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ホームズ捕物帳 ~ロンドンの名探偵、江戸に転生して岡っ引きになる  作者: コナン・綺堂異流


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20/23

第二十話:向島の寮に潜む影 〜 The Hound of Mukōjima Villa 〜

一部AIにより作成


挿絵(By みてみん)


【冒頭:ロンドン時代】


一八九六年、六月の雨の日のことである。


ベイカー街は霧雨の中にあった。テムズ河岸から湿った風が這い上がり、窓ガラスに細かい水滴がびっしりと張りついていた。こういう日のロンドンは、空と建物と石畳が同じ灰色に溶け合って、まるで水彩画の途中で筆を止めたような景色になる。


ホームズは暖炉の前に立ったまま、パイプに火をつけることも忘れて、何か考え込んでいた。


「ワトソン」と彼は言った。「監禁というものについて、考えたことがあるかね」


「監禁?」私は書きかけの原稿から顔を上げた。「医師として言えば、閉鎖空間に長期間置かれた人間の心身への影響は深刻だ。光の欠如、運動の制限、外界との遮断——」


「そうではない」ホームズは首を振った。「私が言いたいのは、監禁の技法ではなく、監禁の動機だ。なぜ人は他者を閉じ込めようとするのか」


「支配欲、か。あるいは恐怖——逃げられることへの」


「その通り。監禁する者は常に、逃げられることを恐れている。つまり監禁とは、逃亡を防ぐ手段であると同時に、監禁者自身の恐怖の表れでもある」ホームズはパイプを口に運んだ。「そして監禁される者が、実は外の世界と繋がろうとするとき——ほんのわずかな隙間から光が差し込む。その光を辿れば、必ず真実に届く」


「どこかで事件でも?」


「いや、ただの思索だ」ホームズは微笑した。「しかし、この種の思索は——」


そのとき、玄関の呼び鈴が鳴った。


しかし客が上がってくる間もなく、通りの方から轟音が響いた。走り抜けた自動車が水たまりを跳ね上げ、馬が驚いて暴れ、その蹄が玄関先の石段を砕いた——という後から知れる顛末だったが、その瞬間、私は衝撃で窓際の椅子ごと倒れ、頭を打った。


意識が遠のく中で、ホームズの声が聞こえた気がした。「ワトソン——」


そして私は、別の場所にいた。




******




【本編:江戸での事件】


——和登三太の語り——


慶応けいおう二年——西暦でいえば一八六六年——の六月、梅雨の盛りのことである。


気がついたとき、私は向島むこうじまの渡し場近くにいた。


向島というのは、隅田川すみだがわの東岸に広がる土地で、江戸の人々に愛された行楽地だ。春は桜の名所として賑わい、夏は涼を求める人々が川沿いの料亭に集う。しかしこの梅雨の時期は、どんよりとした曇り空の下に広がる青々とした草と、しとしとと降り続ける雨が、どこか別世界めいた静けさをこの土地に与えていた。


水かさの増した隅田川が、鈍い銀色に光っている。


渡し場——川を小さな渡し船で横断するための乗り場で、ロンドンのフェリー乗り場に当たる——の杭に、捕霧七ほむしちが背中を預けて煙管きせるを吸っていた。雨の中に煙が溶けていく。


「三太、梅雨の向島は初めてか」


「初めてです」と私は答えた。草履ぞうり——藁や竹皮で編んだ平らな履き物で、足の甲に鼻緒を通して履く——が濡れていた。ロンドンのブーツとは当然ながら、雨との相性が著しく異なる。


「向島は梅雨が似合う」と捕霧七は言った。「ちょうど事件も、梅雨に似た案件が持ち込まれてきたところだ」


「どんな案件ですか」


「閉じ込められた女の話だ」


私は思わず、ロンドンでのホームズの言葉を思い出した。監禁される者は、ほんのわずかな隙間から光を外へ送ろうとする——。




******




事の発端は、二日ほど前に遡る。


神田かんだ生薬屋きぐすりやを営む平兵衛へいべえという男が、捕霧七のもとに相談に来た。生薬屋というのは、漢方の薬材を扱う薬屋で、ロンドンの薬剤師アポセカリーに相当するが、西洋医学ではなく中国伝来の医術の薬を扱う点が異なる。


平兵衛の話はこうだった。


店の女中、おとくの妹に、おつうという娘がいる。お通はこの春から、向島の奥深くにある、とある大家の寮に奉公に出た。年に三両という給金につられて——ということだった。


三両というのは、この時代の女中の給金としては破格だ、と私は後で知った。江戸の貨幣制度では、一両が四分、一分が四朱しゅ、そして銅貨の寛永通宝かんえいつうほうが日常の小銭に使われる。一両は今日の価値に直せば十万円前後という感覚で、年三両というのはロンドンで言えば相当な高給に当たる。


だがそのお通が、「気味が悪いので奉公を辞めたい」と言い出した、というのだ。


「どんな仕事をしているのですか」と捕霧七は平兵衛に訊いた。


「それが……寮には大きな土蔵どぞうがあって、中に大蛇だいじゃが祀ってある、と言われているそうで。お通の仕事は、その土蔵に毎日食事を届けることだというのです」


「大蛇を祀る土蔵に、食事を」私は思わず言った。


「ええ。扉の前に置くだけで、中を見ることは禁じられていると。それだけでもずいぶん気味が悪いのですが——ある日、土蔵の二階から若い娘が顔を出して、お通に声をかけたというのです」


「土蔵の二階に、人が」


「ええ。娘はお通に何かを言いかけたが、すぐに寮番りょうばん——寮を管理する夫婦——に見つかって、引っ込められてしまった。そしてその夜、寮番の夫婦がお通を呼びつけて、あの土蔵に押し込めるぞと脅したというんです」


捕霧七は静かに煙管の雁首がんくびを指で回した。ロンドン時代のパイプをひねる、あの思索の仕草だ。


「その寮は、誰の所有ですか」


米問屋こめどんや三島みしまという大店おおみせのものだと聞きます」


捕霧七の目が、静かに光った。




******




土蔵どぞうというのは、江戸の重要な建物の一つで、説明が必要だろう。


厚い土壁と漆喰しっくいで作られた、防火・防盗のための頑丈な蔵だ。ロンドンの石造りの倉庫に似ているが、木造の多い江戸において、この土壁の建物だけは火事にも比較的強い。商家の大切な商品や帳簿、武家の武具や証文などが納められ、二階建てのものもある。


大蛇を祀る、という話は、一見すると怪談めいている。しかし江戸には確かに、蛇や狐を御神体として祀る習俗があった。大きな蛇が土蔵に住み着くことを、その土地の守護として喜ぶ家もある。


だが——土蔵の二階に、人の娘がいた。


「捕霧七さん」と私はその夜、神田に戻る渡し船の中で訊いた。「三島の大店に、何か心当たりがあるのですか」


「ある」と彼は短く答えた。「三年前の話だ。三島の娘が、奉公人の男と駆け落ちをした。三島の主人は怒り狂ったが、娘の行方は知れなかった——と、その頃に少し耳にした話だ」


「三年前に消えた娘が……向島の寮の土蔵にいる?」


「大蛇というのは、つまり娘が外に出ないための口実だ。蛇が祀られているという土蔵に、誰が近づくか。おそらく実際に蛇がいるかもしれない——それで話の信憑性を保ちつつ、娘を閉じ込めている」


私は雨の隅田川を眺めながら、ホームズの言葉を再び思い出していた。


監禁する者は、逃げられることを恐れている——。


「三島の主人が娘を閉じ込めた、と」


「あるいは主人の意を受けた誰かが。動機はおそらく、体裁たいさいだ」


体裁というのは、日本社会における「世間体」——他者からの評判や体面を保つことへの強いこだわり——を指す概念で、ロンドンの「社会的評判(reputation)」よりもさらに強制力を持つ、と私はこの江戸暮らしで学んでいた。商家の娘が身分の低い奉公人と逃げたという事実は、三島の家名に深い傷を刻む。それを世間から隠すために、娘を囲い込んだのかもしれない。


「しかし、なぜ今になって」と私は訊いた。「三年も経って、なぜ今お通が——」


「お通が娘の声を聞いたからだ。娘は今も諦めていない。ほんのわずかな隙間を見つけて、外へ向かおうとした」


捕霧七は煙管の煙を雨の中へ吐き出した。


「あの娘が声をかけた相手が、たまたまお通だったことが——この事件の始まりだ」




******




翌日、私たちは向島に戻った。


梅雨の向島は、さらに深い雨の中にあった。隅田川を渡る風が湿った草の匂いを運び、遠くで蛙の声がする。春の行楽地とはまるで別の、ひっそりとした土地の顔が、そこにあった。


捕霧七はあらかじめ、辰吉たつきち松吉まつきちを別の方向から向島に入らせていた。こういう遠出の捜査において、子分たちの動きは欠かせない。彼らは日頃から顔が知られていないため、不審に思われずに情報を集めることができる。


私たちは向島の外れにある、三島の寮の周囲を遠巻きに見て回った。


りょうというのは、江戸の大店や大家が所有する、郊外の別宅のことだ。主人が夏の暑気払いに使ったり、奉公人を休息させたりするための、比較的贅沢な別荘だ。ロンドンの「カントリーハウス」ほど大規模ではないが、庭があり、池があり、大きな土蔵を構えることもある。


三島の寮は、竹林ちくりんに囲まれた、広い敷地の奥にあった。


竹林の向こうに、白壁の土蔵がかすかに見える。二階建てで、小さな格子窓こうしまどがある。あの窓から、娘が顔を出したのだろうか。


「格子窓の位置を見ろ」と捕霧七は小声で言った。「南向きだ。陽の光が最もよく差し込む方向だ。娘は意図的に、その窓際にいたのかもしれない」


「外を見るために?」


「外を見ること自体が、希望だ」


その言葉が、私の胸に静かに刺さった。




******




昼過ぎに、辰吉が戻ってきた。


「親分、わかりました。三島の旦那が五年前から向島の寮番に使っている夫婦は、与兵衛よへえとおかよという者です。与兵衛は元は三島の出入り職人で、口の堅いことで知られている。おかよは気性が荒くて、奉公人が逃げるような女だという話です」


「お通が脅された、というのはおかよか」


「おそらく。それと——面白いことがわかりまして。今朝、三島の本店から手代てだいが一人、向島へ向かったそうです。何か変わったことがあったのかもしれません」


手代というのは、商家において番頭ばんとうの下に位置する上級奉公人で、主人の信任を受けて外回りの仕事を担う。ロンドンの商会でいえば上席書記(senior clerk)に近い存在だ。


「お通がお徳に相談し、お徳が平兵衛に話し、平兵衛が私のところへ来た——という話の流れを、三島側がどこかで知った可能性がある」と捕霧七は言った。「手代が動いたとすれば、向島の寮で何かが変わるかもしれない。急ぐ必要がある」


「急ぐ、とは」


「今夜、踏み込む」


私は思わず息を吞んだ。


「踏み込む、といっても——私人が他人の寮に入るのは……」


「岡っ引きには、同心の預かりとして、不審な場所に立ち入る権限がある」と捕霧七は言った。「田村たむら同心に話をつけてある。今夜、同心を伴って正面から入る。大蛇というのが何であれ——娘がいるとすれば、保護する」


江戸における捜索入室の権限は、今の私にはまだよくわからないところがある。ロンドンの令状(warrant)制度とは異なり、江戸では同心の判断と岡っ引きの現場感覚が実質的な捜査権限の根拠となることが多い。厳密な法手続きより、現場の裁量に委ねられる部分が大きいのだ。




******




その夜、雨は一時小降りになった。


私たちは田村同心と辰吉・松吉を伴い、提灯を手にして三島の寮の門を叩いた。


提灯ちょうちんというのは、竹の骨組みに薄い和紙を貼り、中に蝋燭ろうそくを立てた携帯用の照明具だ。折り畳めるものもある。ロンドンの角灯ランタンに似ているが、はるかに軽く、しかし風雨にはもろい。この夜は小降りになったとはいえ、提灯の炎は絶えず揺れていた。


門を開けた与兵衛の顔が、提灯の明かりに照らされた瞬間、青くなった。


「南町の田村だ」と同心が言った。「不審な届けがあって参った。土蔵を見せてもらう」


「そ、それは……旦那様のお許しなくしては……」


「令状に相当する書状はある。開けなければ、拒否として扱う」


与兵衛は震える手で鍵を取り出した。


おかよが奥から飛び出してきたが、松吉がその前に立ちふさがった。


土蔵の扉が開いた。


確かに、一階には大きな蛇がいた——脱皮した皮と、古い餌の痕が残っていた。本物の大蛇が、土蔵の一角に棲んでいたのだ。捕霧七はそれを一瞥して、迷わず階段を上った。


二階の扉の前で、彼は一度立ち止まり、静かに声をかけた。


「おきわさん。私は捕霧七という岡っ引きです。あなたを助けに来た」


しばらく間があった。


それから、扉の内側で、かすかな音がした。


扉が細く開いた。


薄暗い中に、やつれた顔の、しかし目だけが強く光っている若い女がいた。年のころ二十二、三——三年間、この土蔵に閉じ込められていた娘だった。


「……本当に、助けてもらえますか」


「本当に」と捕霧七は静かに答えた。


女の目から、涙が落ちた。それだけだった。声も、言葉も、もうなかった。




******




おきわが保護された後、事の顛末はすぐに明らかになった。


三年前、おきわは三島の手代の一人と恋仲になり、二人で逃げようとした。しかし三島の主人に先回りされ、手代は遠方へ奉公替えさせられ、おきわは向島の寮に連れてこられた。


主人は世間に対して「娘は病気で療養中」と言い続けた。寮番の与兵衛とおかよは、それを知りながら三両の年給で黙認していた。


大蛇は最初から土蔵にいたが、三島の主人はそれを逆に利用した。蛇がいると言えば、誰も近づかない。おきわの食事を運ぶ役だけを女中に任せ、二階には上がらせない——その役目は、お通が来るまで続いていた。


「おきわが声をかけたのは、衝動だったと思います」と私は捕霧七に言った。「三年間、諦めきれなかった」


「あの格子窓から毎日、南の空を見ていたのだろう」と捕霧七は答えた。「光に向かって顔を出す——それが彼女の唯一の抵抗だった」


田村同心の尽力で、三島の主人は取り調べを受けることになった。


江戸の法において、娘を無理やり監禁した家長の罪は、今の私には判断しかねる複雑さがある。親権ふたのけんというべき家父長の権威が、江戸では非常に強く、ロンドンとはまた異なる。しかし町奉行所の裁量において、度を越えた拘禁は罰せられることがある。


おきわがどこへ行くのか、手代の男と再会できるのか——それは私には知る由もなかった。しかし彼女が土蔵から出て、梅雨の雨の中に立ったとき、その顔に浮かんだ表情を、私は長く忘れないだろうと思った。


雨を、空を、川風を——全身で受け取るような顔だった。


「三太」と捕霧七が言った。「人を閉じ込める者は、必ず自分も何かに閉じ込められている」


「三島の主人が、何かに?」


「体裁と、恐怖と、過去の判断への固執に」彼は煙管の煙を雨の中へ吐き出した。「人の心の土蔵というのは、扉を開けてくれる者がいなければ、中の者も外の者も、等しく閉じ込められていく」


向島の竹林が、梅雨の風に揺れた。


雨の音が、しばらく私たちの沈黙を包んでいた。




******




【結末:ロンドン時代】


気づくと、私はベイカー街の居間の床に倒れていた。


暖炉の火が揺れていた。雨は続いている。


ホームズが私の傍らにしゃがみ込んでいた。


「ワトソン、頭を打ったが、大丈夫か」


「大丈夫だ」と私は言いながら起き上がった。「妙な夢を見た」


「向島の話かね」


「やはり君も見ていたのか」


「見ていた」ホームズは立ち上がり、暖炉の前に戻った。「あの女が土蔵から出たとき——雨の中に立ったとき——の顔を見たか」


「見た」と私は答えた。「あの顔は、忘れられない」


「私もだ」ホームズはパイプに、今度はきちんと火をつけた。「ワトソン、監禁というのは、身体だけのことではない。私がさっき言いかけていたのはそのことだ——人は恐怖や体裁や過去の判断の中に、自分自身を閉じ込めることがある。外から鍵をかけられなくても」


「自分の心の土蔵に、か」


「そう」ホームズは窓の外の雨を見た。「そしてその鍵を開けるのは、多くの場合、外から声をかけてくれる誰かだ。お通という女中が、偶然にも声をかけられた側だったように——我々も時に、その声をかける側になれる」


窓の外では、ロンドンの六月の雨が、まだ静かに降り続けていた。


「次はどこへ行くのだろう」と私はつぶやいた。


「江戸には、まだ解かれていない鍵がたくさんある」とホームズは言った。「雨が降るたびに、少し近づく気がする」




******




本作は、アーサー・コナン・ドイル著『シャーロック・ホームズの冒険』および岡本綺堂著『半七捕物帳』への敬意と感謝を込めて執筆しています。




著:コナン・綺堂異流(Conan Kidoyle)

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