第十八話:闇の槍突きの冒険 〜 The Adventure of the Spear in the Dark 〜
一部AIにより作成
【冒頭:ロンドン時代】
一八九四年、九月のことである。
ベイカー街の居間は、その夜、妙に物騒な雰囲気をおびていた。
テーブルの上には槍——正確には中世の騎士が用いたランスの模型——が横たわり、その傍らにホームズが虫眼鏡を手にして座っていた。どこかの博物館が鑑定を依頼してきた品だということだったが、蝋燭の明かりの中でその穂先を眺めているホームズの顔は、いつもより険しかった。
「ワトソン」と彼は言った。「暗闇の中から突然、見知らぬ相手に刺されたとしたら、どう感じると思う」
「恐怖の極みだろう」と私は答えた。「刺客の顔も、動機も、なにもわからない。それほど不条理な暴力はない」
「不条理な暴力」ホームズは穂先から目を離さずに繰り返した。「だが、暴力には必ず理由がある。不条理に見えるのは、われわれがまだ文脈を知らないからに過ぎない」
「文脈、か」
「そう。どんな奇怪な事件も、糸を一本ずつ辿れば、必ず人間の情念という根に行き当たる。槍で夜の往来を刺す者がいるとすれば、その槍の先に、必ず何らかの物語がある」
ホームズはそこで初めて穂先から顔を上げ、私を見た。
「ワトソン、今夜は少々霧が濃い。窓を閉めておいてくれないか」
私が立って窓に向かった瞬間——外から凄まじい轟音が響いた。
後でわかったことだが、向かいの建物のガス管が爆発したのだった。衝撃波が窓ガラスを内側に吹き飛ばし、私はホームズとともに破片の雨の中に倒れ込んだ。
意識が遠のいた。
そして——気がつくと、私はまったく別の場所にいた。
******
【本編:江戸での事件】
——和登三太の語り——
文政八年——西暦でいえば一八二五年——の秋のことである。
私が目を覚ましたのは、江戸の下町、本所あたりの土手の上だった。
本所というのは、隅田川の東側に広がる低地で、江戸の東郊外にあたる。ロンドンで言えばテムズ川の東側、イーストエンドに似た雰囲気——庶民的で、少々雑然とした——だが、あちらほど陰惨ではなく、広々とした空と川風が心地よい土地だ。
秋の夜風が、土手の葦を揺らしていた。
「遅い目覚めだ、三太」
傍らで捕霧七が、煙管に火をつけながら、涼しい顔をして言った。着物の腰には十手と煙草入れが並んでいる。江戸に来るたびに思うのだが、この男はどんな場所に転生しても、まるで最初からそこにいたような顔をしている。ホームズ時代から変わらぬ、不思議な適応力だ。
「何か事件ですか」と私は訊いた。土手の草に腰を下ろしたまま、まだ頭がぼんやりしている。
「ある」と彼は答えた。「それも、なかなか厄介な」
厄介、とは捕霧七の口から出ることの珍しい言葉だった。
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その頃の江戸では、「槍突き(やりつき)」と呼ばれる怪事件が続発していた。
夜の往来や橋の上で、闇の中から突然、槍のような刃物で通行人を刺す、という事件が相次いでいたのである。それも、殺すことを目的としているわけではない。傷つけて、そのまま闇に消える。被害者は、刺したものの顔をまったく見ていない。月のない暗夜を選び、ほんの一瞬だけ現れる幽鬼のような犯人——江戸の下町の人々は恐怖に震えていた。
私はこの「槍突き」という言葉に、ロンドン仕込みの医師として職業的な関心を抱いた。
「槍といっても、本当の槍ではないのですか」と私は捕霧七に訊いた。
「おそらく矛先のついた長い棒だ。傷の形から、そう判断した。ここに来る前に、被害者のひとりを診た同心から話を聞いていた」
「なぜ殺さないのでしょう。殺すつもりなら、充分に殺せる距離と武器があるはずです」
「そこだ」捕霧七は煙管の煙を静かに吐き出した。「殺さないのではなく、殺す必要がないのかもしれない。あるいは——刺すこと自体が目的なのかもしれない」
それは、ロンドンで私たちが議論した「文脈」の問題だった。
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江戸の夜の闇というのは、ロンドンのそれとは異なる種類の闇だ、と私はいつも感じる。
ロンドンには至る所にガス灯があり、霧の夜でも橙色の光が街を薄ぼんやりと照らしている。しかし江戸の夜は、ほとんど光がない。月や星の明かりだけを頼りに人々が動き、提灯——竹の骨に和紙を貼り、中に蝋燭を入れた携帯用灯り——を手に持つのが精一杯だ。だから暗夜に起こる事件は、目撃者を得ることが極めて難しい。
江戸の治安維持の仕組みを、少し説明しておこう。
町奉行所の下には、与力と同心という二種類の役人がいる。与力は上位の士分で管理職に当たり、同心が実際に町を巡回する。ロンドンの警察制度と比べると、与力が警察署長、同心が現場の刑事、という感じか。そして私たちのような岡っ引は、同心から十手を預かった民間の協力者で、公式の身分はないが、町の情報網という点では最も現場に近い存在だった。
この「槍突き」事件を担当している同心は、田辺という五十がらみの堅実な男で、長年捕霧七と仕事をしてきた間柄だった。
「捕霧七、困ったことになった」と、田辺同心が私たちの長屋を訪ねてきた夜、開口一番そう言った。「また槍突きが出た。それだけならまだしも——今度は妙な話がついてきた」
「妙な話?」と捕霧七は煙管を置かずに訊いた。
「ある晩、女が乗った駕籠が槍突きに突かれた。御者が大騒ぎして、駕籠の垂れ幕を開けてみると……」
「中に女がいた」
「それが……女の姿はなかった。代わりに、黒猫が一匹、刺されて死んでいた」
私は思わず田辺同心と顔を見合わせた。
「猫が……」
「黒猫が駕籠の中に乗っていて、槍で刺されて死んでいた。女はどこへ消えたかわからない。駕籠かきたちは青くなって逃げ出してしまったし、その後しばらくは夜道の駕籠を引き受ける者がいなかった」
駕籠というのは、江戸の乗り物である。竹と木で組んだ箱を、前後から二人の男が担ぎ棒で担いで運ぶ。ロンドンのセダン・チェアに似ているが、垂れ幕で周囲を覆い、中の人物が外から見えない構造になっている。特に女性の外出に多く使われた。
「垂れ幕の外から刺した、ということは……」と私は言った。「槍突きは、駕籠の中に女がいると思って刺した。しかし実際にいたのは猫だった」
「そういうことになる」
捕霧七は長い沈黙の後、静かに口を開いた。
「田辺さん、そのとき駕籠の近くに、人影はなかったですか」
「ある老練な岡っ引がいた。七兵衛という男で……彼も槍突きを追っていた。その夜、土手に一人の女がいることに気づいて声をかけた。すると女は突然、七兵衛の手に一撃を加えて姿を消した。その直後に槍突きが出た、と七兵衛は言っている」
「七兵衛さんに会えますか」
「会える。ただし……七兵衛は今、少々気落ちしていてな。長年この仕事をしてきた男が、女ひとりに不覚を取ったということで」
「わかりました。明日、会いに行きましょう」
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七兵衛は本所の瓦町に住む、年のころ六十がらみの古参の岡っ引だった。
長屋の一室に通されると、ひどく萎れた様子の老人が、膝に手を置いて座っていた。顔には深い皺が刻まれ、目の下が黒ずんでいる。長年の風雪をその顔に刻んだ人物だとわかるが、今は何か大きな自信を打ち砕かれたような様子だった。
「捕霧七さんか。話は聞いている」七兵衛は私たちを見て、かすかに頭を下げた。「恥ずかしいところを見せてしまった。女ひとりに、こう……」
七兵衛は右手首を見せた。打撲の痕が青黒く残っている。
「どんな女でしたか」と捕霧七は訊いた。
「年のころ三十前後。痩せた、目の鋭い女でした。着物の裾を高く絡げて、素足だった。こんな寒い夜に素足というのは、ただの女ではないと思いましたが……まさか手が出るとは」
「素足」と捕霧七は繰り返した。「裾を絡げて、素足」
「ええ。まるで……男のような身のこなしで」
捕霧七は煙管の雁首を、あの癖でゆっくりと指の間で回した。
「七兵衛さん、もう一つ訊かせてください。その女が現れた場所は、いつも槍突きが出る場所と、どういう位置関係にありましたか」
七兵衛は少し考えた。「そういえば……女のいた場所は、必ず槍突きが出る場所より、少し手前でした。土手の上と、土手の下とでいうなら、女は上にいて、槍突きは下から出てきた」
「女が見張り役だ」と捕霧七は静かに言った。
七兵衛の目が、老いながらも鋭く光った。
「……あの女が、槍突きに合図を送っていた、と?」
「そう考えるのが自然です。あなたが女に声をかけたとき、女はあなたを敵と判断して一撃を加え、逃げた。仲間の槍突きへの合図が遅れたか、あるいは槍突きはその混乱の中であえて飛び出してきた」
「なぜ逃げずに?」
捕霧七は少し間を置いた。
「それもわかる。七兵衛さん、あなたが不覚を取ったのは、あなたが弱かったからではない。女が並外れて強かったからでもない。あなたが女を傷つけることをためらったから、だ。岡っ引の本能として、女に対しては一瞬、手加減が働く。その隙を突かれた。これは恥ではない」
七兵衛は黙って俯いた。しかし、その顔から少しだけ、重たいものが剥がれたように見えた。
「……この事件、捕霧七さんに任せてもいいか」
「お任せください」
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私たちが長屋に戻ったのは夕刻で、行灯を灯して食事を取りながら、捕霧七は指を折って事件を整理し始めた。
行灯というのは、油皿に灯心を浸して火をともし、和紙張りの箱に収めた照明具だ。揺れる炎が障子に影を作り、その光の中でこの男が思索するさまは、ロンドンでバイオリンを抱えて暖炉の前に座るホームズの姿と、妙にだぶって見えた。
「三太、槍突きには二つの謎がある」と彼は言った。「ひとつは、誰が、なぜやっているのか。もうひとつは、黒猫の謎だ」
「黒猫の方から考えましょうか」
「いや、これは繋がっている。駕籠の中に女の代わりに黒猫がいた、ということは——駕籠に乗っていた女は、刺される前に消えた。消えたということは、駕籠の中にいなかった。ということは、女は駕籠に乗っていなかったか、あるいは途中で抜け出したかだ」
「垂れ幕を上げれば、外から見えずに出られる?」
「狭い駕籠だが、身軽な者なら可能だ。そして代わりに黒猫を残した。これは偶然ではない。意図的に猫を入れた、と考えた方がいい」
「なぜそんなことを」
「人を怖がらせるためだ、三太」捕霧七は静かに言った。「江戸の人々は迷信を信じる傾向がある。いきなり駕籠の中から黒猫の死骸が出てきたら、御者も目撃者も「化け物の仕業だ」と恐れをなして逃げる。証人がいなくなれば、犯人は安全だ。しかも、黒猫というのは江戸では不吉の象徴とされているから、噂が広まれば広まるほど、まともな捜査の邪魔になる」
「なるほど……槍突き自体も、その恐怖の一部か」
「そう。これは単なる辻斬り(つじぎり)や強盗ではない。特定の誰かを、特定の目的のために、狙っている」
「特定の誰かを?」
「黒猫の入った駕籠に乗っていた——あるいは乗っているように見せかけた——女が鍵だ。その女の身元を探れば、すべての糸口が見えてくる」
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翌日から、私たちは動いた。
まず駕籠かきの聞き込みを、辰吉という子分に頼んだ。辰吉は身軽な若者で、町の人脈が広い。江戸の下町では、こういう顔の広い「子分」の存在が、捜査の生命線だった。
江戸の情報網というのは、ロンドンのそれとまた異なる特徴がある。ロンドンでは新聞が情報を伝えるが、江戸では識字率がロンドンに比べて高いにもかかわらず、口伝えの噂が圧倒的な速さで広まる。瓦版——木版刷りの一枚刷り新聞——もあるが、速報性という点では、人の口の方が早い。岡っ引の仕事の半分は、こうした噂の海の中を泳ぐことだ、と私はこの江戸生活で学んでいた。
辰吉は半日ほどで戻ってきた。
「親分、駕籠かきを見つけました。あの夜の駕籠を担いでいた者です」
その男——三十がらみの駕籠かき——は、まだ半ば怯えた顔をしていたが、捕霧七の落ち着いた物腰に、少しずつ口を開いた。
「あの女を拾ったのは、深川の入り口あたりです。暗くてよく顔がわかりませんでしたが、声からして若い女でした。本所の某という旗本の屋敷まで、と言われて担いだんですが……途中で急に軽くなった気がして、変だと思いながらも歩いていたら、突然外から突かれて……」
「外から突かれる前に、駕籠が軽くなった」と捕霧七は確かめた。「それはどのあたりですか」
「土手の手前の辻で……少し風が強くなったとき、垂れ幕が揺れたんです。そのときかもしれません」
「旗本の屋敷の名は」
「藤島様とおっしゃっていました。本所の……」
捕霧七の目が、また静かに光った。
「三太、藤島という旗本に、心当たりはあるか」
「ない」と私は首を振った。
「しかし、七兵衛さんにはあるかもしれない。もう一度、七兵衛さんを訪ねよう」
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七兵衛は、藤島という名を聞いて、顔色を変えた。
「藤島……藤島紋三郎のことですか」
「御存知で」
「知っている。二年ほど前まで、本所にいた旗本だ。今はどこにいるかわからないが……あの男には、厄介な過去がある」
七兵衛は重い口で語り始めた。
藤島紋三郎は、本所に屋敷を持つ小旗本——知行の少ない、下位の直参武士——だったが、二年ほど前に賭博の負けがかさんで屋敷を失い、どこかへ消えたという。その賭博の場に、槍の遣い手として知られる浪人——主君を持たない武士——がいた。名を駒形の紋次という。
「紋三郎と紋次」と私は言った。「名前が似ている」
「血縁があるという噂だった」と七兵衛は言った。「兄弟か、父子か……詳しくはわからない」
「そして、槍突きの被害者たちに共通点は?」と捕霧七は訊いた。
七兵衛はしばらく考えた後、ゆっくりと首を縦に振った。
「……言われてみれば。被害者の中に、両替商の手代が二人いた。それと、ある口入れ屋の者が一人」
両替商というのは、金銀銭を両替する金融業者で、ロンドンの銀行に近い存在だ。口入れ屋は、奉公人や職人の斡旋を業とする者——今でいえば人材紹介業だろうか。
「藤島が賭博で負けた先に、それらの業者が絡んでいるのでは」
「……あるかもしれん」
捕霧七は静かに立ち上がった。
「三太、今夜、土手に行く」
「槍突きを待ち伏せするつもりですか」
「迎えに行く、と言いたい」
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その夜、私たちは本所の土手に出た。
文政の秋の夜は深く、月はなかった。遠くで水鳥の声がする。隅田川の流れが、闇の中で低く音を立てている。
私は薄い着物の上に羽織を重ねて、震えを抑えていた。羽織とは着物の上に重ねる短い上着で、ロンドンのジャケットに相当するが、前が開いていて帯で締めない。男性が礼装や防寒に用いる。
捕霧七は土手の下の暗がりに私を待たせ、自分は土手の上に立った。
提灯を一つ持って、わざと目立つように立っている。
「囮になるつもりですか」と私は小声で言った。
「必要なことだ」と彼は答えた。「三太、医師として準備はいいか」
「いつでも」
「ならば、何が起きても驚くな」
長い沈黙が続いた。
川風が冷たく、葦が揺れるたびにさわさわと音を立てた。私は闇の中で息を殺し、目を細めて辺りを窺った。
そのとき——土手の斜面のどこかから、黒い影が動いた。
長い棒を手にした人影が、音もなく土手の上へ向かっている。捕霧七の提灯の光を目指して。
「そこまでだ」と、私の隣から声が上がった。
七兵衛だった——捕霧七があらかじめ、別の場所に潜ませていたのだ——老人が地面から立ち上がり、十手を構えた。
人影は一瞬、動きを止めた。
それが致命的な隙となった。
捕霧七が土手の上から飛び降り、人影の長棒を横から蹴り払った。乾いた音がして、棒が土手の斜面を転がり落ちた。人影は抵抗したが、捕霧七の腕力と七兵衛の十手の挟み撃ちに、あっという間に組み伏せられた。
私が提灯を近づけて顔を照らすと——三十代の、痩せた男だった。目に怨念のような光を帯び、しかし同時に、何か深い疲弊の色も混じっていた。
「駒形の紋次か」と七兵衛が言った。
男は答えなかった。しかし、否定もしなかった。
「女は、藤島紋三郎の妹か」と捕霧七は訊いた。「兄の借財を取り立てた者どもへの、恨みからか」
男はゆっくりと目を閉じた。
「……殺すつもりはなかった。ただ……怖がらせるだけで、よかった。兄が死んだのは、あの連中のせいだ」
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すべてが明らかになったのは、その翌日のことだった。
藤島紋三郎は、賭博の借財を返せずに追い詰められ、半年前に自害していた。借財の取り立てを行ったのが、槍突きの被害者たちの雇い主——両替商と口入れ屋——だったのだ。
駒形の紋次は、紋三郎の遠縁に当たる浪人で、槍術の使い手だった。妹のおもと(紋三郎の娘)とともに復讐を企て、殺さずに傷つけ恐れさせることで、取り立て連中への示威とするつもりだったという。
黒猫の一件は、おもとが自分に尾行者がついていることに気づき、駕籠の中から素早く抜け出した際に、普段飼っていた猫を、とっさに置いていったものだった。猫を利用するつもりはなかったが、結果として噂が広まり、捜査を混乱させることになった。
「哀れな話だ」と、田辺同心は書類をまとめながら言った。「紋次とおもとは引き渡さなければならないが……」
「お上の仕事はそこまでです」と捕霧七は静かに言った。「あとは、裁く者が判断する」
江戸の裁判制度では、町奉行が裁判官も兼ねており、情状酌量の余地もあった。すべてが英国の陪審制と同じではないが、人の情けを汲む仕組みが、江戸の法にもないわけではない。
私は帰り道、捕霧七と並んで土手を歩いた。
隅田川の水面が、秋の夕日を受けて橙色に光っていた。川向こうに、江戸の町の煙が静かに昇っている。あそこに何万もの人が暮らし、それぞれの事情と悲しみを抱えて生きている。
「捕霧七さん」と私は言った。「復讐というのは、正しいと思いますか」
「正しくはない」と彼はすぐに答えた。「しかし、理解はできる。その二つは、別のことだ」
「ホームズ時代のあなたも、同じことを言ったはずだ」
「そうかもしれん」彼は煙管を口にくわえた。「人の情念というものは、ロンドンでも江戸でも、同じ形をしている。場所が変わっても、人間が変わるわけではない」
夕暮れの土手に、鳥が一羽、鳴いて飛んで行った。
七兵衛が最後に言った言葉を、私はずっと胸の中で反芻していた——「捕霧七さんのおかげで、まだこの仕事を続けられる」。
老いた岡っ引の、その一言が、この江戸での仕事の意味を、私に教えてくれた気がした。
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【結末:ロンドン時代】
気づくと、私はベイカー街の居間にいた。
窓ガラスは砕け、外の風が吹き込んでいた。ガス爆発の後だということが、散らばった破片でわかった。ホームズは肘掛け椅子の傍らで膝をついており、私を見て、ゆっくりと立ち上がった。
「ワトソン、大丈夫か」
「大丈夫だ」と私は答えた。「奇妙な夢を見ていた」
「江戸の夢か」
「また、か」
「また、だ」ホームズはテーブルの上の槍の模型を見た。槍の模型は爆風で少し傾いていたが、壊れてはいなかった。「ワトソン、暗闇の中から刺すという行為の動機について、我々は議論していたね」
「文脈の話だったね。どんな暴力にも、理由がある、と」
「江戸にも、そういう男がいた」ホームズは静かに言った。「哀れな男が。しかし彼は結局、誰も殺さなかった。それは重要なことだ、ワトソン。殺せたのに殺さなかった——それは弱さではなく、彼の中に最後まで残っていた何かだ」
「人間性、とでも言うか」
「情、と呼ぶ方が江戸らしいかもしれん」ホームズは微かに笑った。「さて、窓の修理を頼まなければならない。ワトソン、ハドソン夫人を呼んでくれないか。いや——その前に一つ」
「何か」
「次に江戸に行くときは、もう少し暖かい季節がいい。秋の土手の夜は、少々堪えた」
私は思わず笑った。
ベイカー街の外では、九月のロンドンの風が、砕けた窓枠を揺らしていた。
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本作は、アーサー・コナン・ドイル著『シャーロック・ホームズの冒険』および岡本綺堂著『半七捕物帳』への敬意と感謝を込めて執筆しています。
著:コナン・綺堂異流(Conan Kidoyle)




