捌:単独行動
その日は雷雲が現れることもなく、また、北西と北東の国境から、ウィルフリードが行った状況確認の返事として異変はないという知らせが届いた。
また、イザークが魔法で鳥を創り出し、国境の外側を可能な限り遠くまで飛ばさせると言った。魔族の拠点がどこにあるのかわかれば、こちらから攻めることも視野に入れられるようになる。
陽が沈みかけ、暗くなっていく北の草原を壁の上から眺めながら、ヴィオラは嘆息した。
「……大丈夫か?」
声がして振り向くと、ウィルフリードが立っていた。
「……私は大丈夫です……でも、あの魔族がまた現れたらと思うと……」
北方に視線を戻しながら答えるヴィオラに、ウィルフリードは静かに歩み寄る。
「今は俺たちにできるだけのことをするしかない……イザークもしばらくここに滞在することが決まったし、心配するな」
そう言いながら、ウィルフリードは優しくヴィオラの肩を叩いた。
「はい……」
頷いた直後、ヴィオラの背筋に、まるで氷塊が滑り落ちたかのような感覚が走った。
ぞくりと血の気が引いて、肌が粟立つ。
「……っ!」
顔色が変わったことに気づいたウィルフリードが眉を顰めつつ顔を覗き込んでくる。
「どうした?」
「……今、とても嫌な気配が……」
呟きながら、ヴィオラは視線を巡らせる。
そして、壁外の北方の森の手前辺りに、視線を縫い止められた。
普段なら目を凝らしても、よく見えないような距離。
しかし何故か、はっきりと『目が合った』と感じた。
あの深紅の双眸が、脳裏に浮かぶ。
「……いる」
「え?」
ヴィオラが北方の一点を見つめて呆然とした様子で呟いたのを受け、ウィルフリードはその視線を追う。
しかし、彼は何も見つけられずに、戸惑った様子でヴィオラと北方の森を見比べる。
「飛翔魔法」
ヴィオラは呪文を唱えると、まるでウィルフリードのことが視界に入っていない様子で、そのまま空に舞い上がって北方に飛び出してしまった。
「おいっ!」
ウィルフリードが手を伸ばすが、彼女はするりと逃げ、僅かに間に合わず虚空を掴む。
ヴィオラは、まるで何かに吸い寄せられるかのように、物凄い速さで飛び去ってしまった。
「くっ!」
彼女を追うか、大佐という立場で国境を任された責任を取るか、ウィルフリードは逡巡する。
ヴィオラも自分も不在となると、当然ながら騎士団と帝国軍のどちらも指揮官がいないことになってしまう。
その隙を狙われたら、とんでもないことになってしまうだろう。
しかし、もしこのまま彼女を行かせて、万が一のことがあったらどうする。
惚れた女の安否はもちろん心配だが、それだけでなく、彼女の力なくして国境の安全は確保できないという事実がある。
それを盾に、ウィルフリードは壁の上から見張りを行っていた手近の兵士に早口で告げた。
「アインハルト殿と共に壁外の様子を見てくる。念のため、イザークにその旨を伝えろ」
そして飛翔魔法を唱えて空へ舞い上がる。
しかし、ヴィオラの飛翔スピードには全く追いつかない。
兵士に指示をした僅かな間に、彼女の姿は完全に見えなくなっていた。
「……くそ、どこへ行ったんだ!」
舌打ちして速度を上げる。
それだけでなく、探知魔法を展開してヴィオラの魔力を辿ろうと試みるが、不自然に途切れてしまって追えない。
嫌な焦燥が、胸を焼く。
先程飛び立った彼女の様子は、どう見ても普通の状態ではなかった。
まるで自分の声が届いていなかった。直前まで会話していたのに、存在を忘れられてしまった、あるいは見えなくなってしまったかのように。
操作系の魔法に操られていた可能性がある。
だが、あの一瞬、妙な魔力や魔法が発動したような気配は一切感じなかった。
森の前まで来て、ウィルフリードは更に目を凝らした。
間もなく完全に陽が沈む。そうなれば、闇を見通す魔法を使わなければ何も見えなくなってしまう。
「アインハルト! どこにいる! 返事をしろ!」
何処に耳があるかわからないので、鎧を纏っている時の彼女の表向きの名前を叫ぶ。
しかし応答はない。
と、視界の隅に、白銀に光るものを捉えた。
「っ!」
ウィルフリードはすぐにそちらへ急行する。
森のすぐ手前、草むらの中で光ったそれは、ヴィオラが被っていた白銀の兜だった。
「……っ」
兜には傷や血痕などはなく、妙な魔力の気配もない。
「アインハルト殿! どこにいる!」
声を上げた刹那、森の奥からぎらぎらとした赤い眼をこちらに向ける何かが近づいてきた。
鼻息の荒いそれは、大きな狼のような姿をした魔物だ。
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