように見えた。
捕霧七はそれを指先で確かめ、鼻を近づけた。
「ここから入れている。そして——この床板の木の繊維に付着した土の色が、本所の廃蔵周辺の赤土と一致する」
「まるで土の色まで覚えているようですね」と私は思わず言った。
「覚えていない。今確認した」捕霧七は涼しい顔で答えた。「廃蔵の前で靴底についた赤土を、帰り際に指で確かめておいたのだ。三太、観察というのは現場を離れた後でも続けるものだ。君はロンドンにいたころから、それが少し足りない」
——何一つ変わっていない、とその時思った。江戸の岡っ引きになっても、この男の根本的な姿勢は、まったくロンドンのままだった。
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その夜、私と捕霧七は、廃蔵の近くに身を潜めた。
夜の本所は静かだった。遠くで犬が吠え、隅田川のどこかで船頭が竿を打つ水音がする。江戸の夜は暗い。街灯というものがないため、月のない夜は本当の暗闇になる。提灯と呼ばれる和紙を張った折り畳み式の灯り籠を持ち歩く習慣があるが、それも一人一個では心もとない。
ロンドンのガス灯が並ぶ夜道と比べると、江戸の夜は別の種類の暗さだ——人工の光が一切なく、目が慣れれば星と月だけが頼りになる、ある意味で清冽な暗闇。
三刻ほど待った頃——午前二時前後だろうか——廃蔵の方で物音がした。
影が一つ、草の中を這うように動いていた。
捕霧七は私に目配せをして、音もなく立ち上がった。
影は廃蔵の裏手に回り込み、例の隠し板を動かし始めた。その瞬間、捕霧七が間合いに踏み込んだ。
「そこで止まれ」
鋭い声と同時に、十手が男の腕をがっちりと押さえた。
男はもがいたが、捕霧七の力は見かけによらず強い。私も加勢して、男の体を押さえた。
「放せ、放せ! 何をする!」
「静かにしろ」捕霧七は低く言った。「大声を出せば、もっと多くの人を集めることになるだけだ。それはお前の仲間のためにならない」
男はぴたりと動きを止めた。
提灯で顔を照らすと——四十がらみの、日焼けした顔の男だった。本所の油商人の手代——番頭より格下の商家の使用人——と後で判明したが、この男が廃蔵の抜け荷を仕切っていた黒幕だった。辰吉の部屋に蛇を忍び込ませていたのも、この男である。
男の持ち物を改めると、懐に布袋があり、中には青大将が一匹、大人しく丸まっていた。
「これが今夜の使者か」と捕霧七は静かに言った。「雷獣の芝居も、今夜でおしまいだ」
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この一件は、翌朝、担当の同心に引き渡した。
男は取り調べの末、抜け荷の一味と蛇による脅迫の両方を認めた。仲間の名も割れ、廃蔵の油はすべて没収された。辰吉は証人として奉行所に呼ばれたが、無事に解放された。父親の病は重いが、これで兄弟が心置きなく看病に専念できる。
辰次が礼に来たとき、彼は深々と頭を下げて言った。
「雷獣の祟りだと思っておりました。まさか人間の仕業だったとは……」
「雷獣はいないと言い切ることはできない」と捕霧七は言った。「しかし今回に限っては、雷獣より悪い生き物が動いていた。人間という生き物だ。人は雷を怖れるが、人が一番怖ろしい——それは洋の東西を問わぬ、普遍の真理だと私は思っている」
辰次が帰ったあと、私は捕霧七に向かって言った。
「あの爪痕が人工のものだと、現場で最初から気づいていたのですか」
「気づいていた」と彼はあっさり答えた。「等間隔の爪痕などというものは、ありえない。獣の歩幅は一定ではない。加えて——あの廃地の土は赤く、菜種油の臭いがかすかにあった。かつて油を扱う場所だったことが、一目でわかった。そこから逆算すれば、後は一本道だ」
「ではなぜすぐにそう言わなかった」
「証拠を確かめるためだ」捕霧七は煙管をくゆらせた。「私が『雷獣ではない』と言えば、辰吉という男は安心するだろう。しかし密売人はまた別の手を打つかもしれない。現場を押さえなければ、本当の解決にはならない」
私は少し間を置いて、言った。
「……実に、ホームズ的な判断です」
捕霧七は一瞬、不思議そうな顔をした。そして小さく笑った。
「ホームズとは誰だ、三太」
「——いや、なんでもありません」
その夜、私たちは長屋の縁側に並んで、夏の夜空を見上げた。
雨上がりの江戸の空には、雲の切れ目から、大きな夏の星が光っていた。遠く、川の方で蛙が鳴いていた。江戸の夏の夜は、虫と水の音に満ちている。ロンドンの夜のような機械の音も、馬車の響きも、酔客の怒鳴り声もない。
「三太」と捕霧七は言った。「雷獣の話には、後日談がある」
「後日談、とは」
「雷獣という伝説が各地に残るのは、実際に落雷の現場で何か奇妙なものを見た人間がいたからだ。江戸時代の人々は嘘をついているわけではない——彼らは本当に、何かを見た。あるいは錯覚した。その錯覚を、怪物という名で定着させた。だがその怪物には、たいていの場合、正体がある。今回のように、人間が意図的に作り出したものか、あるいは——落雷によって本当に生じた自然現象を、人が説明できなかったかのどちらかだ」
「どちらが多いのでしょう」
「世の中では、前者が多い」捕霧七は静かに言った。「怪物を使って誰かを操ろうとする者が、怪物そのものより多い。それは江戸でも、ロンドンでも、同じことだろう」
星がひとつ、流れた。
江戸の夏の夜は長く、虫の声は尽きることがなかった。
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【結末:ロンドン時代】
気づくと、私はベイカー街の居間にいた。
窓の外には、もう雨がなかった。嵐は過ぎ去り、ロンドンの空に雲の切れ目が広がっていた。ガス灯の光が街を柔らかく包んでいた。
ホームズは暖炉の脇の肘掛け椅子に座り、すでに落ち着き払った様子で煙草を吸っていた。向かいの煙突は、先刻の落雷で頭部が吹き飛んでいたが、彼はそれを面白そうに眺めていた。
「ワトソン」と彼は言った。「またあの江戸の夢を見た」
「私もだ」と私は答えた。「今度は雷が縁で転生したようだったね」
「雷獣の話だ」ホームズは口の端を上げた。「江戸時代の日本人が、雷の落ちた場所に怪物が降りてくると信じていた。実に興味深い」
「今回の一件では、その怪物伝説を使った人間の悪だくみだった」
「人が怪物を恐れるとき、怪物よりも人間を恐れるべきだ——という教訓か」ホームズは煙草の煙を吐き出した。「もっとも、その教訓は今日の現場にも当てはまる。あの煙突に雷が落ちたのは自然の力だが、われわれを窓から吹き飛ばしたのは——物理の法則という、目に見えぬ怪物だ」
「それは詩的すぎる解釈だ」と私は言った。
「詩と科学は、究極では同じものを目指している」ホームズはバイオリンを手に取り、低い弦をゆっくりと鳴らした。「ワトソン、江戸の夏の虫の音を、君は覚えているか」
「覚えている」
「私も、あの音を使ってみようと思う」
彼はそのまま、ゆるやかな旋律を弾き始めた。
バイオリンの音が、嵐の去ったベイカー街の夜に溶けていった。私は椅子の背に身を預けて、目を閉じた。
江戸の縁側で聞いた、遠い蛙の声が、どこかに残っている気がした。
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本作は、アーサー・コナン・ドイル著『シャーロック・ホームズの冒険』および岡本綺堂著『半七捕物帳』への敬意と感謝を込めて執筆しています。
著:コナン・綺堂異流(Conan Kidoyle)




