壱:予兆
ウィルフリードが国境の定期視察を終え、そのまま北西の国境に向けて出発する日の朝。
自室から空を見上げたヴィオラは、ぞわりと、冷たい何かが背筋を這うかのような嫌な予感を覚えた。
北の空に、黒い雲が広がり始めていたのだ。
単純な雨雲や嵐の類ではない。そう直感が訴えている。
ヴィオラはすぐに部屋を飛び出し、父の書斎に向かった。
「失礼します。父上、北の空が……」
「ああ、私も嫌な予感がして、占星魔法を展開したところだ」
机の上には、この大陸の地図が広げられている。
そして、特殊な魔力が込められた石が、その上に七個転がっている。
占星魔法、つまりは占いだ。
術者の魔力が強い程、視える未来や光景の精度が上がるが、占星対象の魔力が強すぎると視えなくなったり、ある程度対象を絞らないと光景がぼやけてしまったりするため、魔法のレベルとしては初級に分類されているが、正確に未来や遠い地の光景を視ようと思ったらかなり熟練の魔法使いでないと難しいとされている。
「……魔族の可能性が高そうだな。それも、天候を操れるようなレベルの」
地図を睨みながら剣呑に目を細めるロクスに、ヴィオラが息を呑む。
「……そんな魔族が……?」
思わず呟くと、ロクスは剣呑な顔で頷いた。
「可能性は充分だ。魔王の存在がほぼ確実となった以上、これまでとは比べ物にならない魔族が攻めて来ると思っていた方がいい」
先日、エイクに化けていた魔族の言葉から、魔王の存在がいよいよ確実視されるようになった。
それまで、魔族の存在は確認されてきたし、ヴィオラ自身も何度か対峙したことがある。
しかし、それらを束ねる魔王と呼ばれるものの存在については、不透明な部分が多く、存在が疑問視されていたのだ。
だが先日、エイクははっきりと「魔王陛下」という言葉を口にしていた。
それは当然、一時帝都に戻ったウィルフリードから皇帝に報告されており、魔族との戦い方を今一度考え直さなければならない、という話になったと聞いている。
とはいえすぐに話がまとまる訳もなく、帝国軍の上層部で、対策を練っている最中らしい。
「……ストランド卿には、もう数日、こちらに留まっていただいた方がいいかもしれんな」
唸るロクスに、ヴィオラは素直に頷いた。
彼の戦闘力と統率力は間違いなく頼りになる。
と、ちょうどそこにウィルフリードが尋ねて来た。
「シシェル卿、北の空は見たか?」
「ええ。先程、占星魔法も行使して確認したところです」
「何が視えた?」
「魔族の存在です。それも、天候を操れるほどの」
ロクスの言葉に、ウィルフリードは唇を引き結んだ。
「……この地への滞在を暫し延長する。問題ないか?」
「ええ、もちろんです。こちらからもお願いするつもりでした」
「念のため、北西と北東の国境で異変が起きていないか、伝書魔法で確認を。私は今から、壁外の兵士に厳戒態勢を取るように、指示を出す」
そこまで言い、ウィルフリードはヴィオラを振り返った。
「君はこの地の騎士たちがいつでも出撃できるよう準備を」
「わかりました」
「シシェル卿、この地で、解析魔法が得意な者は?」
解析魔法とは、自分以外が使用した魔法の術式を解析する魔法だ。
戦時にはそれによって相手の攻撃を無効化することができたりするので非常に重宝されるが、それを得意とする者は非常に珍しい。
「解析魔法なら、アインハルトが得意です」
「アインハルト殿が……?」
ここで名前が出たアインハルトは、本物のアインハルトを指している。
「ええ。アインハルトは、身体が弱い代わりに、解析魔法や占星魔法が得意でして。と言っても、魔力はあっても体力がついていかず、あまり大規模な解析はできませんが」
「なるほど。では、無理のない範囲で頼みたい。あの雲の正体が魔法かどうかを解析してほしい」
「わかりました。できるかどうか聞いてみましょう」
ロクスの言葉を受けて、ウィルフリードは退出していく。
ヴィオラもすぐさま自室に戻って鎧を纏うと、騎士たちの宿舎へ向かって屋敷を飛び出した。
アインハルトに扮したヴィオラが騎士たちに指示を出し始めたところで、見張り塔から妙に戸惑ったような声が聞こえてきた。
「南から馬車が一台接近! あの紋章は……こ、皇族の紋章です!」
皇族の紋章が入った馬車。
つまり皇族本人が乗っているか、皇族からの正式な遣いが乗っているか、そのどちらかということ。
事前の連絡は受けていないので、遣いだろうが、よりにもよってこんな忙しい時に。
とにかく今は、魔族による襲撃の対策が最優先だ。
来客の対応は執事のカステンに任せるしかない。
と、そこに一羽の白い鳥が飛んできた。
ヴィオラの目の前で小さく旋回するので、彼女が手を出すと、くるりと宙返りして一枚の紙に姿を変えた。
これは手紙を特定の相手に届ける伝書魔法だ。
差出人は父ロクス。
『ヴィオラ
解析魔法の結果が出た。あの北の雲は間違いなく魔力によって生み出されているらしい。
このことはストランド卿にも伝えてある。どうにか協力して、敵を退けるように。』
かなり急いで書いたらしく、珍しく父の字が乱れていることに、ヴィオラは僅かに目を細めた。
魔力で生み出された黒い雲。
もしもあれが雷雲で、そこから発せられる雷を魔族が操れるとしたら。
自然災害の前に、人間は無力だ。
帝国内でも年に数十人は大嵐や落雷によって命を落としている。
魔法で雷を防御することはできるが、雷ほどの威力となるとそう何度も受けられる訳ではない。
それ故に、もしも雷を操る魔族を見つけたら、雷を落とされる前に倒さなければならない。
「アインハルト殿」
背後から声を掛けられ、ヴィオラが振り返ると、そこには鎧を纏ったウィルフリードがいた。
彼は神妙な面持ちで口を開いた。
「今から、極大魔法を仕込もうと思う」
「極大魔法?」
それは甚大な効力発揮する魔法のことだ。
基本的には事前に魔法陣を描く必要があり、膨大な魔力が消費されるとされているため、複数人で展開することが多い。
「ああ。あの雲を蹴散らせるような魔法だ。ついては、騎士の中で強い魔力を有していて魔法が得意な者を二人程貸してほしい。君以外で」
「私以外で?」
「君には、いざという時に備えてもらう必要があるからな」
ウィルフリードがそう言うので、ヴィオラは騎士団の中で最も魔法に秀でた二人、ハンスとゲルツにウィルフリードについて行くよう命じた。
残った者たちの準備に戻ろうとした時、一人の兵士が慌てた様子で走って来た。
「あ、アインハルト様! たた、大変です! 今、皇族の馬車が到着してっ!」
息を切らせた彼は、言葉を詰まらせながら報告する。
「第二皇女、エレオノーラ様が……!」
その報告に、その場の全員が愕然と息を呑んだ。
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