第二十三話:浅茅が原の鬼娘 〜 The Hound of Asakusa Plain 〜
一部AIにより作成
【冒頭:ロンドン時代】
一八九三年、七月の蒸し暑い夕べのことである。
ベイカー街の居間は、夏の長い日差しを受けて熱がこもっており、暖炉は当然ながら火を落としてあった。ホームズは肘掛け椅子に腕を組んで沈み込み、天井を見つめたまま微動だにしなかった。煙草の煙だけが、ゆるゆると蛇のように揺れている。
私、ジョン・H・ワトソンは、向かいに腰かけて医学雑誌を読んでいた。いや、正確には読もうとしていた——ホームズがああして黙って天井を見ているとき、その思考の渦が部屋全体に漂ってくるような気がして、なかなか文字に集中できないのだ。
「ワトソン」と、ホームズは天井を見たまま言った。「連続殺人犯というものは、なぜ同じ方法を繰り返すと思うか」
「確信犯だからだろう」と私は言った。「前回うまくいったから、次も同じ手を使う」
「それは半分正解だ。もう半分は——方法それ自体に、意味があるからだ。何かを伝えようとしている。あるいは、方法が犯人の正体を雄弁に物語っている。ジャック・ザ・リッパーが喉を切ったのは、単なる趣味ではなく、彼の技術と知識を示していた」
「物騒な話だな」
「夏の夜に相応しい話ではないか」ホームズはようやく頭を動かして、私を見た。「ところでワトソン、民間伝承の中に連続殺人が紛れ込んだとき、最も厄介なのは何だと思う」
「……人々が超自然的な説明に飛びつくことか」
「その通り」ホームズは立ち上がって窓際に歩み寄った。「バスカヴィル家の事件のときも、同じだった。人々は犬の足跡を見て、地獄の猟犬と叫んだ。しかし真実は常に、人間の中にある。鬼も幽霊も、最後は生身の人間に辿り着く」
「今も何か事件を考えているのか」
「いや」とホームズは窓の外を見ながら言った。「ただ一般論として。しかし——」
そのとき、通りの向こうから叫び声が聞こえた。酔った男が馬車に突き飛ばされたらしく、人々が集まってくる騒ぎになった。ホームズが素早く窓を開けて身を乗り出した瞬間、大きな振動があった。近くの建物の足場が崩れ、鉄骨と木材の束が通りに落ちた。
窓枠に体を乗り出していたホームズに、それが直撃した。
私は走り寄った。瓦礫の中でホームズの手を掴んだ。しかし——重いものが落ちてきた。閃光ではなく、ただ急速な暗さが、私たちを包んだ。
そして——気がつくと、私はどこか別の場所にいた。
******
【本編:江戸での事件】
——和登三太の語り——
目を開けると、まず耳に飛び込んできたのは、蝉の声だった。
ロンドンに蝉はいない。あの甲高い、金属的なほどに鋭い鳴き声は、江戸の夏の特産物である。一匹ではなく、無数の蝉が重なり合って鳴くその音は、まるで空気そのものが振動しているかのようだった。私はしばらくのあいだ、その音に圧倒されて動けなかった。
「三太、暑いから早く起きろ」
捕霧七の声だった。
彼はすでに着物の裾を端折って立っており、煙管を片手に周囲を眺め回していた。腰には十手。足元には下駄——木を彫った台に鼻緒を通した履き物で、ロンドンのブーツと比べれば驚くほど開放的だが、真夏の石畳の照り返しを考えれば、なるほど理に適っている。
「今度はどこですか」と私は立ち上がりながら言った。
「浅草だ」
浅草というのは、江戸の北東、隅田川のほとりにある一大繁華街である。浅草寺という古い寺を中心に、その門前には芝居小屋、見世物小屋、屋台の並ぶ仲見世——参道に沿った商店街——があり、江戸でも指折りの賑やかな場所だった。ロンドンでいえば、宗教施設と市場と劇場が一体になったような、独特の混沌とした活気がある。
しかしその浅草で今、人々は怯えていた。
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「鬼娘が出る、と言われています」
私たちのところに駆け込んできたのは、馬道に住む庄太という若い男で、顔面蒼白、額に汗を光らせていた。
馬道というのは浅草寺の東側を走る通りで、以前の話に出てきた上州屋のような質屋や商家が並ぶ一帯である。
「鬼娘、とは」と捕霧七は煙管を口から離して言った。
「白地の手拭に、白地の浴衣を着た若い女が夜中に現れて——女の人の喉笛を食い破って殺すのです。もう三人がやられました」
私は医師として、喉を「食い破る」という描写が気になった。刃物で切るのではなく、歯で噛み切るということか。
「浅茅ヶ原に近いだけに」と庄太は声を落とした。「あそこはもとから鬼婆が住んでいたという言い伝えがありますから……」
浅茅ヶ原というのは、浅草の北の方にかつて広がっていた荒れ野で、鬼婆伝説で名高い場所である。その昔、宿屋を営む老婆が旅人を殺して金品を奪っていたという伝説が語り継がれており、この地は江戸っ子にとって「鬼の出る場所」として刷り込まれていた。
ロンドンにも、ダートムアのバスカヴィル家の周辺のように、「魔の土地」として恐れられる場所がある。そういった場所で怪事が起きると、人々は超自然的な説明に走りがちだ——これはロンドンでも江戸でも変わらない。
「三件の死体の状況を詳しく」と捕霧七は言った。
「最初の女は半月ほど前、馬道の裏の井戸端で。二番目は十日前、浅草寺の境内近くの路地で。三番目が昨日——わっちの隣に住むお作です。台所で行水をつかっていたところを」
行水というのは、桶に水を張って体を洗う、江戸の夏の習慣である。ロンドンにも沐浴の習慣はあるが、江戸の行水は屋外や台所で行われることが多く、夏の風物詩として絵師たちの好む題材でもあった。
「三人ともに共通することは」と捕霧七は続けた。
「全員、女。全員、夜の一人のところを襲われています。そして——白い浴衣の女を見た、という目撃者が近くに必ずいます」
「目撃者が、毎回」
「そうです。鬼娘が消えた後で、近所の者が血だらけの死体を見つける。白い女を見た者だけは、なぜか無事で……」
捕霧七はここで煙管の雁首を煙草盆に打ち付けた。思案のときの彼の癖である。
「その目撃者たちに、会いに行こう」
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浅草の界隈を歩きながら、私は江戸の夏の装いの多様さに改めて気づいた。
江戸の町人たちは夏になると、浴衣と呼ばれる薄手の木綿の着物を着る。本来は入浴後に着る部屋着だが、庶民は夏の外出着としても広く用いており、白地や藍色の涼しげな柄が通りを彩っていた。
着物の素材は季節によって使い分ける。冬は絹や綿の厚手のもの、夏は麻や薄手の木綿。帯の結び方も季節や場によって変わり、江戸の女性たちの装いには細かいTPOがある。ロンドンのドレスと同様、着物もその人の身分や職業、季節感を一目で示す服装言語だった。
「白い浴衣というのは」と私は歩きながら捕霧七に言った。「夏なら珍しくないのではないですか」
「珍しくない。しかし三件とも、目撃者が白い浴衣を強調している。何故か——暗い夜道に、白は目立つ。あるいは、目立つことを計算していた」
「犯人が目撃されることを計算していた、ということ?」
「その逆もあり得る」と彼は言った。「目撃させることで、鬼娘の噂を広める必要があった誰かが、白い浴衣の者を配置した可能性もある」
「二人いるということか。殺す者と、目撃させる者が」
捕霧七は答えなかった。それが肯定である、と私にはわかった。
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最初の目撃者、半月前に馬道の井戸端の近くで白い浴衣の女を見たという左官職人の熊吉に会ったのは、浅草寺の境内の端にある茶店だった。
茶店というのは、寺社の参道や境内に設けられた休憩所で、茶と菓子を供する。ロンドンのコーヒーハウスに近い役割を持つが、もっと気軽な、縁台に腰かけて一服する程度の場所だ。境内には参拝客や物見遊山の人々が行き交い、香の煙と線香の臭いが漂っていた。
熊吉は四十がらみの、日焼けした筋骨たくましい男で、しかし鬼娘の話になると明らかに体が緊張した。
「あれは確かに女でした。真っ白な浴衣を着て、髪を振り乱して……月もない夜でしたが、白いものですからよく見えました。井戸の脇に立って、こちらをじっと見ていた。こわくて声も出なかった」
「どのくらいの時間、見ていたか」
「半刻……いえ、もっと短かったかも。とにかく怖くて目をつぶったら、気がついたときにはいなくて」
「顔は見えたか」
「暗くて。髪が乱れていたし……ただ」と熊吉は眉を寄せた。「なんか、小さかったような気がします。女の中でも小柄な」
「小柄」と捕霧七は繰り返した。「背格好は?」
「子どもみたいに小さかったような……でも子どもじゃなかった。なんというか、大人の女の雰囲気があって」
捕霧七は礼を言って茶店を出た。
境内の参道を歩きながら、彼は突然立ち止まった。
前方で騒ぎが起きていた。人だかりができており、怒号が聞こえた。
「何事だ」と私は言った。
「行ってみよう」
人だかりを押し分けて近づくと、一人の男が地面に倒れ、周囲の数人に怒鳴りつけられていた。男の手には、羽をばたつかせる鶏が一羽。どうやら浅草寺に奉納するために繋いであった鶏を盗もうとして、見つかったらしかった。
奉納の鶏——神社や寺に生きた鶏を奉納する習慣は、江戸でも一般的だった。神の使いとして鶏を祀る風習があり、浅草寺の境内でも奉納された鶏が飼われていた。
捕霧七は騒ぎを眺めながら、ぴたりと動きを止めた。
目が、鶏に向いていた。
「三太」と彼は静かに言った。「鶏を盗もうとした男の手を見ろ」
私は見た。男の右手の甲に、幾筋もの引っ掻き傷があった。
「鶏に引っ掻かれた傷か」
「それと」と捕霧七は言った。「左の手首に。人間の歯の跡がある」
私は目を凝らした。確かに——鶏の爪傷とは明らかに異なる、半円形の痕が。
「誰かに噛まれた?」
「被害者が抵抗したときについた傷だとしたら」と捕霧七はゆっくり言った。「この男が鬼娘の正体かもしれない。あるいは——鬼娘の共犯者か」
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捕霧七はその男——名を藤助といい、浅草近辺をうろつく無宿人だった——を引き取る形で、周囲を収めた。
無宿人というのは、宗門人別帳と呼ばれる戸籍台帳から外れた者のことである。江戸時代、人々は居住する町の宗門人別帳に登録されており、これがロンドンの教区記録に相当する身分証明の役割を果たしていた。無宿人はこの登録から外れているため、法的に身元を持たない者として扱われ、治安当局に常に注目される存在だった。
長屋に連れ帰って話を聞くと、藤助は最初は否定したが、捕霧七が左手首の傷を指差した途端に黙り込んだ。
「白い浴衣で夜中に出歩いていたのは誰か」と捕霧七は静かに訊いた。
藤助はしばらく黙っていた。
捕霧七は十手を膝に置いた。取り調べに十手を見せる必要があるときは、相手がよほど頑固な場合だ——これもロンドンで拳銃をテーブルに置く、ホームズの古い手癖と同じである。
「……おつね(お常)さんです」と、藤助はついに言った。「わっちじゃない。お常さんが殺した。わっちはただ、白い着物で傍に立って、鬼娘が出たという噂を広めるのを手伝っただけで」
「お常というのは」
「浅茅ヶ原の方に住む、四十がらみの女で。以前は料理屋の仲居をしていましたが、今は……わっちにもよくわかりません」
「三人の被害者とお常の関係は」
藤助は目を泳がせた。「全員、お常さんの知っている女だと思います。詳しくは……怖くて聞けなかった」
「お常はどこにいる」
「浅茅ヶ原の北の端に、古い長屋があって……そこの一番奥です」
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捕霧七が藤助を同心に預け、浅茅ヶ原へ向かったのはその夕方だった。
浅茅ヶ原は、かつての荒野の面影を今も残す一帯で、草が茂り、人家もまばらだった。江戸の中心から少し外れたこういう場所は、治安が不安定で、無宿人や訳ありの人々が流れ込んでくることが多い。ロンドンの暗い路地裏に似た、人の目が届きにくい場所だった。
古い長屋の一番奥の戸を、捕霧七が叩いた。
返事がない。
しかし中に人の気配があった。
捕霧七は戸を開けた。
薄暗い室内に、一人の女が壁際に座っていた。四十前後だろうか。やせた、目の落ち窪んだ女で、白い浴衣を着ていた。部屋の中に、何か鉄のような臭いが漂っていた。
お常は、私たちを見ても驚かなかった。ただ、静かに言った。
「来ると思っていました」
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お常の話は、こういうことだった。
三人の被害者はいずれも、かつてお常が働いていた料理屋に関係のある者たちだった。料理屋の女将が使い込みを隠蔽するために、お常に罪をなすりつけて奉公先から追い出し、お常の娘を——料理屋の借金のかたに——遠方の宿場に売り飛ばしたのだという。
「娘が死んだのは三年前です」とお常は言った。声に感情がなかった。「奥州街道の宿場で、熱を出して、誰も手当てをしてくれないまま」
女将はすでに死んでいる。お常が最初に殺した。
残りの二人は、女将の差し金でお常を追い出すことに加担した、料理屋の女中仲間だった。
「鬼婆の真似をしたのは」と捕霧七は言った。
「噂が立てば、お上も鬼の仕業として片付けてくれると思いました」お常は静かに言った。「藤助に頼んで、白い着物で目撃されるようにしてもらいました。浅茅ヶ原の鬼婆の伝説がありますから」
「娘さんはいくつだった」と、私は思わず訊いた。
お常は初めて、私を見た。
「十五でした」
部屋の中に、沈黙が広がった。
蝉の声が、外でまだ鳴いていた。
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お常は南町奉行所に引き渡された。
捕霧七は道中、ほとんど何も言わなかった。
夕暮れが浅草寺の五重塔の上に落ちてきた頃、私たちは参道の端の縁台に腰を下ろした。茶店の老婆が茶を持ってきてくれた。
茶というのは、江戸では緑茶が一般的で、ロンドンの紅茶と違って砂糖も乳も入れない。最初は物足りなく感じたが、今では夏の蒸し暑さの中でこれを飲む感覚が、なんとなくわかるようになってきた気がした。
「捕霧七さん」と私は言った。「お常を裁くのは奉行所の役目として——あなたはどう思いましたか。あの女のことを」
捕霧七は茶碗を両手で包んで、少し間を置いた。
「私が思うことは関係ない。岡っ引きの仕事は、真実を明らかにすることだ。裁くのは別の者の仕事だ」
「しかし」
「しかし、三太」と彼は言った。「鬼婆というものは、人間が人間を追い詰めたときに生まれる。浅茅ヶ原の伝説の鬼婆も——きっと、誰かに何かをされた女だったのかもしれない」
私は答えられなかった。
ロンドンで事件を解いていたとき、ホームズも同じような沈黙を持つことがあった。事件の解決と、正義の実現は、必ずしも一致しないことを、彼は知っていた。
浅草寺の鐘が、夕暮れの中で鳴り始めた。
重く、ゆっくりと、あたりに広がっていく音は、まるで何かを鎮めるようだった。
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【結末:ロンドン時代】
気づくと、私はベイカー街の居間にいた。
夏の夜の空気はまだ重く、窓の外でガス灯が揺れていた。ホームズは肘掛け椅子に深く沈み込み、両手の指先を合わせて、目を閉じていた。
「ホームズ」と私は言った。「夢を見た」
「私もだ」とホームズは目を閉じたまま言った。「浅草の鬼娘の夢だ」
「君も」
「白い浴衣の鬼娘の正体は、人間だった」とホームズは言った。「バスカヴィル家の犬と同じだ。魔の地に怪物を召喚するのは、常に人間だ」
「しかし今回は」と私は言った。「怪物と呼ぶには——」
「そうだ」とホームズは静かに答えた。「彼女を鬼にしたのは、別の人間だった。鬼は原因ではなく、結果だ」
窓の外で馬車が通り過ぎた。蹄鉄の音が遠ざかり、ロンドンの夜がまた静かになった。
「ワトソン」と、ホームズは目を開けて言った。「法とは何か、正義とは何か——それを問い続けることが、探偵の仕事に伴う宿命なのかもしれない。答えを出すためではなく、問い続けるために」
「君にしては珍しく哲学的だ」
「夏の夜は人を哲学的にする」とホームズは言った。そして珍しく、少し笑った。「……江戸の蝉の声を、まだ耳の奥に聞いている気がする」
私も、聞こえた気がした。
重い、繰り返す、止む気配のない声が。
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本作は、アーサー・コナン・ドイル著『シャーロック・ホームズの冒険』および岡本綺堂著『半七捕物帳』への敬意と感謝を込めて執筆しています。
著:コナン・綺堂異流(Conan Kidoyle)




