第二十五話:狐と僧の符牒 〜 The Sign of the Fox and the Friar 〜
一部AIにより作成
【冒頭:ロンドン時代】
一八九三年、十月の末のことである。
ベイカー街の居間に、午後の薄い陽光が斜めに差し込んでいた。ホームズは床に膝をついて、奇妙な実験の最中であった。小さなガラス皿にいくつかの茶褐色の粉末を並べ、それぞれに硝酸を一滴ずつ垂らしては、変色の具合を虫眼鏡で観察しているのだ。
「ホームズ」と私は言った。「その粉末は何かね」
「動物の毛だ」と彼は答えた。目は虫眼鏡から離れない。「哺乳類の毛には、その動物の習性や食性が微妙な化学的差異として刻まれている。犬の毛と狼の毛は、素人には見分けがつかない。しかし硝酸との反応速度に、確かな違いがある」
「それを何に使う気だ」
「昨日、依頼人が持ち込んだ毛の鑑定だ」ホームズはようやく顔を上げた。「ケント州の農場主で、羊が何者かに食い殺されているという。犯人は犬か、それとも何か別の獣か。目撃者はいないが、毛だけが残されていた」
「なるほど。それで犬と狼を比較しているわけか」
「正確には、犬と、狐と、小型の犬の三つだ」ホームズは皿を指した。「農場主が持ち込んだ毛は、どうも奇妙でね。ワトソン、狐というものは、人を欺くために本性を隠す習性があると言われているが、実は毛の化学反応においても、犬と狐は実によく似ている。まるで偽装するように、ね」
「狐が羊を?」
「不可能ではない。しかし」とホームズは立ち上がり、煙草に火をつけた。「今回のケースには、もう一つ奇妙な点がある。現場の近くに、修道士の法衣の切れ端が落ちていたというのだ。羊泥棒と修道士と狐——この三つを結ぶ一本の線を、君は思いつくかね?」
私は首を振った。
「面白い」とホームズは低く言った。「狐が人を化かす話は、この島にも昔から伝わっている。しかし私が信じるのは、人が狐に化ける話の方だ。人は必要とあらば、いかなる獣の皮も被れる」
その夜、私たちはケント州に向かう汽車に乗った。
ロンドン橋駅のホームに霧が立ち込め、ガス灯の明かりが黄色くにじんでいた。汽車が動き出したと同時に、突然、車両が大きく揺れた。後方から何かが衝突する轟音があり——私は暗闇の中に投げ出された。
冷たい、硬い衝撃。
そして、すべてが静かになった。
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【本編:江戸での事件】
——和登三太の語り——
気がついたとき、私の頭上には、見知らぬ木立の梢が広がっていた。
松と欅の枝が絡み合い、その隙間から、秋の青い空がのぞいている。ロンドンの煤けた空とは違う、透き通るような高い空であった。身を起こすと、足元に砂利道があり、その両脇に石塔が立ち並んでいる。
墓地だ——と思ったが、ロンドンの墓地とは様子が違う。石の十字架ではなく、縦長の石柱に梵字と戒名が刻まれている。漢字で書かれた故人の名と没年が、うっすらとした苔に覆われて読める。ここが仏式の墓地——江戸の人々が「寺の境内」と呼ぶ場所であることを、私はいつのまにか理解していた。
転生というものは、言語をまず与えてくれる。次に名前を。そして記憶を、少しずつ。
「三太」
声がして振り返ると、捕霧七が石塔に背をもたせかけて腕を組んでいた。
今日の彼は、薄い鼠色の着物に黒の羽織を重ね、腰に十手を差している。着物というのはロンドンでいう長衣に近いが、前を帯で締めて着こなす様式は独特で、身体の輪郭を隠しながらも動きやすさを保っている。捕霧七はこの服装が気に入っているらしく、「帯の締め具合で、相手の警戒心が変わる」などと言っている。ホームズ時代にバイオリンを小脇に抱えていたような軽やかさで、彼は今日も煙管を手にしていた。
「ここは谷中か」と私は周囲を見回しながら言った。
「そうだ」と捕霧七は答えた。「江戸の北寄り、谷中という土地は、おびただしい数の寺が集まっている。神田や日本橋が商人と職人の町なら、谷中は死者と仏の町だ」
谷中という地名は、私の転生した記憶の中にもある。江戸の寺社地というのは、先にも述べたが、都市の総面積の相当部分を占めている。寺は単なる宗教施設ではなく、人々の「菩提寺」として檀家——すなわち信者の家——と生涯の契約を結び、葬儀から墓の管理まで行う。ロンドンの教区教会に当たる機能を持ちつつも、より日常生活に密着した存在といえばわかりやすいだろうか。
「それで、今回の事件は寺が舞台か」
「まさにそうだ」と捕霧七は煙管をひと吹かしして言った。「三太、おそらく今回は、私がこれまで手がけた中でも、最も奇妙な類の事件になるだろう」
「奇妙、とは?」
捕霧七は静かに目を細めた。
「住職が、狐になった」
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事件の概要は、こうであった。
谷中にある時光寺という寺の住職・英善——五十がらみの、まじめな坊主だという——が、嘉永二年(一八四九年)の秋、突如として行方をくらましたのだ。
前夜、英善は小坊主の英俊を連れて、近隣の家の仏事に出かけた。仏事というのは、死者を弔う儀式のことで、坊主が呼ばれて読経をあげる。法事とも言い、命日ごと、あるいは年忌ごとに繰り返される。英善は帰り道、英俊に「ここから先は別に用がある」と言い置いて、一人でどこかへ消えた。
その翌朝——英善の法衣と袈裟をまとった狐の死骸が、時光寺の近くの溝の中で見つかった。
狐が住職に化けていたのか。それとも住職が狐になったのか。谷中の町は噂でもちきりになった。
私たちにこの話を持ち込んだのは、時光寺の檀家の一人、質屋を営む六兵衛という人物で、担当の同心を介して捕霧七に相談が回ってきたのである。
「狐が人の着物を着て死んでいた、というわけか」と私は確かめた。
「そうだ」と捕霧七は言った。「しかも、その法衣は本物だ。英善が当日着て出かけたものに間違いない、と寺の者が証言している」
「ということは——」
「英善が消えて、法衣だけが残った。法衣の中に狐がいた」
「狐は法衣を盗んで着たのか?」
「あるいは」と捕霧七は言い、煙管をゆっくりとひと回しした。「別の誰かが、狐に法衣を着せたのか」
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谷中の時光寺を訪ねたのは、翌朝のことであった。
秋も深まった十月の末で、寺の境内には銀杏の葉が黄金色に散り敷いていた。銀杏という木は、江戸の寺や神社に多く植えられており、秋になると扇形の葉が黄色く染まる。ロンドンのプラタナスとは形も色も違う、もっと繊細で明るい黄色だ。
本堂——寺の中心にある礼拝の場——の脇に、庫裏と呼ばれる住居部分がある。住職と小坊主が起居する場所で、ここで私たちは小坊主の英俊に会った。
英俊は十三、四歳の少年で、丸刈りの頭に薄い灰色の着物をまとっていた。坊主の剃髪ではなく丸刈りなのは、まだ正式な得度——仏門に入る儀式——を受けていない見習い身分だからだ、と後で捕霧七に教わった。
少年は落ち着かない様子で、時折、庭の方に目をやった。
「英俊」と捕霧七は穏やかに言った。「住職が消えた夜のことを、話してもらえるか」
少年は視線を伏せ、しばらく黙っていた。
「英善様は……仏事の帰り道で、わたしを先に帰らせました。『ほかに用がある』とおっしゃって……」
「それからは?」
「翌朝、近所の溝に……狐が」
「その狐を、初めに見つけたのは誰だ」
「……朝の水汲みに出た近所のおかみさんです」
捕霧七はうなずいて、次に思いがけないことを訊いた。
「英俊、お前は今朝、その溝の近くにいたな。何かを拾おうとしていたな」
少年の体が、ぴくりと震えた。
「な……なぜ」
「見ていたからだ」と捕霧七は静かに言った。「溝の縁に屈み込んで、水の中の何かに手を伸ばしていた。そして私の気配に気づいて、立ち去った。違うか」
英俊は俯いたまま、しばらく何も言わなかった。
それから、彼はぽつりと口を開いた。
「……数珠が、落ちていたのです」
数珠というのは、珠を糸に通した環状の仏具で、念仏を唱える際に用いる。ロンドンのロザリオに近い機能を持つが、素材は水晶、珊瑚、黒檀など多様で、住職ともなれば上質のものを持つ。
「英善様の数珠が、溝に落ちていて……それを取り戻そうと、思って……」
「その数珠は今どこにある」
「……取れなかったのです。深くて」
捕霧七はしばらく少年を見つめた。その眼差しは厳しくも柔らかくもなく、ただひたすらに何かを測っているような——ホームズ時代の彼が証拠を吟味するときと同じ、あの目であった。
「英俊」と捕霧七は言った。「お前は住職を大切に思っているのだろう」
少年は唇を噛んだ。目に涙の膜が張ったが、こぼれなかった。
「……英善様は……わたしの恩人です。父が死んで、行く場所がなかったわたしを、ここへ置いてくださった」
「では、英善様を守るために、今夜、もう一度だけ私に正直に話してほしい」
******
その日の午後、捕霧七は私を連れて、溝の現場を検分した。
時光寺の南側に走る細い水路で、普段は雨水と生活排水が流れる江戸の典型的な溝である。江戸の町には、このような細い水路が張り巡らされていた。ロンドンの下水道が地下に潜っているのと違い、江戸の水路は地上を走り、生活と密接に結びついている。水汲み、洗い物、染物の水洗い——日常のあらゆる場面でこの水路が使われていた。
狐の死骸はすでに片付けられていたが、捕霧七は溝の縁にしゃがみ込んで、底の泥を丁寧に観察した。
「泥が妙だ」と彼は言った。
「どう妙なのか」
「ここだけ、深く掘り起こされた跡がある。最近——おそらく昨夜か、一昨夜か——誰かが、溝の底の泥をかき回している」
「何を隠した?」
「何かを沈めた。あるいは、沈んでいたものを確かめた」
捕霧七は立ち上がり、溝の近くに立つ庚申塔——三猿が彫られた石の塔で、辻の守り神として至る所に立てられている——の裏側を調べた。指先で苔をなでていたかと思うと、小さな木の欠片を取り出した。
「何だ、それは」
「蝋の跡だ。蝋燭を立てた跡が、石に残っている。夜中に、ここで蝋燭を灯した者がいる」
「夜中に溝の前で蝋燭を……まるで弔いのようだな」
捕霧七はゆっくりと私を振り返った。
その顔に、かすかな笑みが浮かんでいた。ホームズが解決の糸口を掴んだとき、口の端に浮かべる、あの笑みだ。
「三太、正解だ」
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その夜、捕霧七はある人物に会いに行くと言った。
一人で行くというので、私はついていくことを主張した。捕霧七は少し考えてから、「では静かにしていてくれ」と言って了承した。
私たちが訪ねたのは、時光寺から三町ほど離れた——一町は約百九メートル、三町はおよそ三百メートル余り——、谷中の外れにある小さな掘っ立て小屋であった。
小屋の前に、五十がらみの女が一人、座り込んでいた。
豆腐売りか、あるいは行商の女かと思ったが、よく見れば着物の質は悪くない。しかし顔には深い疲労の色があり、目の下が落ちくぼんでいた。何日も眠っていないような顔だった。
捕霧七が近づくと、女は顔を上げた。逃げようとする様子はなかった。むしろ、待っていたような静けさがあった。
「おきよ(幾代)さんか」と捕霧七は言った。
女は小さくうなずいた。
「英善様のことを、ご存知で」
「存じている」と捕霧七は静かに答えた。「それからついでに言えば、英善様が今どこにおられるかも、大体の見当はついている」
女の目が大きく見開かれた。
「あの方は……生きておられますか」
「おそらくは」
女はゆっくりと息を吐いた。それは安堵の息なのか、それとも観念の息なのか、私にはわからなかった。
「……全て、お話しします」
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おきよが語ったことは、こうであった。
英善には、僧となる以前から、深い縁のある女があった。それがおきよである。英善が出家したのは三十を過ぎてからで、それ以前は染物職人であった。おきよとは職人仲間の縁で知り合い、一時は所帯を持つ約束までしたという。しかし英善は、ある夏に弟を病で亡くし、その死に際に弟に看取られた老僧の姿に打たれて、出家を決意した。
おきよとの約束は、そのとき消えた。
英善は真摯な坊主になり、谷中の時光寺に住職として落ち着いた。おきよは別の男と所帯を持ったが、その男も五年前に病死し、今は一人で暮らしている。
「英善様とは、出家してからも、時々お会いして……仏事のお手伝いなどを」とおきよは言った。「不浄の仲ではございません。ただ……古い友人として」
「しかし」と捕霧七は言った。「一ヶ月ほど前から、英善様は様子がおかしくなった。違うか」
おきよはわずかに目を伏せた。
「……ある夜、英善様が血相を変えてわたしのところへ来られました。『追われている』と。何者かが英善様の身辺を嗅ぎ回っているというのです」
「何者か、心当たりは」
「時光寺の本山——上位の寺——が、英善様を厄介に思っている者がおる、と……英善様はそう申しておりました」
捕霧七は黙って聞いていた。
本山というのは、仏教の各宗派において、末寺——傘下の寺——を統括する上位の寺院のことである。末寺の住職は本山の意向に逆らえず、時にはその関係が派閥争いや金銭的な確執を生むことがある。ロンドンの教会で言えば、大主教と下位の牧師の関係に似ているが、江戸時代の仏教界には独特の権力構造があった。
「英善様が本山の誰かに疎まれていた、ということか」
「そのようで……英善様は昔気質の坊主で、本山への付届——ロンドンでいえば賄賂——を嫌っておられましたから」
「それで、脅かされていた?」
「出家前に、わたしとのことがあったのを……誰かに知られたようで。それを口実に、英善様を時光寺から追い出そうとする者が……」
捕霧七の目が光った。
「なるほど。それで英善様は、自ら消えることにした」
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事件の構図は、このように組み立てられた。
本山の一派が英善の弱みを握り、時光寺の権益を奪おうとしていた。英善はこれを察して、自ら失踪することで相手の目論見を一時かわそうとした。しかし「住職が消えた」だけでは、誰かに保護されたか、別の場所へ移ったかと疑われる。
そこで英善は一計を案じた。
死んだように見せかけること——ではなく、もっと奇妙な方法を選んだ。
「狐になった、と思わせる」ことだ。
狐が人に化けるという信仰は、江戸の庶民の間に深く根付いている。狐は稲荷神社の神使として崇められる一方、人を化かす妖怪でもある。もし「住職が狐になって消えた」という噂が立てば、人々はそれを怪異として受け止め、合理的な捜索よりも呪術的な解釈に流れやすい。——江戸時代の人々の精神構造を逆手に取った、見事な偽装工作であった。
英善の手順は、おそらくこうだ。
仏事の帰り道、英俊を先に帰らせた後、英善は前もって罠にかけておいた狐の死骸を溝に沈め、自分の法衣と袈裟を着せた。翌朝、水汲みの者が発見するよう、死骸が浮き上がる深さに沈めておく。翌朝の衝撃と騒ぎの中で、英善自身はすでに別の場所に身を潜める——。
「しかし英善は、一つ計算違いをした」と捕霧七は私に言った。「英俊だ」
「英俊が?」
「あの少年は、英善が出かける前夜に、英善の数珠が部屋にないことに気づいていた。英善はその数珠——形見の数珠だ、おそらくは亡き弟のものだろう——を、法衣と一緒に狐の死骸の胸に忍ばせた。寺を去る前に、弟への供養のつもりで、ね」
「それで英俊は、数珠を取り戻しに溝へ……」
「そう。少年は住職の企みを感づいていながら、誰にも言わなかった。ただ、形見の品だけは、溝に沈めたままにしておけなくて」
私は思わず黙り込んだ。
小坊主の英俊が、朝の溝の前に屈み込んで、水に手を伸ばしていた姿を思い浮かべた。十三、四歳の少年が、師の企みを胸に秘めて、何も語らず、ただ形見の数珠のためだけに。
「英善様は今、どこに」と私はやがて言った。
「おきよさんが匿っている小屋の奥だ。すでに話はついている」と捕霧七は言った。「正式な届け出は、担当の同心——今回の事件を担当している役人——に任せる。本山の一派が英善を脅していた件は、改めて吟味——すなわち取り調べ——の場に持ち込む。それまでの間、英善には安全な場所でおとなしくしていてもらう必要がある」
「それで事件は解決か」
「狐は人を化かすために皮を被る。今回は人が、狐の皮を被った。しかし皮を被った理由が、自らの欲ではなく、誰かから身を守るためのものであれば——それは果たして、裁かれるべき欺きと言えるかどうか」
捕霧七は煙管をひと吹かしして、夜空に煙を吐いた。
十月の夜の谷中に、どこかの寺の梵鐘が低く響いた。梵鐘というのは、寺に吊るされた大きな鐘のことで、朝晩に撞かれ、江戸の時刻を告げる機能も持っていた。その音は低く、深く、どこまでも続くような余韻を持っている。
「ロンドンでもこういう音の鐘はあるか」と、捕霧七は不意に言った。
「ウェストミンスター寺院の鐘が、少し似ている、かもしれない」
「そうか」
捕霧七はまた煙管を吸った。
「人を化かす狐も、身を守るために皮を被る坊主も、師の秘密を黙って守る少年も——みな等しく、この鐘の音を聞いている」
私はその言葉を、しばらく黙って反芻した。
谷中の秋の夜は、静かだった。
******
その後、事件は捕霧七の読み通りに進んだ。
英善は数日の後に姿を現し、本山の一派による不正な圧力の件は、南町奉行所の役人が取り上げることになった。町奉行所というのは、江戸の行政と司法を一手に担う機関で、南と北に二つあり、月番交代で事件を扱う。寺社の内部の問題は本来、寺社奉行の管轄であるが、脅迫という形を取った今回の件は、町奉行所が動く根拠となった。
英俊は何も咎められなかった。
ただ、英善が落ち着いた後で、溝から引き上げられた数珠は——誰も言わずとも——英俊の手に渡ったと、後に聞いた。
「あの少年は大した者だ」と、担当の同心が後日、捕霧七に言った。「住職の秘密を守り通した」
「いや」と捕霧七は答えた。「あの少年はただ、恩人の数珠を取り戻したかっただけだ。それだけのことが、充分な義理というものだろう」
義理というのは、江戸の人間関係の根幹をなす概念で、恩に報いる義務と、その行為に伴う誇りの両方を含んでいる。ロンドンの「デューティ(義務)」に近いが、より感情的な温かみを持った言葉だと私は感じている。
捕霧七はその夜、長屋に帰ってから、久しぶりに煙管を長く吸って黙り込んでいた。
「何を考えている」と私は訊いた。
「狐のことだ」と彼は答えた。「ロンドンでは、狐は狡猾な動物の象徴だった。しかし江戸では、狐は神の使いでもあり、人を化かす妖でもある。同じ生き物が、二つの異なる意味を持っている。それは人間も同じだ、と思って」
「人間も?」
「英善は欺きによって身を守った。しかしその欺きの根に、弟への思いと、寺への誠実さがあった。欺きと誠実は、同じ人間の、表と裏だ」
私は暖かい番茶を一口飲んだ。番茶というのは、茶葉の茎や古い葉を使った庶民的な茶で、ロンドンの紅茶とは味もまるで違うが、体の芯から温まる感じがある。
「ホームズ時代のお前なら、なんと言った?」
「ワトソン、すべての謎には人間の感情が絡んでいる、と言ったろう」
「そして今は?」
捕霧七は煙管を持ち替えて、ふっと息をついた。
「今も、同じことを言う」
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【結末:ロンドン時代】
気がつくと、私はベイカー街の居間にいた。
夜の暖炉が静かに燃え、石炭の爆ぜる音だけが聞こえていた。ホームズは肘掛け椅子に深く沈み込み、あの不思議な微笑を浮かべていた。
「ホームズ」と私は言った。「江戸の夢を見た」
「私も」とホームズは答えた。「狐の夢だ」
「住職が狐になった話か」
「逆だ、ワトソン」ホームズは静かに目を上げた。「人間が狐の皮を被った話だ。欺くためではなく、守るために」
窓の外に、十月のロンドンの霧が立ち込めていた。
「ホームズ」と私はやがて言った。「ケント州の農場の件は、結局どうなった。汽車の中で事故があって——」
「今夜は忘れよう」とホームズは言い、バイオリンを手に取った。「ワトソン、一つ訊いてもいいか。義理と感情——どちらが人を動かすと思う?」
「義務だろう、普通は」
「しかし十三歳の少年は、義務ではなく、ただ形見の数珠のために溝の前に立っていた」
ホームズはバイオリンの弓を一度ゆっくりと弦に置き、低い音を一つ鳴らした。
「感情を持つ者は、時に義務を超える行動をとる。それが人間だ。そして——」彼は続けた。「狐も、人も、坊主も、それは変わらない」
霧の中、どこかの教会の鐘がぼんやりと鳴っていた。
ウェストミンスターの、あの重い音だ。
しかし今の私には、その音の中に、もう一つ別の音が重なって聞こえる気がした。谷中の梵鐘の、低く深い、余韻のある音が。
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本作は、アーサー・コナン・ドイル著『シャーロック・ホームズの冒険』および岡本綺堂著『半七捕物帳』への敬意と感謝を込めて執筆しています。
著:コナン・綺堂異流(Conan Kidoyle)




