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ホームズ捕物帳 ~ロンドンの名探偵、江戸に転生して岡っ引きになる  作者: コナン・綺堂異流


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第三十三話:旅絵師の変装術 〜 The Adventure of the Travelling Painter 〜

一部AIにより作成


挿絵(By みてみん)


【冒頭:ロンドン時代】


一八九一年、三月の夜更けのことである。


ベイカー街二百二十一番地Bの居間に、春霧が窓の外でたなびいていた。ガス灯の光が霧に滲んで、部屋の中まで白んだ感じがした。


シャーロック・ホームズは床の上に胡座をかいて、様々な変装道具の入った箱をかき回していた。付け髭に白粉おしろい、染料の小瓶、色付きのレンズを嵌めた眼鏡、よれよれのコートが床に広がっている。


「ホームズ」と私、ジョン・H・ワトソンは呆れながら言った。「その散らかし方はいくらなんでも——」


「黙ってくれ、ワトソン。今は集中している」


ホームズは付け髭を一本つまみ上げ、口元に当てて鏡を覗いた。


「変装というのは」と彼は言いながら、試行錯誤を続けた。「単に外見を変えることではない。歩き方、声の出し方、視線の動かし方——その人物の内側から変わらなければ、本物の変装にはならない。外面だけ変えた変装は、観察力のある者にはすぐ見破られる」


「だが、君自身はそれを完璧にやり遂げる」と私は言った。「私でさえ気づかなかったことが何度あったか」


「それは君の観察力が——」ホームズは一度止まり、私を見て、「そう言おうとしたが、君は実際よく見ている。しかし変装には、もう一つ難しいことがある。三太」


「何だ」


「変装した先で、本当の感情を持ってしまうことだ。任務のために入り込んだ場所で、本物の絆が生まれてしまったとき——人は何を選ぶべきか。それは変装の技術の問題ではなく、人間の問題だ」


ホームズは鏡を置き、遠い目をした。


「それが解けない問いのまま、世界のどこかで今夜も誰かが悩んでいるだろう」


その夜、私たちがモリアーティ教授の一件でハンガーフォード橋の上を歩いていたとき——霧で滑った足場が、突然崩れた。橋の柵が腐っていたのだ。私たちは揃って、テムズの暗い水の中に落ちた。


気がついたとき、私はもう江戸にいた。




******




【本編:江戸での事件】


——和登三太の語り——


日光街道にっこうかいどう栗橋くりはしの関所を越えて、利根川とねがわの渡し船に乗っていたのは、霞月かすみづき——旧暦の三月のことだ——のある朝のことだった。


関所せきしょというのは、江戸幕府が主要街道に設けた検問所である。江戸への出入り、特に「鉄砲は入り、女は出る」という言葉が示すように、武器の搬入と女性の無断での江戸脱出を厳しく取り締まった。ロンドンでいえば国境検問に相当するが、こちらは都市の外縁に設けられており、旅の者は必ず通行手形つうこうてがた——いわば旅行許可証——を提示しなければならない。


さて、なぜ私と捕霧七ほむしちが江戸を離れ、奥州街道を北へ向かっていたのかを、少し説明しなければならない。


事の起こりは半月前に遡る。


捕霧七が懇意にしている南町奉行所の与力・中村半之丞なかむら はんのじょうから、ある密命が下ったのだ。


奥州のある藩の城下町で、幕府の巡検使じゅんけんし——藩の政治を監察する幕府の使者——に対して、某藩主が不正に接待と賄賂を贈ったという密告があった。これが事実であれば、藩は改易かいえき——領地没収——となりかねない重大事だ。幕府としては、表立って動くわけにはいかない。そこで、密かに現地へ忍び込んで真相を探る者が必要になった。


「捕霧七さん、あなたに適任がいるとは思わないが」と中村は言った。「ただ、あなたの知恵は借りたい。現地に潜入する者として、一人、信頼できる者を差し向けることになっている。その者が現地で行き詰まった際の後ろ盾として、あなたに同行してもらいたい」


「潜入する者とは?」と捕霧七は訊いた。


勘定組頭かんじょうくみがしら——幕府の財務役人——の手の者で、間宮鉄次郎まみや てつじろうという男だ。旅絵師・山崎澹山やまざき たんざんを名乗り、城下町に入り込む手筈になっている」


「旅絵師か」と捕霧七は言った。「なるほど、良い変装だ。絵師は各地を旅することが不自然でなく、藩主の屋敷に出入りする機会も作りやすい」


こうして私たちは北へ向かった。捕霧七は薬売りを名乗り、私は随行の手代という触れ込みだった。




******




利根川の渡し場は、春の水嵩みずかさで川幅が広がり、流れも速かった。


渡しわたしぶねというのは、橋のない川を渡るための平底の小舟で、船頭がさおを操り、乗客を対岸へ運ぶ。江戸時代には多くの川に橋がなく、この渡し船が交通の要所となっていた。乗合の船には、旅人、行商人、農民など様々な人々が乗り込む。ロンドンのテムズ渡し舟よりずっと素朴なものだが、原理は同じだ。


その船の中に、山崎澹山と名乗る若い男が乗り合わせていた。


すっきりとした顔立ちの、三十手前かと見える男で、背に大きな行李こうり——竹やとうで編んだ旅行鞄——を負い、腰には矢立やたて——筆と墨入れを兼ねた携帯用の筆記具——を差していた。絵師らしく、手の指先に薄く墨の染みがある。


しかし私は、捕霧七がその男を一瞥した瞬間に、かすかに目を細めたことに気づいた。


「あの男が?」と私は耳打ちした。


「そうだ。間宮鉄次郎だ」と捕霧七は静かに答えた。「変装は申し分ない。しかし——あの指の墨染みは、昨夜か今朝あたりに意図して付けたものだ。習慣的についた染みとは場所が違う。まだ変装に馴れていない」


さすが捕霧七だと思った。


「指摘すべきか」


「しない。今は赤の他人だ。後で機会を見て伝える」




******




船が川の中程まで来たとき、事件が起きた。


同乗していた一人の若い娘が、船縁に寄りかかって水面を眺めていたが、船が大きく揺れた瞬間、体の重心を失って川の中へ落ちた。春の利根川は雪解け水を集めて冷たく、流れが速い。


「あっ!」


私が声を上げる間に、二つの人影が水に飛び込んでいた。


一つは船頭、もう一つは——山崎澹山だった。


二人がかりで娘を引き揚げたとき、澹山は娘をしっかり抱えたまま、船縁に手をかけた。冷たい水に全身が濡れていたが、顔色一つ変えずに船に戻ってきた。


娘は気を失いかけていたが、命は助かった。


「大丈夫か」と澹山は娘に声をかけた。柔らかい声だった。


船が岸につくと、娘を連れてきた白髪の老人——父親らしい——が礼を述べた。


「おかげさまで……あなた様は、どちら様で?」


「山崎澹山と申します。旅の絵師です」


老人は伝兵衛でんべえという、その城下町の有力商人だとわかった。


「命の恩人に何もしないわけにはいかない。よろしければ、うちに逗留なさってください。ご不自由はかけません」


澹山は少し躊躇したが、それこそが好機だった。商家の内情に近づく機会——任務の上でもこれ以上の足がかりはない。


「ではご厚意に甘えまして」と澹山は頭を下げた。


私と捕霧七は、少し離れてその一部始終を見ていた。


「うまくいった」と私は言った。


「少し、うまくいきすぎた」と捕霧七は静かに返した。




******




城下町は、雪国らしい作りの家々が軒を連ねる静かな町だった。


屋根が急勾配で、雪の重みに耐えるよう太いはりが組まれている。軒先には氷柱つららの跡がある。通りは江戸より道幅が広く、武家地と町人地の境界が明確だ。


江戸の藩邸と異なり、地方の藩では城を中心に家臣団の屋敷が広がり、その外周に町人の商売の場がある。城下町じょうかまちという言葉は、まさにその構造を表している——城の下に広がる町、という意味だ。ロンドンでいえば、バッキンガム宮殿を中心に貴族の屋敷が広がり、その外側に商店街があるようなもの、と考えればわかりやすい。


私たちは表向き、薬の行商として町の旅籠はたごに宿を取った。


捕霧七はその夜、火鉢ひばち——炭を入れて部屋を温める暖房器具——に手をかざしながら、私に言った。


「三太、この藩の仕組みについて、明日から少し調べてくれ。特に、藩の勘定方かんじょうかた——財務担当の役人——と、城下の商家との金の動きを」


「私が? どうやって」


「薬売りは格好の情報収集者だ。各家を回り、話し相手になりながら、自然に話を引き出せる。ロンドンで私が変装するときと同じことを、今度は君がやってくれればいい」


私は思わず苦笑した。いつもは捕霧七の変装の腕に感心する側だったのに。


「そして澹山殿の方は?」


「私が様子を見る。あの男は腕は確かだが——少し問題がある」


「命の問題か」


「違う」と捕霧七は言った。「感情の問題だ」




******




三日が過ぎた。


私は薬を売り歩きながら、城下の町人たちから少しずつ話を聞いた。


この藩では三年ほど前から、藩主・丹波守たんばのかみが江戸の大商人たちと密かに取引をしており、藩の財政は表向きの記録とは大きく異なるという噂があった。幕府の巡検使が来た際には、藩の帳簿は見事に整えられていたが、それを見た巡検使が後で江戸に帰り、「何か腑に落ちないことがある」と漏らしたのが密告の発端だという。


「面白いことがわかりました、捕霧七さん」と私は夜に報告した。「藩の勘定方の筆頭・鳥居とりいという男が、城下の大商人・伝兵衛と昔から懇意にしているらしいのです」


「伝兵衛」と捕霧七は繰り返した。


「そうです。澹山殿が今、世話になっているあの——」


「わかった」と捕霧七は短く言った。「明日、澹山殿に会う」




******




翌日、捕霧七は旅の絵師に扮した薬売りとして、伝兵衛の屋敷を訪ねた。澹山とは「旅先で同宿した」という設定で自然に会話に持ち込んだ。


二人きりになると、捕霧七は声を低めた。


「指の墨染みの場所が違う。直した方がよい」


澹山——間宮鉄次郎——は一瞬目を見張ったが、すぐに平静を取り戻した。


「……観察眼があるお方ですな」


「中村半之丞の口から来た者だ」


短い沈黙があった。


「何がわかりましたか」と鉄次郎は小声で言った。


「伝兵衛と藩の勘定方・鳥居の関係は、三年前から続いている。藩主丹波守は幕府の巡検使の目を誤魔化すために、一時的に藩の金を動かして帳簿を整えた。資金の一部は伝兵衛から融通されている」


「それは私も掴みかけています。しかし確たる証拠が——」


帳面ちょうめんだ」と捕霧七は言った。「伝兵衛が管理している別の帳面がある。あの屋敷の土蔵どぞう——石造りの蔵——の奥の棚に、三冊の帳面が並んでいるはずだ」


鉄次郎は驚いた顔をした。


「なぜそれを」


「薬売りは台所まで上がる。土蔵の扉が少し開いていた。整然とした商家の蔵に、一区画だけ埃の付き方が違う棚があった。定期的に誰かが触れている棚だ」


鉄次郎はしばらく黙った。それから、低く言った。


「……おげんのことは、どう見ますか」


「伝兵衛の娘か」


「はい。私が川で救った——」鉄次郎は少し言葉を途切らせた。「あの娘は何も知らない。父親の企みを全く知らずに、私に——絵の手ほどきを頼んできた。私を信用している。伝兵衛を告発すれば、あの娘も……」


捕霧七はしばらく何も言わなかった。


外では風が吹いていた。春まだ浅い城下の空に、枯れた枝が鳴っていた。


「間宮殿」と捕霧七はやがて静かに言った。「それは私には答えられない問いです。任務は任務だ。しかし人の心は、任務に縛られない。あなたが何を選ぶか——それはあなたが決めることだ」




******




翌日の夜、鉄次郎は動いた。


伝兵衛の家族が皆、隣家の祝い事に出た夜の隙を見て、土蔵に忍び込んだ。捕霧七の言った棚に、確かに三冊の帳面があった。


しかしそこに、思わぬ邪魔が入った。


伝兵衛の屋敷を見張っていた鳥居の手の者が、鉄次郎の動きに気づいていたのだ。土蔵から出てきた鉄次郎を、三人の男が囲んだ。


「旅絵師か。どうやら絵より面白いものを探しておったようだな」


鉄次郎は帳面を懐に入れたまま、三人と対峙した。


そのとき、路地の闇から声がした。


「三太、右だ」


捕霧七の声だった。


私は言われた通り、右手の男の背後から飛びかかった。捕霧七は左の二人に向かった。十手じってかぎが夜の空気を切る音がした。


乱闘は短かった。三人は縛り上げられ、捕霧七の手際は鮮やかだった。ロンドン時代のバリツ——ホームズが得意としていた格闘術——が、江戸の捕縛術として蘇っているのだと、私はいつもながら妙な感動を覚えた。




******




翌朝、鉄次郎は帳面を持って、事前に連絡を取っていた幕府の目付めつけ——監察役——の使者と落ち合った。


帳面には、藩主丹波守と鳥居が、伝兵衛の資金を使って巡検使の目を誤魔化した詳細な記録が残っていた。金の動きの日付、金額、取引の相手の名前——全て揃っていた。


任務は完了した。


「行きますか」と私は鉄次郎に言った。


「……ええ」と彼は答えた。しかし足が一度、伝兵衛の屋敷の方を向いた。


おげんがちょうど、屋敷の木戸から出てきたところだった。彼女は旅絵師の澹山の姿を見つけ、明るく手を振った。


鉄次郎は少し間を置いて、静かに頭を下げた。会釈だけだった。それから踵を返して歩き出した。


おげんは怪訝そうな顔をして、しばらくその背中を見送っていた。


捕霧七はそれを遠くから見ていた。私の隣に立って、煙管を一服やって、静かに言った。


「変装の最も難しいところは、そこだ」


「捨てることか」


「本物になりかけたものを、任務のために捨てること——それが、どれほど重いかということだ」


春の城下町に、どこかから花の香りが流れてきた。梅か、桜か——雪国の遅い春の花が、ひっそりと咲いていた。




******




帰りの奥州街道は、来たときより空が明るかった。


私は歩きながら捕霧七に言った。


「あなたは鉄次郎殿に、任務か感情かを選べと言った。しかしあなた自身は、どちらを選ぶ人ですか」


捕霧七はしばらく何も言わなかった。


やがて彼は言った。


「私は変装をするとき——本当の自分がどこにいるのか、時々わからなくなることがある。岡っ引きの私か、ロンドンの探偵の私か、あるいは全く別の何かか。だが」と彼は続けた。「それでも判断しなければならないときは来る。そのとき頼れるのは、論理だけだ。感情ではない。感情は答えを曇らせる」


「では鉄次郎殿は正しかったか」


「任務を果たした意味では、正しかった。しかしそれが正しかったかどうかは——おそらく鉄次郎殿自身が、残りの生涯をかけて考え続けることだろう」


街道に春風が吹いた。遠く北の山々にはまだ雪が残り、白く輝いていた。


江戸は、まだ先にある。




******




【結末:ロンドン時代】


気がつくと、私はベイカー街の居間にいた。


暖炉の火が、穏やかに揺れていた。ホームズは変装道具の箱を片付けながら、何か考え込んでいた。


「ホームズ」と私は言った。「変装した先で本物の感情が生まれたとき、何を選ぶべきかという問いの答えは——」


「出たかね」とホームズは振り向かずに言った。


「出なかった」


「それが正しい」とホームズは言った。「ワトソン、その問いに答えが出たと思った瞬間、人は何かを切り捨てている。答えが出ない問いを問い続けることができるのは、その人間が両方のものを同時に大切にしているからだ。それは弱さではなく——むしろ、誠実さの証拠だ」


彼は変装の付け髭を手に取り、眺めてからそっと箱に戻した。


「どんな役を演じても、最後に素顔に戻れるのが、本物の人間だ」


窓の外に、三月のロンドンの霧が出ていた。霧の向こうで、ガス灯が橙色に滲んでいた。


ホームズはバイオリンを手に取り、今度は静かな曲を一つ奏でた。旋律は哀愁を帯びていたが、どこか清冽で、遠い北国の春の空気に似ていた。




******




本作は、アーサー・コナン・ドイル著『シャーロック・ホームズの冒険』および岡本綺堂著『半七捕物帳』への敬意と感謝を込めて執筆しています。




著:コナン・綺堂異流(Conan Kidoyle)

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