第92話 理屈で勝って、押し負けた日
朝の出勤時間帯を過ぎた豊川駅のバスターミナルは、真夏の昼前の白い熱で揺れていた。都内まで向かう国鉄ではこの時間には一時間に一本しかない快速列車の到着する時間のしばらく前とあって、人影もまばらでいかにも東都のベッドタウンの通勤時間帯を過ぎた瞬間におとずれるエアポケットのような時間だった。
黒く灼けたアスファルトが蜃気楼の薄膜を立ちのぼらせ、ベンチの金属は触るとやけどしそうに熱い。電光掲示板は定刻を無表情に刻み、売店の冷蔵ケースが規則正しく唸っている。
誠は一人、休日に一度だけ千要のアニメショップに向かうために利用したことのあるこの駅で、記憶より少しだけ広く見えるロータリーを前に立ち尽くした。
汗は襟足にまとわりつき、ワイシャツの背は汗染みで地図のように濃淡を作っている。
周りを歩くこんなベッドタウンにふさわしい老夫婦やベビーカーを押した女性もこれほどまでに自分を追い詰められた存在として覚悟を決めてこの街を去ろうとしている誠に関心を持っているようには見えなかった。
『たぶんもう二度と来ないだろうな……この駅には。僕は決めた。除隊する。事実を曲げて、平然としていられるような人たちの中で生きていけるほど僕は無神経じゃない。死体の山に囲まれても平然と笑えるような地球人が尊重する戦士の魂なんて遼州人の僕には絶対持てない。そんなことが繰り返されることになる……そうしてなった英雄なんて何の意味があるんだ』
どこにでもありそうな個性のない国鉄の高架駅舎へ続く階段に足を向けたそのとき、背後からバイクの爆音と、場違いなほど甲高いクラクションが連打された。
ベッドタウンらしく通勤時間帯を過ぎたこのロータリーにいる歩行者といえば就学前の幼児を連れた母親やベンチに座って談笑する老婆たちの姿が目に付くくらいで、通勤バスの途切れるこの時間帯には車の音はむしろ珍しい。音の鋭さに、誠は反射的に振り返った。
誠は連打されるクラクションが鳴りやまないことでそれが自分に対して向けられたものであるとようやく悟って、仕方なくロータリーに向けて視線を向けた。
「西園寺さん……やっぱりあの人は僕が逃げ出すことを許してくれないんだ。でも僕は決めた。僕は除隊する。本気で話をすればあの頑固そうな西園寺さんでも僕がいかに『武装警察』の任務に不適格かなんてことくらい分かってくれるはずだ」
目に飛び込んで来たのはビッグスクーター……ボディは艶のある黒で光っている。ライダーは言わずと知れた、黒髪ボブの女サイボーグ……誠が予想した通り西園寺かなめ中尉だった。
歩道脇に車体を寄せるや、彼女はひらりと降車し、片手でヘルメットを外すと、かなめは速足で高架駅舎への階段から降りてきた誠に走り寄ってきた。
強い日差しの中で、眉間を射抜くような眼差しがこちらを射る。その怒りに震えるような鋭い視線に誠は思わず身をすくめた。誠もその視線にこの説得は一筋縄ではいかないと覚悟を決めた。
「神前!止まれよ!オメエは止まる義務がある!こっちに来い!その腐った根性をランの姐御に代わってアタシが叩きのめしてやる!」
短い号令で空気が変わった。
かなめはいつもの強気そうな眼光を光らせながら誠をにらみつけたままためらいなく歩幅を詰め、誠の襟首を掴んだ。生地越しにもわかる力強さ。金属製の腕時計が日光を反射し、目に痛い。
かなめの殺気を含んだ視線に、振り向いたまま高架駅舎の階段の前で立ち尽くす誠はおもわず顔をそらした。
「おい、返事をしろ!都合が悪くなると人の話は無視か!良い度胸だな!アタシの顔を見ろ、この薄情者!オメエには人の心が無いのか!オメエが嫌いだと言ってるアタシも半分その血を引いてる地球人と何にも変わらねえな!そんな態度をとってるんならそいつ等に恐れをなして逃げ出すなんて言う資格はオメエにはねえ!」
のど元を締め付ける怒りの熱。誠はまず、つかまれた手を外し、歪んだ襟を直してから、真正面からその視線を受け止めた。
「西園寺さん……そんな隊にいたときみたいに暴力で脅したって無駄ですよ。僕は……もう決めたんです。こんな出鱈目だらけの部隊なんてまっぴらです。それと僕がいるとなぜかわからないけどあの恐ろしい地球圏の人間相手に戦争になるかも知れないんでしょ?だったら僕なんて邪魔以外の何者でもないじゃないですか。除隊して実家に帰ります。西園寺さん。僕はもう『特殊な部隊』とは関係ない人間なんですよ。『特殊な部隊』のルールはもう僕には通用しませんから」
誠は真正面から自分を見つめて来るかなめに向けてひねた笑みを薄く乗せる。弱々しい笑みで自分が使えない新人だとアピールすればかなめも諦めるだろうという誠なりの計算もあった。
かなめはそんな誠を一度殴りかねないほどの怒りの表情を浮かべた後、短く息を吐いた。そして一瞬自分を落ち着かせるためのような笑みを浮かべた後、再び怒りの表情で誠をにらみつけた。
「関係ないだと?ふざけたことを言いやがって。いつアタシがオメエに除隊していいって許可した?アタシはそんな許可をした覚えはねえぞ!アタシが除隊を許可するまではオメエはアタシの部下なんだ!アタシがそう決めた!だから辞めるなんて認めねえ!『僕は決めた』?そんな権限はオメエにゃねえ!部下は上官に従う。それが軍の常識だ!アタシは軍人だ!オメエも一度は東和宇宙軍に籍のあった人間だ!その理屈が軍ではすべてなんだ!そんなことも東和宇宙軍は教えてねえのか!そんな自分の好き勝手で入ったりやめたりできるような軍隊がこの宇宙には存在するなんて話はアタシは聞いたことがねえぞ!」
言葉は拳より重い。かなめは再び襟首をつかみ、ずるずるとスクーターの方へ引きずる。
「なにを……離してください!僕は帰るんです!」
抵抗の足を踏ん張るが、サイボーグの腕力は理屈抜きだった。誠の高校野球で鍛えた脚も、地面の砂を空しく掻くだけでかなめの戦闘用サイボーグの怪力の前では無力だった。
「事実を一回くらい曲げられたのが気に入らねえから軍隊を除隊する?死体の山を一つ見たくらいで戦場を捨てる?そんなのは自分の弱さを隠すための言い訳だろ?一回ひどい目見たくらいで臆病風に吹かれやがって!そのたるんだ根性、叩きなおしてやる!アタシと一緒に本部に来い!」
シート下のラゲッジを開け、かなめは躊躇なくスペアのヘルメットを誠に投げた。
「何度も言わせないでくださいよ!僕はもう西園寺さんとは関係ない人間です!無茶はやめてください!」
誠はヘルメットを押し返そうと、胸倉の手にそれをぐいと押し当てる。
かなめは手を離し、両手で頭をがしがしとかいた。灼けた息をひとつ吐き、もういちど襟をつかむ。
「オメエの『決めた』なんて意思なんてアタシには関係ねえ!アタシは自由人、そして上官だ。アタシが『来い』と言ったら来る!理屈はその後で良い!オメエは常にアタシの言うことを聞く!それはアタシが決めたことだ!それはこの宇宙じゃ絶対に覆らねえルールなんだ!オメエは良いおつむを持ってるんだろ?アタシの言うことを理解できねえほど言語力が無いわけじゃねえよな!」
誠の手荷物をひったくり、シート下に乱暴に押し込む。
「そんな……無茶苦茶な。言ってる言葉の意味が分かるのは事実ですけど、理屈がまるで通ってないじゃないですか!西園寺さんにとっては僕の意思はどうでもいいんですか!」
何よりも順序と妥当性を重視する誠の理系脳が悲鳴を上げる。それでも、かなめという台風に、正面から理屈で挑むのが最も非効率だと誠はよく知っていた。
誠は感情に駆られて行動するタイプのかなめには何を言っても無駄だと抵抗をあきらめ、後部座席にまたがった。
いまは彼女の気が済むようにすればいい。落ち着いて話せば、自分の『情けなさ』と『決意』を理解して……きっと、諦める。
そう決めて、誠は細い腰にそっと腕を回した。
「行くぞ!」
短い合図の直後、スクーターは矢のように飛び出した。
黒い車体が陽炎を切り裂き、風が耳鳴りを連れてくる。
誠は唇を結び、黙ってしがみついた。
「神前。無茶な女だと思ってるだろ?済まねえ……こういう性分なんだ、アタシは。……お願いだ、神前。オメエがいなきゃ、アタシは……なんか大事なものが無くなっちまう気がする……勝手なのは分かってるよ……でも付き合ってくれ……」
右手で軽く誠の腕を叩く。振動に混じって、声はすこしだけ震えていた。
「オメエがいなきゃ、何かが変わっちまう。アタシの勘だ。勝手なのは分かってる。いま言えるのは、それだけだ」
バイクが加速するエンジン音に混じって、それまで聞いたことのないか細いかなめの声がヘルメット越しに誠の耳に響いた。
誠には、その言葉が部隊の未来を案じているのか、それとも自分個人を引き留めたいのか、分からなかった。
ただ、かなめの声が今まで聞いたことがないほど弱かったことだけは分かった。
「無茶苦茶ですよ……」
吐き出しながら、自分が反抗できない弱さにため息が混ざる。
「オメエに『話』があるんだ。これもアタシなりのオメエの事を考えての話だ。機械好きのオメエなら、きっと気が変わる……間違いねえ。きっとオメエの気は変わる……アレを見たら変わらねえわけがねえ……アタシをシミュレータの模擬戦で格闘戦限定とはいえ倒した男がアレを見て気が変わらねえはずがねえ」
スロットルがさらに開き、景色が帯になる。やがて国道を抜け、『菱川重工豊川工場』の正面ゲートを抜けた。見慣れた廃工場のように見える建物の群が迫る。
スクーターは開いたままの実働部隊のゲートをくぐり、格納庫のスロープを駆け上がった。
ブレーキ。足が地面をとらえ、エンジンを切る。
かなめは誠の腕を掴んだまま、ずるずると引きずり下ろす。
そのまま、鉄の匂いと油の匂いが混ざる大空間……シュツルム・パンツァー・ハンガーへ。
逃げ出すために乗ったはずの足が、今は彼女に引きずられてハンガーの床を踏んでいる。
誠はその事実に、まだ名前をつけられなかった。




