第二十四話:小女郎狐の符牒 〜 The Sign of the Little Fox 〜
一部AIにより作成
【冒頭:ロンドン時代】
一八九三年、十月の雨の夜のことである。
ベイカー街の居間には、暖炉の火が赤々と燃え、外の雨音が窓ガラスを叩いていた。ホームズは書物机に向かって何かを読んでいた。珍しいことに、バイオリンでも実験でもなく、ただ紙の束をめくりながら、たまに鉛筆でメモを走らせている。
「何を読んでいるのか」と私、ジョン・H・ワトソンは暖炉に近い椅子から訊いた。
「判例集だ」とホームズは答えた。顔を上げずに。「正確には、未解決事件の記録を集めた私文書だ。スコットランド・ヤードが公式に結論を出せなかった案件を、ある引退した刑事が私蔵していたものを借り受けた」
「趣味がいいな」
「趣味ではない、研究だ」ホームズはようやく顔を上げた。「ワトソン、記録の中の謎というものは、面白い性質を持っている。現場を直接調べることはできない。生き証人に会うことも、多くの場合は不可能だ。それでも——記録の書き方、省略の仕方、強調の仕方に、書いた人間の意図と、書かなかった人間の事実が滲み出る」
「つまり、記録そのものを読む、ということか」
「記録と、記録の隙間を読む」ホームズは鉛筆を置いた。「最も興味深い事件というのは、得てして記録の中に眠っている。現在進行形の事件より、過去の記録の方が、ずっと深いことがある」
「哲学的な夜だ」
「雨の夜には哲学が似合う」ホームズは再び紙束に目を落とした。「さて——この一件など、なかなか奇妙だ。農村での集団死。煙による窒息。そして——狐の祟りという説明。記録した者が何を見落としたか、手に取るようにわかる」
その夜、ホームズが傾いた書物机は、彼が立ち上がった拍子に、乗っていたランプごと暖炉の方へ倒れ込んだ。引火した書類が燃え上がり、部屋にたちまち煙が充満した。私は濡れたタオルで口を覆い、ホームズの腕を引いて逃げようとした。しかし廊下にも煙が回っていた。
煙は思いのほか速かった。
意識が薄れながら、私はホームズの手を握った。
そして——気がつくと、私はどこか別の場所にいた。
******
【本編:江戸での事件】
——和登三太の語り——
目が覚めると、そこは江戸ではなかった。
いや、正確には——江戸ではあるのだろうが、いつもの神田の長屋でも、下谷の路地でも、浅草の境内でもなかった。広々とした田圃が広がり、その向こうに低い山並みが見えた。秋の空は高く澄み、稲穂が黄金色に波を打っていた。
「三太、下総だ」
と、捕霧七が傍らで言った。
下総というのは、今の千葉県から茨城県にかけての地域に相当する、江戸近郊の農村地帯である。江戸の城下から見ると、隅田川と江戸川を越えた東の方に広がる平野で、米の産地として知られていた。
江戸は大消費都市であったが、その食を支えていたのはこういった近郊の農村だった。下総の米、上総の魚、武蔵野の野菜——江戸の台所は、周辺諸国の農民たちの労働によって成り立っていた。ロンドンとその周辺農村の関係に似ているが、江戸の場合は人口がより集中しており、農村との依存関係がより緊密だった。
「なぜ下総などに」と私は立ち上がりながら言った。
「事件の記録を読んでいたからだろう」と捕霧七は言った。「今回は少し変わった形になる」
「変わった形、とは」
「文書の中の事件だ」
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捕霧七が言うには、今回私たちに与えられた仕事は、ある岡っ引きの手記を読んで、その中に記された未解決の謎を整理する、というものだった。
江戸幕府には、関東八州——武蔵、相模、上野、下野、常陸、上総、下総、安房の八つの国——を広域に管轄する「八州廻り(はっしゅうまわり)」と呼ばれる役人がいた。正式には関東取締出役という。これはロンドン警察が管轄するのが市内に限られるのに対し、スコットランド全域を管轄する組織に相当すると考えれば理解しやすい。農村部の治安は江戸町奉行所の管轄外であり、この八州廻りが担当していた。
その八州廻りの配下として長年働いた老練な岡っ引きの一人に、常陸屋長次郎という男がいた。今は半隠居で、下総の小さな村の近くに住んでいる。私たちはその男の元を訪ねるよう、どこかからの導きで知っていた——この転生の仕組みはいつも、なぜかそういうものだった。
長次郎の家は、茅葺きの屋根を持つ農家風の建物で、縁側に大きな黒い猫が丸くなっていた。主人の長次郎は七十近い老人で、背中が少し丸くなっていたが、目の光は鋭かった。江戸仕込みの岡っ引きの目——半世紀にわたって人を見てきた目——だと、私にはすぐわかった。
「捕霧七先生が来られると聞いておりました」と長次郎は言った。どこから聞いたのかは問わなかった。江戸での私たちの生活には、こういう「どこからか伝わっている」ことが多い。「ちょうど困っておる一件があって。先生のお知恵を借りたいと思っておりました」
「記録を見せてもらえるか」と捕霧七は言った。
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長次郎が取り出したのは、和紙に墨で書かれた分厚い束だった。
「御仕置例書というものがございます」と長次郎は説明した。「各地の代官所が、裁断の難しい案件について、江戸の奉行所に問い合わせてきた記録を集めたものでございます。代官所というのは、農村部の行政と司法を担う地方官所で、江戸の町奉行所に対応する組織でございます」
捕霧七は文書を受け取り、素早くめくった。
「この中に、寛延元年(一七四八年)九月の一件がある」と長次郎は続けた。「わっちが若いころに関わった事件でございますが、今も釈然としない部分が残っておりまして」
「読みながら聞こう」と捕霧七は言った。そして文書に目を落とした。
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文書によれば、事件はこうだった。
下総国新石下村——今いる村から少し北に行った農村——の猪番小屋で、寛延元年の九月のある夜、七人の若い男たちが集まって酒盛りをした。
猪番小屋というのは、田畑を荒らす猪や鹿を追い払うために村人が番をする小屋で、農村では稲刈りの時期に特に重要な役割を果たす。ロンドン郊外の農場にある見張り台のようなものだが、江戸の農村ではもっと日常的な存在で、若者たちが夜番をしながら酒を酌み交わす場所にもなっていた。
七人は翌朝、全員が倒れているところを発見された。うち五人が死亡、二人が重篤ながら生き残った。
死因は煙による窒息だった。
小屋の中に松葉と青唐辛が大量に持ち込まれて燃やされており、そこから生じた煙が七人を昏倒させたのだった。松の葉は燃えにくく大量の煙を出す。青唐辛の煙は目と喉を激しく刺激する。二つを合わせれば、閉鎖空間では凶器になる。
「狐の祟りだ、と村では言ったわけか」と捕霧七は文書から目を上げた。
「はい」と長次郎は言った。「七人の若者たちは、事件の半月ほど前に、村はずれで小狐を一匹殺していたのです。昔からその土地に住む小女郎狐という古狐の子どもだと言われておりまして。その仇討ちのために狐が燻したのだと、村人は信じました」
狐というのは、日本の民間信仰において特別な位置を占める動物である。稲荷神の使いとして各地の稲荷神社に祀られ、霊力を持つ存在として恐れられた。特に「古狐」「白狐」は強い霊験を持つとされ、その祟りを受けた者は病や死に見舞われると信じられていた。ロンドンで魔女や悪魔が民間信仰の中心だとすれば、江戸の農村では狐がその役割を担っていた。
「生き残った二人は何と言っているか」と捕霧七は訊いた。
「記録では——煙が充満したとき、最初は誰かが悪ふざけをしたと思って笑っていたが、すぐに苦しくなり、気を失ったとのことです。外から小屋の戸が押さえられていたという証言もありますが、翌朝発見されたとき戸は開いていた」
「戸を外から押さえた者がいた、ということか」
「そう証言しておりますが、確認できませんでした」
捕霧七は文書を膝に置き、指先を合わせた。ロンドン時代から変わらぬ、彼が思索に入るときの仕草だった。
「おこよ、という娘のことが書いてある」と彼は言った。「事件の一ヶ月前に事故死した娘だ。これが重要だろう」
長次郎の目に、何かが光った。「よくお気づきで。わっちもそこが気になっておりました」
「詳しく話してくれ」
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おこよというのは、新石下村の農家の娘で、事件の約一ヶ月前、田圃の畔から転落して死んだとされていた。十七歳だった。
「事故死として片付けられておりますが」と長次郎は言った。「わっちが現地を調べたとき、ひとつ気になったことがありました。おこよの着物の袖に、土の跡ではなく、手で掴まれたような痕があったのです。転んで落ちたなら、両手で地面をかくはずです。しかしあの痕は——誰かに袖を掴まれて、そのまま落とされたように見えた」
「殺された可能性がある」
「はい。そして——七人の若者の中に、おこよと関わりのあった者が三人いました」
捕霧七は静かに訊いた。「どういう関わりか」
長次郎は少し間を置いた。
「おこよは、その三人のうちの一人に言い寄られておりました。しかし彼女はそれを拒んでいた。拒む理由が——彼女にはすでに、心に決めた人がいたからです。もう一人の若者で、この者は事件で死んでいます」
「つまり」と捕霧七は言った。「おこよを死なせた者が七人の中にいた。そしてその復讐のために、誰かが煙で燻した」
「そう考えるのが自然かと思います。しかし犯人の見当がつきません。生き残った二人は、死んだ五人とは別の集落の出身で、動機がない」
「おこよの家族は」
「父親が一人いるだけです。しかしこの父親は足が不自由で、あの夜に小屋の周りに来ることは不可能だとわかっています」
「おこよの心に決めた相手——事件で死んだ若者の家族は」
長次郎は少し沈黙した。「兄が一人います。しかし兄は事件の夜、別の村で仕事があったと、複数の証人がいます」
捕霧七は立ち上がり、縁側に出た。秋の田圃を、風が渡っていった。
「長次郎さん」と彼は言った。「文書の中で、もうひとつ気になることがある。松葉と青唐辛——これはどこから来たか、記録にあるか」
「松葉は小屋の脇の松林から。青唐辛は……記録にはありません」
「青唐辛は農家では普通に栽培しているか」
「はい。この地域では夏から秋にかけて、どの家でも作っています」
「しかし」と捕霧七は言った。「青唐辛を大量に燻煙に使うことを知っていた者は、そう多くない。これは知識だ。農作業の知識ではなく——燻すことの効果を、事前に知っていた者の知識だ」
「それは……誰でしょう」
「おこよの父親に、もう一度会いに行こう」と捕霧七は言った。「足が不自由でも、知識を持つことはできる」
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おこよの父親、惣八は、確かに片足を引きずっていた。
四十がらみの、日焼けした農夫で、娘の話になると目が赤くなった。
捕霧七は長次郎とともに、惣八の家の土間に腰を下ろした。土間というのは、農家の入口に設けられた土足で使う空間で、かまどや農具が置かれ、作業や来客に用いる。ロンドンの農家の入口廊下に相当するが、日本の農家の土間はより広く、生活の中心的な機能を持っている。
「おこよのことを調べに来た」と捕霧七は言った。「娘さんは、誰かに突き落とされたと思う」
惣八は黙っていた。
「青唐辛を燻す使い方を、誰かに教えたことがあるか」
惣八の目が動いた。わずかに、しかし確かに。
「……わっちは」と惣八はゆっくり言った。「何も知りません」
「惣八さん」と捕霧七は静かに続けた。「私は裁く者ではない。知りたいのは真実だけだ。娘さんは誰に殺されたか——あなたはすでに知っているはずだ。そして何かを、した」
長い沈黙があった。
縁側の向こうで、風が田圃の稲穂を揺らした。
「……娘を殺したのは庄助という男でございます」と、惣八はついに言った。「七人のうちの一人。娘が断り続けても言い寄ってきて、あの夜——娘を無理やり連れ出して、畔から落とした。わっちは後から、娘の友達に聞きました」
「そして」
「わっちは足が悪くて、動けない。庄助を訴えようとしたが、証人が出てきてくれなかった。田舎のことでございます——庄助の家は村で力のある家でして、みな怖がって……」
「だから」
「だから」と惣八は言った。「息子を頼みました」
「息子?」と長次郎が言った。「あなたには息子が……記録には娘一人と」
「義理の息子です。隣の村の者で、おこよが縁づく予定だった。その男の名は記録に出ておりません。名を出さないようにと、わっちが」
捕霧七は静かに言った。「その男が、猪番小屋に行った」
「はい。わっちが、青唐辛の燻し方を教えました。松葉と合わせれば、閉じ込めれば……わっちは昔、狸やたぬきの害獣を燻して追い払うために使ったことがあって。庄助さえ死ねばよかった。しかし……」
「七人いた」と捕霧七は言った。
「七人いた。それが……」惣八は両手で顔を覆った。「わっちの計算違いでございました。五人も死んでしまった」
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長次郎は深いため息をついた。
「やはりそうでしたか」と彼は言った。「長年、釈然としなかった理由が、これでわかりました」
捕霧七は土間の入口に立ち、秋の光の中を見ながら言った。「長次郎さん、これをどうするかは、あなたが決めることだ。私は記録の中の謎を解いたに過ぎない。当時の関係者のうち、何人が今も生きているかも知らない。あれから四十年以上が経っている」
「娘の義理の息子は、今も隣の村に」と長次郎は言った。「老いていますが、生きています」
「そうか」と捕霧七は言った。それ以上は何も言わなかった。
私は惣八を見た。老いた農夫は、顔を覆ったまま動かなかった。
江戸の法制度では、農村部の裁判は代官所が担当し、殺人は重罪として厳しく裁かれる。しかしこの事件は四十年以上前のことで、当時すでに「御仕置例書」という裁きの記録に残りながらも、結論が出ないまま棚上げにされていた。つまり幕府の側も、何かを察しながら、沙汰下しを避けたのかもしれなかった。
おこよを殺した庄助は、事件で死んでいる。残りの四人も、みな死んでいる。義理の息子は老人になっている。惣八は足の悪い老いた農夫だ。
何が正義で、何が罰であるべきか——私には、答えられなかった。
帰り道、夕暮れが田圃の上に赤く広がった。
「捕霧七さん」と私は歩きながら言った。「今回の事件は、解決したのでしょうか」
「真実は明らかになった」と捕霧七は言った。「解決かどうかは、真実とは別の問いだ」
「記録の中の謎は解けた。しかし記録の外に出た答えが、どこへ向かうかは」
「それは長次郎さんが決める」と捕霧七は言った。「私の仕事は、そこまでだ」
田圃の向こうに、小さな稲荷神社の赤い鳥居が見えた。
夕日を受けて、鳥居はまるで燃えているように赤かった。
狐が出る時刻だ、と近くの農夫が以前言っていたことを、私は思い出した。逢魔が時——江戸でも、下総でも、世界のどこであれ、夕暮れはいつも何かが曖昧になる時間だった。
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【結末:ロンドン時代】
気づくと、私はベイカー街の居間にいた。
書物机が倒れていた。焦げた紙の臭いが残っていたが、火はすでに消えていた。ホームズはソファに腰を下ろして、煤けた手を見ていた。
「ホームズ」と私は言った。「また夢を見た」
「私もだ」とホームズは言った。「記録の中の事件だった。狐の祟りと言われた農村の殺人」
「解けたと言えるのだろうか」
ホームズは少し間を置いた。
「記録から真実は解けた。しかし真実と正義は別物だ——それが今夜の主題だったな」と彼は言った。「ワトソン、私はずっと証拠と論理を信じてきた。しかしこの夢を見て、少し考えた。娘を殺した男は、その夜に死んだ。父親は娘のために動いた。義理の息子は父の頼みに従った。その結果、無関係な者まで死んだ。どこに正義がある?」
「……わからない」
「私にもわからない」とホームズは言った。それがホームズらしくない言葉だったので、私は少し驚いた。「ただ——記録というものは、書かれた事実だけでなく、書かれなかった感情を含んでいる。長次郎という老岡っ引きが、四十年ものあいだこの一件を胸に持ち続けたのは、なぜか。答えが出なかったからではなく、答えを出すべきかどうか、決められなかったからではないか」
窓の外に、秋雨がまだ降り続けていた。
ホームズは立ち上がって書物机を起こし、焦げた紙束の残骸を拾い集めた。
「ワトソン、記録は燃えてしまったが——」と彼は言った。「夢の中で読んだ内容は、どういうわけか覚えている。おかしな話だ」
「おかしな話だ」と私も言った。
ホームズは焦げた紙を手にしたまま、少し遠くを見た。
「次はどこへ行くのだろうな」と彼は言った。「江戸というのは——思いのほか、深い場所だ」
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本作は、アーサー・コナン・ドイル著『シャーロック・ホームズの冒険』および岡本綺堂著『半七捕物帳』への敬意と感謝を込めて執筆しています。
著:コナン・綺堂異流(Conan Kidoyle)




