第18話 ここが君の居場所だ
黒塗りのランの高級セダンが、建物前の石段にすうっと止まった。
アクセルを抜いたときに残る低い唸りが消えると、蝉の声と湿気だけが一瞬、空気を満たす。
誠は携帯の画面を見ていた手を止め、しばらく何が起きたのか分からずに座席の中で汗を拭った。
夏の光が南向きの階段を熱く照らしている。
「おい、出来損ない。着いたぞ、降りな。気を利かせてトランクは開けといたかんな。荷物を持って本部の入り口の前で待ってろ。そこまで気が使えるなんて出来た上司だろ?」
乱暴なランの声は小柄な体に似合わずはっきりしていて、どこかうれしそうだった。
後部座席のドアが静かに開き、誠ははっとして立ち上がった。
運転席側からランがすばやく下りてきて、誠の前に立つ。
背は小さいが、そこにいるだけで場の空気が締まるような存在感がある。
「そうですね、ここまでお世話になりました」
誠が自然に一礼すると、ランは軽く返礼してさっとトランクに手を伸ばす。どう見ても小学校低学年が持つには大きすぎる自分のバッグを見て、誠は慌ててバッグを持ち上げた。
「いいです!僕が持ちます!それくらい僕でもできますから!」
礼儀正しく手を出すとランはふっと口の端を緩めた。ちっちゃな頭を上げて誠の顔をちらりと見てランは少し笑顔を浮かべた。
「へー、多少は気が利くんだな。そこだけは見直した。じゃあ、車を駐車場に置いてくる。さっき言ったように荷物を持ってそこの本部の入り口の前で待ってろ……下手に動くと……うちに『どこへでも銃を持っていく女』がいるから……地面に脳漿をぶちまけたくねーだろ?だったらそこから動くな。オメーを心配して言ってやってるんだ。感謝しろよ」
ランはどこか感心したようにそう呟いた。
しかし、誠はそんな何気ない一言に含まれた一文の中にあるあまりに異常でありながらランはまったく問題と感じていない言葉に背筋に寒いものが走るのを感じていた。
『なんですか!その人!そんな危ない人が世の中に居るんですか!『特殊』過ぎる……この部隊は『特殊』過ぎる……』
そんな自分の言った言葉に怯えている誠の様子などまったく気にしていないというように運転席に乗り込んだランの運転する黒い高級車はすぐに駐車場の奥へ走り去った。
一人取り残された誠は何度も周りに銃口を向けているその『殺人狂』の女の影に怯えつつ、汗をふき取り、階段を見上げる。
外はうだるように暑い。
それでいて先ほどのランの何気ない言葉が気にかかった。
ランの車が駐車場の奥へ消えると、誠はようやく目の前の建物を見上げた。
これから自分の日常になるはずの場所。
だが第一印象は、拍子抜けするほど地味だった。
しばらく怯えながら物陰をうかがって自分を狙う銃口がこちらに向いているか探していた誠だが、それらしいものが見えないと安心すると目の前にある本部の建物らしいもの……これからの誠の日常が繰り広げられることになる建物に目をやった。
見た目は外観だけ見ると古い学校か町役場のようだった。余計な飾りはなく、素朴なコンクリートで作られたそれは決して豪華さや見るものを歓迎するような雰囲気は漂わせていない。それでも門番や守衛が厳重に見張るようないかにも『軍の施設』という堅苦しい雰囲気はなく、どこか人間くさい空気が漂っている。
真夏の日差しは容赦なく本部の入り口に向かう誠に照りつけてくる。車内の空調に慣れていた誠はアスファルトの反射熱で押し上げられた空気に当てられて額から絶え間なく汗が噴き出すのを感じていた。
「こんなに暑いなんて……タオルか何かもっとしっかりとした拭けるものを用意しとくんだったな。まあ、中は空調効いてるからいいかな……それにしても暑い……」
立っているだけで誠の全身からは流れるような汗が噴き出し、それを拭うハンカチは汗を含んで絞れば水分が取れるほどに濡れてしまった。都内がヒートアイランド現象で暑いのは慣れているがここが郊外だからと言って涼しくなる訳ではないことを誠は思い知った。
「おい!下手っぴ!何ぼんやり見上げてんだ?」
いつの間にかランが毒舌を吐きながら裏手の駐車場から歩いてくる。彼女に汗を拭く様子はない。
まるでこの暑さなど気にしていないかのように平然と笑顔で誠に近づいてくる。
誠の目の前ではただ8歳くらいの女の子が笑っているだけにしか見えないのだが、それがあのランだと分かっている今の誠には彼女が笑っているのに、安心できる要素が一つもない。
「中佐殿、暑くないんですか?汗とかかいてないじゃないですか」
誠は珍妙な可愛らしい生命体であるランをしみじみ見つめながら尋ねた。ランは誠の顔を見上げた。そしてそのちいさな手にはハンカチが握られていた。
「汗はかいてるよ。だからこうして拭いてんだ。アタシはロボットじゃねーんだ。汗もかくし暑いときは暑い。ただ、水ばっか飲んでだらだら汗かいてるテメーとは鍛え方が違うんだよ……その点もアタシがしっかり鍛えてやる。遼南内戦の南部戦線の地獄の暑さはこんなもんじゃなかった。気温45度に湿度100%だ。それに比べたらこんなもん楽園のそれだ」
そう自分の従軍経験を自慢するように語ってランは本部の玄関に向かった。
その後をついてくる大柄の誠をちらりと振り向いたランの顔には笑顔が浮かんでいた。一方の誠の顔には不安と疲労感が浮かんでいるのが誰の目にも分かった。
「随分と辛気臭い顔をしてんだな。そんな面じゃあこれから会う一筋縄ではいかねー馬鹿に見下されるぞ。まー気楽にやろーや。これからは楽しくなるぜ……特にオメーは気が弱そうだから連中のパワハラにどこまで耐えられるか……見ものだな。さっき言った『銃を常に持ち歩く女』はオメーの座る椅子の正面の席に座ることになる……勤務中も額を撃ち抜かれないように注意しろよ」
ランは振り返ってそう言って笑う。
その幼いながらも迫力のある眼光に少し怯みながら誠は本部の入り口の階段を上るランについていった。ただ、誠にはランの脅しはある意味誇張が入っていると理解するようになったのでただ愛想笑いを浮かべてそれをいなす技術を配属初日に手にすることができていた。
まあ、中は空調効いてるからいいかななどと考えながら、自分のへそのあたりまでの身長しかないランに続いて誠は見るからに地味な建物に足を踏み入れた。
そう考えようとして、誠はすぐに失敗した。
涼しいかどうかの問題ではない。
この自動ドアの向こうに、自分の席がある。
そしてたぶん、逃げ道はない。
そんな思いが誠に自動ドアの前に当たり前のように向かうランについていくことを躊躇させた。
そのまま古びた自動ドアをくぐると、中はひんやりと空調が効いていた。だが廊下の電気は落とされていて、日中でも薄暗い。受付のカウンターには誰もおらず、そこに何やら小さな紙片がテーブルの上に置かれている。
ランはそれを手に取り、ペンを走らせた。紙の端を指でなぞる仕草は雑だが、無駄がない。
紙は少し黄ばんでいて、何度も同じ形式で複製された跡があるのが誠にも分かった。
「うちは予算が厳しいからな。廊下の電気を昼は消すって、管理部が言ってた。逆らえねーよ」
ランは苦々しげにそう言うとポケットからシャチハタを取り出して紙切れにシャチハタを押した。
インクの匂いがわずかに漂う。
「そうなんですか……でもなんですか?その紙」
誠の問いにランは静かに笑いながら振り返る。
「オメー、本当に何にも知らねーんだな。これは来客記録票って言うんだ。来客記録票ってのは、どこの役所にもあるもんだ。これがそいつ。あとでこれを管理部のおばちゃんに渡すと、うちの『駄目隊長』のシャチハタ押して、綴じるところに綴じて完成。分かったか?管理部の連中もこれを毎月管理してうちに変な人間が来ていないかどうかチェックするんだ……まあ、規則で決まってるんだから仕方ねーだろ?世の中はそうして回ってるもんなんだ。そのくらい覚えろ」
ランはそう言うとそのまま歩き出した。
「なんだか面倒くさいような……ただの無駄なような気が……なんで東和共和国にはハンコ制度って残ってるんですかね?僕は理工学部だからこの東和共和国と地球圏が技術的にはほとんど差が無いレベルにあることくらい理解していますよ。当然、AIで入室者を管理したり滞在時間を記録してそれに異常があれば中佐なんかに警告を出すようなシステムなんか簡単に作れますよね?地球圏じゃあそれが当たり前だって聞いてますけど。東和共和国と言うか遼州圏は意地でもそう言うシステムがあっても採用しないんですよね。なんでなんです?管理する人の仕事が無くなると困るからですか?それなら地球圏みたいに来客の管理なんて全部電子化すればもっと税金を安くできるんじゃないですか?まあ、地球圏は営業も物流も全部AI管理のロボットがやってるんだからロボットに判子を押せというのは無理なのは分かりますけど」
記録のための行為ではなく、行為のための記録。
誠にはそうとしか思えなかった。
それでもランは、当然の手順だという顔で歩き出している。
誠は慌ててその背中を追った。
「そんなのアタシが知るか!無くなると困る人がいるんだろ……きっと。それに地球圏の話はアタシの前ではするな!アタシは地球人が嫌いなんだ!うちの四大馬鹿のうち……」
ランは一度言葉を切った。
「女の三人は地球人の血が混じってる」
うんざりしたようにため息をついたランは少し間を置く。
「あの馬鹿女共の異常行動でアタシは散々迷惑してるんだ!もう一人の馬鹿の男は遼州人だが……」
今度はランは鼻で笑うような顔をした。誠もつい雰囲気にのまれて笑っていた。
「あれも別方向でヤバい問題児だが、奴の問題行動はアタシには予想可能だから地球人の血を引いてる女共のアレ具合に比べたらかわいーもんだ」
苦々し気にそう言うとランはちらりと誠を見て、わずかに眉を上げると先へ進んだ。階段を上がると、長い廊下といくつもの扉が続く。ランは迷いなくある扉の前に立ち、手にしていたハンカチをポケットに押し込むと、誠に向かって小さく促した。
「これからアタシが直接隊長をやってる机の置いてある機動部隊の詰め所に行くんだ。オメーはシュツルム・パンツァーのパイロットとしてここに来たんだ。だからまず、オメーの先輩の二人のパイロットにあいさつする。それが世の中の人の道ってもんだろ?でもまあ、そこの女士官二人はかなり『ヤバい』からな。気を付けろ……しかも二人とも地球人の血を引いてる。地球人は信用できねえのはオメエもアタシの言葉で理解したろ?その二人はさっき言った『特殊な部隊の四大馬鹿』のうちの二人だ」
そこまで言うとランは振り返って誠を憐れむような目で見上げてきた。
幼女にそんな目で見られることは誠には初めてだったのでどう反応すればいいのか誠にはわからなかった。
「二人とも地球人の残忍な血を引いているんだ。気の弱い戦うことを知らない哀れな遼州人のオメーは冷酷非情な女共のパワハラの餌食になるのは確定事項なんだ。同情するぜ」
それだけ言うとランはまっすぐ前を向いて歩き出した。
「ヤバいって何がヤバいんですか!地球人は確かにしょっちゅう『民族浄化』とか言って隣の国に核ミサイルをあるだけ撃ち込む危ない人達ですけど、遼州圏では東和宇宙軍の電子戦で核は使えないんでしょ?でも……地球人だからな……何をされるか分からないかも……」
置き去りにはされたくないので、誠はあの遼州人の恐れる殺人欲求の塊という印象しかない地球人の上司を持つことになる恐怖に駆られながらランに続いて階段を昇った。そして東和共和国の国民の九割九分を占める純血の遼州人である誠にとって、かつてこの遼州を侵略し非道の限りを尽くした地球人は『教科書の怪物』みたいな存在だった。
母星の地球では年がら年中隣国に核ミサイルを撃ち込んで皆殺しにしてその国民たちは大喜びしている……そんな地球人の血を引く上司が目の前にいるのは、ランが言う通り『恐怖』を呼び起こすには十分すぎた。
「何しろ連中は血も涙もない地球人の血を引いている。だからとにかく『ヤバい』の。一人は見た目で明らかに地球人ぽくて『ヤバい』って分かるけど、もう一人は見た目じゃ分からねーがなにせあの殺戮上等の地球人の遺伝子で作られた存在だからな。とにかく『ヤバい』んだよ」
そのままランは階段を昇って消えていく。誠はただ、不安に支配されるだけだった。可愛らしい雰囲気のランは、迷わず階段を昇りきった。その背中に続いて階段を昇りきった誠が見たのは、ごく普通の学校のような廊下が続いている様を見ることになった。
「こっちだ!餓鬼じゃねーんだからちょろちょろあっちこっち見てねーで早くこっち来い!いい加減覚悟を決めろ!ここまでオメーは来ちまったんだ!いい加減諦めろ!」
見た目の割にはすばしっこいランはよそ見をしていた誠の前から消えてもうすでに一つの扉の前で待っていた。
「こっちだ!餓鬼じゃねーんだからちょろちょろあっちこっち見てねーで早くこっち来い!いい加減覚悟を決めろ!ここまでオメーは来ちまったんだ!いい加減諦めろ!」
その言葉に、誠はようやく理解した。
ここは入口ではない。
もう、自分の居場所なのだ。




