第二十二話:筆屋の娘の冒険 〜 The Adventure of the Brushmaker's Daughter 〜
一部AIにより作成
【冒頭:ロンドン時代】
一八九二年、八月の末のことである。
ロンドンはその年、珍しく厳しい残暑に見舞われていた。ベイカー街の石畳は昼の熱を夜まで抱え込み、ガス灯の光の中を漂う夜気もどこかねっとりと重かった。
私、ジョン・H・ワトソンは医院の診察を終えて、夜半過ぎにベイカー街へ戻ってきた。ホームズのところへ寄ったのは、その日の午後から妙に落ち着かない気分が続いていたからだ——そういうときは決まって、友人の部屋で煙草の煙に包まれながら、たわいもない話をするのが一番だということを、私は長年の経験で知っていた。
ホームズは、実験台にかがみ込んでいた。
何か小さなものを手に持ち、虫眼鏡でしげしげと眺めている。
「ワトソン、毒の話をしよう」と、私の足音を聞くなり彼は言った。振り向きもせずに。
「こんばんは、もよろしいか」と私は言った。
「こんばんは。毒の話だ、ワトソン。特に、日常の道具を経由して体内に摂取される毒について」
「職業病だな」
「いや、純粋に化学的な興味だ」ホームズはようやく虫眼鏡を置き、私を振り返った。目が爛々と輝いていた。「絵の具の話を聞いたことがあるかね。エメラルド・グリーン——輝かしい緑色を出すアーセニック系の顔料が、ある画家の命を奪った一件だ。画家は中毒と知らず、毎日その色を口元で試していた。人は何を媒介に毒を摂るかわからない」
「それはつまり」と私は椅子に腰を落ち着けながら言った。「筆を舐める画家のことか」
「筆を、舐める」ホームズは少し考えるように繰り返した。「そういう職人が日本にいると、先ほど読んだ。毛筆の穂先を口で舐めて整える者たちが」
「なぜそんな話を」
「ライムハウスの骨董商から譲られた文書を読んでいた。なかなか興味深い商売だ——そして、なかなか危険な商売でもある」
その夜、私たちは隣の薬屋から出火した火災に巻き込まれた。ホームズが薬品の臭いを嗅ぎつけて何事かと窓から顔を出した瞬間、爆発が起きた。私は咄嗟に彼を引き戻したが、爆風が窓枠を砕き、天井が落ちてきた。
閃光の中で、私はホームズの手を握った。
そして——闇があり、熱があり、それから何もなかった。
******
【本編:江戸での事件】
——和登三太の語り——
気がついたとき、私の鼻に飛び込んできたのは、墨の香りだった。
墨——硯と呼ばれる石の台の上で水と磨り合わせ、筆に含ませて文字を書くための固形の黒い塊——の香りは、松の煤と膠を混ぜて作られる独特のものである。ロンドンで言えば印刷所のインクの香りに近いが、もっと澄んでいて、どこか雅びな感じがした。
私は路地に横たわっており、頭を上げると、軒先に「東山堂」と書かれた暖簾がかかった小さな店が見えた。
暖簾というのは、江戸の商店の入口に吊るす布の仕切りで、客はこれをくぐって店に入る。ロンドンの商店のドアベルに相当する役割も担っており、暖簾がかかっているうちは営業中、はずしてあれば閉店の合図でもある。そして商家にとって「暖簾を守る」「暖簾に傷をつける」という表現は、家の名誉そのものを指す。
「三太」と、私の隣で煙管に刻み煙草を詰めながら捕霧七が言った。「今度は下谷だ」
下谷というのは、江戸の北東寄りに位置する町人地である。上野の寛永寺という大寺院の門前を中心に、職人や商人たちの長屋が密集していた。ロンドンでいえばイズリントンあたりの、庶民的で活気のある下町、というところか。
着物の腰に十手を差した捕霧七が、すっと立ち上がった。
「また転生か」と私は呟いた。
「毎度のことだ、三太。さあ、仕事がある」
******
私が転生のたびに驚かされるのは、江戸の人々の商売のきめ細かさである。
ロンドンにも多種多様な商売があるが、江戸の職人たちの専門性は格別で、筆一本を作るにも数人の職人が工程を分担するほどだという。筆の穂先——毛が束ねられた部分——を作る職人、軸——持ち手の竹や木——を整える職人、それらを組み合わせて仕上げる職人、そして仕上げた筆を売る商人。それぞれが独立した職業として成り立っている。
東山堂は、その中でも少し変わった形で評判を得た筆屋だった。
「舐め筆の店だ」と、近くで桶を洗っていた職人風の男が、私の問いに答えた。「あそこの姉妹が、筆の穂先を口で舐めて整えてくれる。きれいな娘が舐めてくれる筆だというので、絵師や書家が遠くから買いに来るぐらいだった」
筆の穂先は、毛を束ねた後、口で舐めながら細く丸く整えるのが職人の技の一つである。ロンドンの水彩画家も細筆の先を口で舐めて形を整えるが、江戸ではこれを娘たちが行う店が、独特の名物として客を集めていた。
しかし——そこに問題があった。
******
事件が起きたのは、慶応三年(一八六七年)の八月のことだという。
残暑がまだ厳しい頃、東山堂の姉娘おまんが急死した。十八歳の娘が、突然苦しみ出して、その日のうちに息絶えた。毒を飲んだ様子だったが、自ら飲んだのか誰かに飲まされたのか、判然としなかった。
さらに翌朝、近くにある徳法寺の若い僧、善周も急死した。二十歳そこそこの、読経の声がよいと評判の若僧だった。
二人が前後して死んだことから、町の人々は心中を疑った。
心中というのは、江戸では決して珍しくない死に方で、特に叶わぬ恋に絶望した男女が命を絶つ行為を指す。歌舞伎や浄瑠璃の演目にも心中物は多く、むしろ美しい死に方として語られることもあった。ロンドンのロミオとジュリエットに通ずる感覚があるが、江戸の心中はより庶民的で、より頻繁だった。
しかし捕霧七は、心中という結論にあっさりうなずかなかった。
この事件が私たちのところに持ち込まれたのは、東山堂の隣に住む表具師——掛け軸や屏風を仕立てる職人——の親方、平左衛門という人物を通じてだった。おまんと家族同然の付き合いがあり、娘の死に不審を感じていた。
「心中にしては、おかしいことがいくつかあります」と、平左衛門はうちの縁側に腰を下ろして、扇子を膝に置きながら言った。「おまん娘は確かに善周さんに惹かれているようでしたが、心中するような仲だったとは思えない。もっと言えば——妹のお年さんのことを心配して死んでいけるような姉ではないと、わっちは思っています」
「妹に何かあるのか」と捕霧七は訊いた。
「馬道の質屋、上州屋の息子との縁談が進んでいまして」
捕霧七は煙管の雁首をくるりと回した。思案のときの癖だ。
「上州屋の息子と、妹お年の縁談——それがおまんの死と、どう繋がるか」
「それがわっちにはわからないから、お願いに来たのです」
******
翌日、私たちはまず下谷の東山堂を訪ねた。
店は喪に服して暖簾を外してあった。奥に通されると、妹のお年が出てきた。十六歳というが、細面の、しかし意志の強そうな目をした娘だった。目が赤かった。姉の死から十日も経っていなかった。
「姉は毒を飲んで死んだのではないか、と医者から言われました」と、お年は静かに言った。江戸の医者——漢方医が大半で、蘭学と呼ばれるオランダ経由の西洋医学を学んだ者もいた——が検死の結果をそう伝えたというのだ。「でも、姉が自ら死を選ぶはずがないのです。善周さんのことだって、どうせ噂です。姉は善周さんのことをそれほど……」
「毒はどこから来たか、調べたか」と捕霧七は訊いた。
「わかりません。姉の飲んでいた薬の中に何か混じっていたのかと思いますが、薬は胃の薬で、前から飲んでいたものです」
捕霧七は店の中をひと渡り見回した。筆が整然と並んだ棚、硯と墨が並ぶ作業台、そして筆の穂先を整えるための小さな水鉢。
彼はその水鉢の前で止まった。
「この水は毎日替えるか」
「はい。毎朝、新しい水を入れます」
「姉はここで、毎日筆を舐めていた」
「そうです。姉の方が口が器用だと言って、舐め筆は姉が担当していました」
捕霧七は何も言わずに水鉢の縁を指先でなぞり、それを自分の鼻に近づけた。ロンドン時代のホームズが犯行現場で薬品の臭いを確かめるときと、まったく同じ仕草だった。
「三太」と彼は静かに言った。「硫黄の臭いがする」
「硫黄?」
「微かだが、確かに。もっと調べる必要がある。お年さん、ひとつ訊いてもよいか。お姉さんが使っていた筆の染料——墨以外のものを使う仕事は最近あったか」
お年は少し考えて言った。「一ヶ月ほど前に、少し変わった注文がありました。金色と赤色を混ぜた染料で穂先を彩色してほしいと。珍しい注文でしたので、専用の絵の具を取り寄せまして……でも、その絵の具はもう使い終わってしまいました」
「注文主は」
「上州屋さんのお使いの方が来て、注文されました」
捕霧七の目が、わずかに細くなった。
******
馬道の上州屋を訪ねる前に、捕霧七は思わぬところへ私を連れて行った。
明神下——湯島天神の門前あたり——で常盤津の師匠をしているお粂という女のもとだった。
常盤津というのは、三味線を伴奏に語る江戸の音曲の流派で、主に歌舞伎の伴奏として発展したものである。ロンドンでいえばオペラの伴奏楽団に近い立場で、師匠と呼ばれる名人が弟子に稽古をつけながら生計を立てている。
お粂は三十がらみの、きびきびした女で、捕霧七とは以前から面識があるらしかった。
「上州屋の息子の話なら、少し知っています」と、三味線を傍らに置いたお粂は言った。「あそこの若旦那、徳三郎さんは去年まで私の弟子のひとりで——あ、三味線ではなく、常盤津の素養として通っていたのです。腕前は並でしたが、目端の利く人でした」
「東山堂のおまんについて、何か聞いたことはあるか」
お粂は少し眉を動かした。「実は……徳三郎さんが、おまんさんのことを一度、嫌に詳しく話してくれたことがあります。あの舐め筆の店の評判、筆屋の注文の仕組み、どんな染料を使っているか。なぜそんなことを、と少し不思議に思いました」
「いつのことか」
「ふた月ほど前でしょうか。ちょうど妹のお年さんとの縁談が動き出した頃です」
捕霧七は煙管を膝に置いて、目を閉じた。私には彼が今何かを整理していることがわかった——ロンドン時代から、彼が推理を組み立てるとき、必ず一度静寂に入る瞬間があった。
「お粂さん」と捕霧七は目を開けて言った。「染料の話を、もう少し詳しく教えてほしい。特に、赤みがかった金色を出す顔料で、特定の条件下で有毒になるものについて」
お粂は首を傾けた。「そんな専門的なことは……ただ、うちの弟子に絵師がいまして、その者が先日こんなことを言っていました。ある種の赤い顔料は、雄黄——砒素を含む鉱物由来の顔料——と混ぜると発色が良くなるが、体に入ると危ないと」
「雄黄か」と捕霧七は静かに言った。「三太、わかったか」
「……砒素、ですか」
「毎日、筆の穂先を口で舐め続けた。注文の染料に毒が仕込まれていた。徐々に蓄積された毒が、ある日閾値を超えた——急死のように見えるが、実は緩慢な殺しだ。犯人は、舐め筆という習慣そのものを凶器にした」
「しかし、なぜ姉のおまんだけが死んで、妹のお年は」
「舐め筆を担当していたのは姉だけだと、お年本人が言っていた」
******
上州屋の息子、徳三郎を問い詰めたのは、その翌日のことである。
馬道というのは上野の東側を走る通りで、質屋や古着屋が並ぶ商業地帯だった。質屋は江戸の庶民にとってなくてはならない金融機関で、着物や道具を担保に金を貸し、期限内に返済すれば品物が戻り、返済できなければ品物が流れる。ロンドンのポーンブローカーと同じ仕組みである。
上州屋は馬道でも老舗の質屋で、蔵造りの立派な店構えをしていた。
徳三郎は二十二、三歳の、目のぎらついた男だった。捕霧七が部屋に入った瞬間から、何かを察したように顔色が変わった。
「舐め筆の注文の染料に、何を混ぜたか」と捕霧七は単刀直入に言った。
「何を言っているのか」と徳三郎は言ったが、声が震えた。
「砒素化合物を含む顔料を、注文の染料に混ぜた。毎日筆を舐めるおまんが、じわじわと毒を摂取するように仕組んだ。目的は、おまんを病死に見せかけて消すことだ」
「なぜ……なぜそんな」
「お年との縁談を進めるためだ」と捕霧七は続けた。「おまんはお年の縁談に反対していた。理由はわからないが、あなたが信用できないと判断していた——あるいは、あなたとおまん自身の間に何らかの行き違いがあった。おまんが生きている限り、縁談は進まない。だから消した」
「証拠はあるのか」と徳三郎は低く言った。
「ある」と捕霧七は言った。「水鉢の縁の染み、お粂さんの証言、そして——善周の死だ」
「善周は関係ない」
「関係ある。善周は、あなたが染料に細工をするところを見ていた。東山堂の裏で偶然目撃した。口を封じる必要があった。おまんの死の翌朝、善周が死んだのは偶然ではない。あなたは二人を殺した」
徳三郎はしばらく黙っていた。
縁側の外で、真夏の蝉がひときわ激しく鳴いた。
そして彼は、泣き崩れた。
******
徳三郎はその日のうちに、南町奉行所の同心に引き渡された。
江戸の貨幣制度は複雑で、金貨(両、分、朱)、銀貨、銭(寛永通宝などの銅銭)が並立している。一両は四分、一分は四朱という換算で、庶民の日常取引には主に銭が使われ、大きな商取引には金や銀が使われた。上州屋のような質屋は、この複雑な貨幣制度の中で利ざやを稼いでいたが、徳三郎が企てたのは、縁談という名の、もっと大きな蔵を手に入れる算段だったのだろう。
妹のお年は、最後まで姉の死の真相を知らなかった。
平左衛門の親方が、お年に何も告げないよう頼んだ。捕霧七もそれに反対しなかった。
「彼女が知るべきことは、姉は自ら死を選んだのではないということだけです」と平左衛門は言った。
「それで充分だ」と捕霧七は言った。
事件が落着した夕方、私と捕霧七は上野の山の縁を歩いた。
夏の夕暮れの上野は、松の木立が西日を遮り、境内の池の蓮が白く浮かんで見えた。ロンドンのハイドパークの池とは比べものにならないほど小さいが、江戸の人々はこういう小さな自然の中に風情を見出す。「侘び(わび)」と「寂び(さび)」という美意識は、私にもそろそろわかりかけてきた気がした。
「捕霧七さん」と私は歩きながら言った。「染料の毒に気づいたのは、最初から?」
「水鉢の硫黄の臭いを嗅いだ時点で、可能性は考えた。雄黄は加熱や摩擦で二酸化硫黄を生じることがある。おそらく製造工程の痕跡が水鉢に微かに残っていた」
「なぜ硫黄の臭いを嗅ごうと思ったのか」
「ロンドンで、似た話をしていたから」
私は思い出した。薬屋の火事の前夜、ホームズが言っていた言葉を。人は何を媒介に毒を摂るかわからない——と。
「では今夜の転生は」と私は言った。「あなたが自分でお膳立てしたのか」
捕霧七はわずかに笑った。江戸に来てから、彼が笑うのを私はまだ数えるほどしか見ていない。
「そこまでの制御は、私にもできない。ただ——」と彼は言った。「考えていたことと、解くべき謎が、どこかで一致することはある。それだけだ」
池の蓮が、夕風に揺れた。
******
【結末:ロンドン時代】
気づくと、私はベイカー街の居間にいた。
ホームズは実験台の前に立ったまま、虫眼鏡を手に持って静止していた。まるで時間が止まっていたかのように。
「ホームズ」と私は言った。「また夢を見た」
「私もだ」とホームズはゆっくりと振り返った。「下谷の筆屋の夢だ」
「君はやはり見るのか」
「ワトソン」と彼は言った。「絵の具の話をしていたはずだが、夢の中では染料になっていた。興味深い変換だと思わないか」
「変換などと呑気なことを」と私は言った。「若い娘が死んだのだぞ」
「そうだ」ホームズは虫眼鏡を静かに置いた。「舐め筆という行為——毎日繰り返す小さな習慣——が凶器になった。江戸でも、ロンドンでも、犯人というものは、被害者の日常そのものを利用することを好む」
「それは怖ろしい話だ」
「怖ろしいが、逆を言えば——日常の観察こそが、謎を解く鍵になる」ホームズは窓際に歩み、夜のベイカー街を見下ろした。「あの娘の妹は、縁談の相手の正体を最後まで知らなかった。それは幸いだったのか、不幸だったのか」
「……わからない」
「私にもわからない」とホームズは言った。「だが、知ることが常に幸せをもたらすとは限らない——それは探偵として、常に抱えておかなければならない問いだ」
窓の外、ロンドンの夜に霧が出始めていた。ガス灯の光が滲んで、まるで江戸の行灯の光のように、柔らかく、頼りなく、それでいてあたたかく見えた。
ホームズは暖炉の前の椅子に深く沈み込み、目を閉じた。
しばらくして、彼は静かに言った。
「ワトソン、次はどこへ行くのだろうな」
私には答えられなかった。ただ、また行くのだろうという予感だけが、確かにあった。
******
本作は、アーサー・コナン・ドイル著『シャーロック・ホームズの冒険』および岡本綺堂著『半七捕物帳』への敬意と感謝を込めて執筆しています。
著:コナン・綺堂異流(Conan Kidoyle)




