第十七話:三河万歳の符牒 〜 The Sign of the Mikawa Manzai 〜
一部AIにより作成
【冒頭:ロンドン時代】
一八九三年、一月の深夜のことである。
ベイカー街の居間では、暖炉がいつもの赤い舌を出して燃えていた。ホームズは机の前に腰を据え、一枚の紙に何やら記号のようなものを書き連ねていた。傍らには化学の試験管が三本、怪しい色の液体を満たしたまま並んでいる。
「ワトソン」と彼は突然、顔を上げもせずに言った。「人が笑うという行為について、考えたことがあるかね」
「笑う?」私はパイプを口から離した。「それはずいぶん唐突な問いだ」
「唐突ではない。私はいま、道化師について調べている」ホームズは試験管のひとつを光にかざした。「道化師というのは、他者を笑わせることを生業とする人間だ。しかし、その笑いの裏側に何があるかを考える者は少ない」
「笑いの裏側?」
「苦痛だ、ワトソン。笑いというのは、多くの場合、苦痛の変換なのだよ」
私は暖炉の火を眺めながら、しばらくその言葉の意味を考えた。ホームズのこういう不意打ちの哲学は、医師の論理的な思考とはまた別の何かを、いつも私の中に揺り動かす。
「つまり、道化師は何かを隠しているということか」
「あるいは、道化師の演じる笑いそのものが、一種の暗号だということだ」ホームズは紙を私に向けた。「この符牒の意味がわかるかね」
紙の上には、奇妙な波線と点の組み合わせが並んでいた。
「さっぱりわからない」
「これは、ある芸能集団の間で使われている隠し記号だ。表向きは祝い言葉を唱える旅芸人だが——」
その先を、ホームズは言い終えなかった。
外から凄まじい爆発音が響いた。ガス管の破裂だった——後になってそうわかった。爆風がガラス窓を砕き、私たちは飛んでくる衝撃を受けて……気を失った。
気がついたとき、私はどこか別の場所にいた。
******
【本編:江戸での事件】
——和登三太の語り——
文久三年、師走の二十七日の朝のことである。
私が目を覚ましたのは、神田は鎌倉河岸のほとり、荷揚げ場の近くにある路地であった。師走——旧暦の十二月のことで、今でいえば一月下旬から二月のはじめに当たる——の冷気が、石畳ならぬ土の地面から這い上がってくる。
鎌倉河岸というのは、神田川沿いにある荷揚げの場で、材木や米俵が行き交う賑やかな場所だ。ロンドンのテムズ河の波止場に似た雰囲気があるが、煉瓦ではなく木の板囲いで、荷役の男たちが掛け声とともに荷を担いで行き来している。
傍らに、捕霧七がいた。
いつものように、すでに起き上がって周囲を観察している。着物の胸元から煙管を取り出し、火も付けずに口にくわえながら、じっと何かを見つめていた。
「三太」と彼は言った。「あそこを見ろ」
彼が顎で示した先、路地の出口に近い場所に、人だかりができていた。
私たちが近づくと、地面に若い男が倒れていた。年のころ二十五、六だろうか。顔色は蒼く、すでに息がない。町人風の着物をまとい、その右手には、鼓を打ち続けた者にだけできる、独特の胼胝があった。
しかし、それよりも私の目を引いたのは、男の腕の中に抱かれていた赤ん坊であった。
三ヶ月ほどの嬰児で、まだかろうじて息がある。産着にくるまれ、男の胸の上で小さく震えている。普通であればそれだけで十分に奇妙だが——その赤ん坊の口の中に、ありえないものが覗いていた。
牙であった。
乳歯でも永久歯でもない、まるで獣のような尖った歯が、上顎に二本、生えていたのだ。
「捕霧七さん……」
「見た。落ち着け、三太」彼は煙管をゆっくりと指でくるりと回した。「これは興味深い」
興味深い、などという言葉で片付けられる話ではないと私は思ったが、この男はホームズ時代から、どんな異様な場面でも飄々としている。
野次馬の中から、捕霧七の子分のひとり、辰吉という小柄な男が駆けてきた。
「捕霧七の親分、大変でさ。死体が出たとかで、南町の同心の旦那が来る前に親分に見てもらおうと……」
同心というのは、町奉行所に属する下級役人で、実際に町を歩いて事件を処理する。ロンドンで言えば警察の巡査に当たるだろうが、江戸では武士の身分を持っている点が違う。私たちのような岡っ引は、その同心から十手を預かり、補佐をする立場にある——正式な給与はなく、謝礼で生計を立てる、いわば民間の捜査協力者だ。
「死体の男の身元に心当たりは」と、捕霧七は訊いた。
「それが……」辰吉は首を振った。「右手の胼胝から、三河万歳の才蔵じゃないかと言う者がおりますが、何せ顔なじみがいなくて」
「三河万歳」と私は繰り返した。聞き慣れぬ言葉だった。
捕霧七は私に向かって、簡潔に説明した。「三河の国——今の愛知県のあたり——から江戸に出てくる旅芸人だ。二人一組で、太夫と才蔵に役割が分かれている。太夫が祝い言葉を唱え、才蔵が鼓を打って囃す。新年の門付け(かどづけ)——つまり家々を巡って祝いの芸を披露する——で知られていた芸能で、もとは三河の神事に由来する。ロンドンで言えば、クリスマスのキャロル歌いに近いかもしれんが、格式はもう少し高い」
「その才蔵の、鼓の胼胝が右手にある、と」
「そういうことだ。ただし、なぜ赤ん坊を抱えていたのか、なぜ死んでいたのか、なぜ赤ん坊に牙があるのか——それはまったく別の話だ」
彼はそう言って、死体の周囲を細かく観察し始めた。着物の袖口、草履の底の土の付き方、懐の中身——。
私は赤ん坊を傍の女に預けながら、改めてその口の中を覗いた。医師として言えば、生後三ヶ月の嬰児に歯が生えること自体、極めて稀だ。ましてや尖った形の歯など……。
「捕霧七さん、この歯は……」
「人間の歯だ」と彼は断言した。「猫の子の歯でも犬の歯でもない。形は異様だが、素材は正真正銘、人間の乳歯だ。だがそれ自体は事件の本質ではない」
「本質とは?」
「この赤ん坊の存在を、誰かが利用しようとしていた、ということだ」
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まもなく、南町奉行所の同心が到着した。
町奉行所というのは、江戸の行政と刑事裁判をまとめて担う機関で、南北に一つずつある。月ごとに南北交替で勤め、長官である町奉行はスコットランド・ヤードの長官に相当するが、ロンドンと違うのは、行政官と裁判官と警察の長を兼ねているという点だ。かなりの権力がひとつの職に集中している。
担当の同心は田村という四十がらみの男で、日頃から捕霧七を重用していた。
「捕霧七、どう見る」
「まず香具師の線を当たってみてください」と捕霧七は言った。
香具師というのは、ロンドンで言えば見世物師(showman)や路上の薬売りに当たる。祭りや市の場に出て、珍しい見世物や薬を売る商売人で、「因果者」と呼ばれる、生まれつきの障害や奇形を持つ人間を見世物にすることもあった。
「牙のある赤ん坊は、まさに見世物向きだ」と捕霧七は続けた。「この子を売り買いしようとした者が、何かの理由でこの男と揉めた。それが事件の一端にある、と私は考えている」
「なるほど」と田村は頷いた。「そちらは俺の方で当たろう。お前さんは万歳の方を頼む」
「承知しました」
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その夕、私たちは神田から少し離れた、香具師の元締と言われる男、富蔵を訪ねた。
元締というのは、香具師や行商人の組織のまとめ役で、縄張り内の商売人を統括する。ロンドンのギルドの親方(guild master)に似ているが、より非公式な、暗黙の力による支配だ。
富蔵は五十がらみの、どっしりした体つきの男だった。表向きは荒物屋——日用雑貨の店——を営んでいるが、裏では相当な顔を持っているらしい。
捕霧七が問いを向けた。
「鎌倉河岸で死んだ男のことは聞きましたか」
「知らんねえ」富蔵は即座に言った。「うちは荒物屋でさ。死体の話は町の噂で聞きましたが、関わりはありません」
「では、牙のある赤ん坊のことも」
富蔵の目が、一瞬だけ動いた。
ロンドン時代にホームズと付き合って以来、私はこういう「一瞬の揺れ」を見逃さないようになっていた。弁護士や証人が嘘をつくとき、目はほんの一刹那だけ、別の場所を向く。
捕霧七も当然、見逃していなかった。
「猫の児を失くした、とお聞きしましたが」と、彼は穏やかに言った。
「猫? ああ……まあ」
「猫の仔を失くした香具師がいる、という話が、鎌倉河岸の界隈に広まっています。あなたの名が出ていましたが」
「そりゃあ……飼い猫が一匹いなくなったもんで、子分に探させていたのは確かでさ。それだけの話ですよ」
「飼い猫ひとつのために、神田の猫の子供をどこそこに届けろ、という細かい指示を子分に出す、というのは、ずいぶん丁寧なことですね」
富蔵はしばらく黙った。
「……何が言いたいんだい、捕霧七の親分」
「牙のある赤ん坊のことです」捕霧七は煙管を懐にしまいながら、静かに言った。「あなたはその子のことを知っている。猫の仔というのは暗語——つまり隠語です。赤ん坊のことを、そう呼んでいたのではないですか」
富蔵は立ち上がりかけたが、捕霧七の目を見て、また座り直した。
「……証拠はあるのかい」
「今はない。しかし、あなたが正直に話してくれれば、あなたを咎めるつもりはない。私が知りたいのは、あの赤ん坊と、死んだ男の繋がりだ」
長い沈黙の後、富蔵は重い息をついた。
「……あの赤ん坊は、三月ほど前に、信州の方から流れてきた旅芸人夫婦から預かったんだ。牙が生えてるなんてこと、最初は知らなかったよ。生まれつきそういう子だって聞かされてな……それを、見世物として一儲けさせてもらおうと思ったのは、確かでさ」
「その夫婦は今どこに」
「行方知れずだ。子供を置いて、消えちまった。どうしようかと困ってたとこに、三河万歳の一座の中に、子供のない夫婦がいると聞いてな……子供を引き渡すつもりで、あの才蔵という男に会わせたんだが……」
富蔵はそこで口をつぐんだ。
「会わせた結果、才蔵が死んだ」と捕霧七は静かに続けた。「あなたは才蔵を殺してはいない。しかし誰かが殺した。あなたには、誰かに恨まれる理由がある人間に、この話を持ちかけた覚えはないですか」
******
その夜遅く、私たちは万歳一座の宿舎を訪ねた。
三河万歳の一座は、正月の門付けのために江戸に来ており、浅草の外れの木賃宿に逗留していた。木賃宿というのは、旅人が薪代を払って自炊しながら泊まる簡素な宿で、ロンドンのロッジングハウスに似ているが、より共同生活の色が濃い。
一座の元締役の老人が出てきた。
「才蔵のことは……聞いております」老人は目を伏せた。「あの子は、本当に真面目な子でした。一座の中でも一番腕が良くて……」
「才蔵は赤ん坊を引き取ろうとしていたのですか」
「そうです。女房のおきくと、ずっと子供を望んでいたが、恵まれなくて……どんな出自の子でも、本当に可愛がって育てるつもりだったはずです」
「おきくさんは今」
「一昨日から、部屋に閉じこもって……才蔵が死んで、気が狂いそうになっておられる。無理もありません」
捕霧七は老人に頼んで、おきくの部屋の前まで案内してもらった。
薄い板戸一枚の向こうから、低い声が聞こえてきた。泣いているのか、何かを呟いているのか、判然としない。
捕霧七は板戸に向かって、静かに声をかけた。
「おきくさん。私は岡っ引きの写楽捕霧七といいます。才蔵さんのことを調べています。話をきかせてもらえますか」
しばらく沈黙があった。
それから戸が細く開いて、三十がらみの、目の赤い女が顔を出した。
「才蔵が……なぜ死ななければならなかったか、わかりますか」
「それを調べています」
女はしばらく私たちを見た後、戸を開けた。
部屋の中は、師走の寒さの中にも、薄く温もりがあった。行灯の明かりが揺れ、床に万歳の扇子が落ちていた。扇子の上には、赤ちゃんの産着が畳まれている。
「あの子は……今、どこに」
「安全な場所にいます」と私は答えた。「心配しないでください」
おきくはその言葉を聞いて、小さく泣いた。
捕霧七は部屋の中をゆっくりと見渡しながら、また穏やかに質問した。
「才蔵さんには、恨んでいる者がいましたか」
「……いました」おきくは低く言った。「一座を昔抜けた男が、才蔵のことを恨んでいた。才蔵が奴の不正を元締の老人に告げたせいで、奴は一座を追い出された。その男が……江戸にいると、才蔵は言っていました。怖い、と」
「名は」
「弥助という男です」
捕霧七の目が、静かに光った。
******
翌朝、私たちは辰吉に弥助の行方を探させた。
弥助はほどなく見つかった。浅草の裏手にある、安普請の棟割長屋——複数の家族が一棟に住む連屋形式の長屋——に、一人で潜んでいた。
捕霧七と私が乗り込むと、弥助は観念したように俯いた。三十の前後と見える男で、右腕に刀傷の痕があった。
「才蔵を刺したのはあなたですか」
「……殺すつもりはなかった」弥助は震える声で言った。「ただ、あの赤ん坊さえ手に入れれば、見世物として大きく稼げると思って……才蔵が引き渡しを断ったから、揉み合いになって……気が付いたら、才蔵が倒れていた」
「凶器は」
「懐剣だ。川に捨てた」
捕霧七は静かに十手を出して、膝の上に置いた。
十手というのは、一尺ほどの鉄の棒に横に鉤が一本ついた、岡っ引きの証とも武器ともなる道具だ。ロンドンの警棒よりずっと細く、しかし刀の刃を受け止めることができる形をしている。
「弥助さん、あなたには重い罪が問われるでしょう」と捕霧七は言った。「しかし、正直に話してくれたことは、評価されるはずです。南町奉行所の田村同心に、自分の口から話してください」
弥助は黙ってうなずいた。
「あの子は……牙の子は、どうなるんだ」
「おきくさんのところに引き取られます」と私は言った。「才蔵さんが望んでいたように」
弥助はそこで初めて、深くうなだれた。
******
事件が落着したのは、その翌日のことだった。
田村同心は弥助を召し捕り、富蔵も取り調べの対象となったが、直接の罪は問われなかった。赤ん坊のおきくへの引き渡しは、近所の名主——町の自治を担う有力者で、ロンドンの区長(alderman)に相当する——の立ち会いのもとで行われた。
私は最後にもう一度、おきくの部屋を訪ねた。
おきくは赤ん坊を胸に抱いて、静かに座っていた。赤ん坊は眠っていた。牙のある口が、小さく開いたり閉じたりしている。
「名前はどうするんですか」と私は訊いた。
「……才之助、と付けようと思っています。才蔵の、才の字を取って」
「良い名ですね」
おきくは微笑んだ。泣いているような、笑っているような、境目のわからない表情だった。
私は部屋を出て、廊下で待っていた捕霧七のところへ戻った。
「あの牙は、医学的にはどう説明する、三太」と彼は訊いた。
「胎生期の発育異常だと思う。珍しいが、記録がまったくないわけではない。害はないだろう。成長とともに抜け替わるかもしれないし、あるいはそのままかもしれない。だが——」
「だが?」
「その子の一生に、何の関わりもない」と私は言った。「才之助は、ただの子供だ」
捕霧七は珍しく、短く笑った。
「ロンドンでも江戸でも、同じことだ。人は見た目の珍しさに目を奪われて、本質を見失う。三太、君はいつも、正しいことを言う」
浅草の夕空に、寺の鐘が鳴り渡った。
師走の冷たい風の中に、どこか遠くから、万歳の太夫の祝い言葉が聞こえてくるような気がした。
「千秋万歳——」
それは、長寿と繁栄を祝う言葉だ。
新しい命が、今日ここに一つ、居場所を得た。
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【結末:ロンドン時代】
気づくと、私はベイカー街の居間にいた。
暖炉の火が赤く揺れていた。机の上には、あの紙——符牒のような記号の並んだ紙——がそのまま残っていた。
「ホームズ」と私は言った。「見世物師の話をしていたね」
「していた」とホームズは応じた。彼はまだ試験管を手にしていた。「そして我々は江戸にいた。ワトソン、牙のある赤ん坊を覚えているか」
「覚えている。才之助という名になった」
「人は異様なものに名前を付け、意味を与え、家族にする」ホームズは試験管を静かに置いた。「そうすることで、初めてその存在は社会の中に収まる。岡本綺堂が江戸を書き、コナン・ドイルが私を書いたように——物語とは、何かに居場所を与える行為なのかもしれん」
「少々、詩人めいた言い方だな、ホームズ」
「珍しいかね」
「珍しい」
ホームズはわずかに口角を上げた。
窓の外では、一月のロンドンの霧が、ガス灯の光をにじませていた。どこかでキャロルを歌う声が、遠く聞こえてきた。
「ワトソン、次はいつ江戸に行く」
「それを私に訊くのか」
「君が先に目を覚ますことが多いからだ」
「覚えていないよ」と私は答えた。「ただ、気づけばそこにいる」
「そうだな」とホームズは言って、試験管の列をまた並べ直し始めた。「それがこの奇妙な旅の、唯一確かなことだ」
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本作は、アーサー・コナン・ドイル著『シャーロック・ホームズの冒険』および岡本綺堂著『半七捕物帳』への敬意と感謝を込めて執筆しています。
著:コナン・綺堂異流(Conan Kidoyle)




