第212話 逃げ道を残す者
誠が出ていくと、嵯峨は閉まったドアをしばらくぼんやりと眺めてから、静かにため息をついた。
嵯峨には誠の背中は頼もしくもあると同時にどこまでも頼りなく感じられた。そして自分もかつてはそんな若者の一人として戦場にいたことを思い出すと自然と当時の自分の心境がどんなものだったかを思い出しながら静かに隊長室に深く身を沈めてタバコに火をつけた。
思えば、嵯峨は誠の年齢の時にはすでに新兵と呼ぶには戦場を知りすぎた人間だった。階級もすでに少佐であり、それなりの極秘任務と言うことで常に死と隣り合わせの日々を過ごしていたことが思い出される。
そんな自分と比べて何も知らずに生きてきて、何も知らずに戦場に放り込まれて、何も知らずにヒーローと呼ばれるようになり、何も知らずに時代を変えた誠が哀れにも羨ましくも思えた。
当時の嵯峨にはもうすでに誠のような若さは無かった。その時の嵯峨は人の生と死を知り尽くした老人の顔をした誠と同じ年の青年将校だった。そして、その時から見た目がほとんど変わらない不老不死の自分がどれほど進歩したのかと考えると嵯峨の頬には自然と自虐の笑みが浮かんできた。
タバコの煙が上がるのを見て嵯峨はそんな自分が正しい生き方をしてきたとは到底思えなかった。むしろ今の誠の方が正しいと誰もが生き方としては正しいと思うことだろう。ただ、嵯峨には誠の年では戦場を知り尽くしているだけにその誠の真っすぐさが羨ましくもあり、同時に危なっかしくも感じられていた。
嵯峨はこれまでの経験から老いるか老いないかに関わらず、世間にどっぷりとつかれば人は無神経になると言う考えの持ち主だった。そして自分も例外ではなく、ランの常人からは理解不能な危険極まりない善意も、その無神経さのなせる業であることは知っていた。
「若いってこと……は羨ましいねえ。何にも知らないから自分で決めたと自分の決断を覚悟して受け入れることができる。俺は見た目は神前と大して変わらねえけど、46年の経験がそんな覚悟をどうしても邪魔しちまうんだ。だからそんな経験のない新米社会人は『勝つ』ことしか考えてないんだねえ……勝つ?そんなの世の中じゃ最高でも二人に一人に与えられた特権だ。ランの奴の好きな将棋とかは一対一で戦うからどっちかは勝つし、どっちかは負ける。でもそんな公平な勝負なんて世の中では稀なの。一人だけが勝ち後には数千万人の敗者が残されるこの世界でほとんどの人間は『負け』ばっかの人生を送る……それが人生の当たり前の話なのに……そんなに『負け』を認めるのが嫌なの?そんな世の中を46年間しっかり見てきた。世の中では俺の年でもそれを見落としてる人間はいっぱいいるのは知ってるよ。その方が人間気持ちがいいからね。でも、俺はその人達より少し頭が良くって自分に不都合な現実も見えちまう。勉強だけ出来て頭は最悪の馬鹿……そういう人間が世の中では一番生きやすくできてるんだろうね。経歴は立派。でも現実は全部自分の都合がよく見えていて、自分こそがこの世に有益な人間だと叫んで死ねる。今回の近藤さんがそれだ。あの人は生まれて死ぬまで幸せだったと言えるんじゃないのかな?確かにあの人は死んだが、自分の意志を通し、信念を通して死んだ。俺から見るとああいうのを『脳みそお花畑』ってところなんだけど、死んだアンタにはそんな言葉は届かないよね?」
嵯峨はそういうと雑然とした見慣れた自分の隊長室を見回した。負けに津隈家の末にたどり着いたのがここだと嵯峨は思っていた。そのことに後悔も無いわけではないがそれなりに満足しているのが嵯峨の本心だった。
「俺は『常敗の将』を自認してるけど、世の中にはどこからどう見ても『負け』てるのにそれを認めなくない人が多すぎるね。まずさあ、神前。お前さんはここに来た時点で人生『負けてる』んだ。というかこの『特殊な部隊』は負け犬の集団だ。誰もが一度は『負け』てそれから立ち直れないでいる。そういう俺が一番の『負け犬』なんだがね。ただここには俺が言う『脳みそお花畑』の人間は一人もいないよ。自分に不都合な現実もしっかり見える人間。それがこの『特殊な部隊』に入る資格の一番重要な資格要綱。それ以外は『人類最強』の『汗血馬の騎手』がしっかり教えますんで心配ありません……っていうのがうちの売りなんだ」
くたびれたソファと散らかった書類、冷めた缶コーヒーが置かれている。
「そう、俺はこれからいくら勝っても『負け犬』なんだ。だからこそまだ生きて指揮官をやっているわけだ。そして俺の率いる部隊は最初っから負けてる人間だけで構成されている。それもまた必然だよな。俺は既に勝ってる人間にこれ以上勝たせて天狗にさせるような趣味はないから。人は負けることでしか現実を認められない。負けて、生き延びて、そして負けたと言うことを認められる人間だけが目の前にある現実のありのままの姿を見ることができる。負けてもそれを認められない人間は端から生まれる資格が無かったんじゃないの?人に迷惑をかけるだけだよ?」
嵯峨は自分自身に向けて薄く笑った。
薄汚れた蛍光灯の白い光の中で、隊長室はいつも通りの『駄目な空気』を漂わせている。
「それにしても自分が『勝ってる』という妄想に囚われている連中が世の中多すぎるよ。アンタ等、口ではいいこと言って自分は『勝者』だと言うが、そもそも真の『勝者』はアンタたちみたいに目立つ場所に立ったりする無駄なことをせずに勝利の余韻に浸ってのんびり余生を過ごすもんだと俺は思うよ。そうでなきゃそんな目立つ場所に居たら一発逆転を目指す『敗者』に狙い撃ちにされて引きずりおろされるのが世の常ってもんだ。そしたらアンタ等これ以上ない敗者じゃん?そんなことも分からないなんてアンタ等馬鹿?何しろそんな勝者を気どっていたらいつの間にか滅亡していましたなんて言う人達の名前で歴史の教科書は一杯なんだから。そうじゃない例外があれば俺は教えてもらいたいくらいだね」
そういうと嵯峨は静かに煙草の箱を夏服の胸ポケットから取り出した。
「神前よ、お前さんの好きなアニメの主人公は勝利したら物語が終わるじゃん?つまりね、勝者には『静かな余生』を過ごすか『再び戦ってもう立ち直りようのない負け犬』になるかしかないんだ。どちらも視聴率なんて期待できない物語しかできないよね。だから、連中が勝利した時点でその物語が終わるんだ。ただやる気も無くのんべんだらりと過ごす英雄や、感情移入していたヒロインがみじめに凌辱されて死に至る物語なんて誰が見たいんだよ。でも実際の英雄はそういう風に死んだ。歴史小説が竜頭蛇尾とか中途半端に終わるのは当たり前だね。後半以降は一気に読者が目を逸らすこと間違いない」
嵯峨は静かに去っていったこの負けの決まった『特殊な部隊に』残ることを決めた英雄である誠の事を考えていた。
「自分が『敗者』にならないために、最初から『逃げる』ことを前提に物事を動かす実業界や官界を知らないのかね?あの世界の住人は英雄伝や成功譚の住人じゃない。あくまでリアルな現実を生きてる人間だ。ああいった物語を作る人たちは。夢と破綻する理論だけを振りかざすことが自慢の『アホ』がメディア向けに言いそうな言葉だよ。戦争で勝つこと、事件を解決すればお終い。そんな世界でしかない軍や警察のOBなんていうのは自費出版でそんな自叙伝を恥ずかしげも無く書いたり、コメンテーターとして自分が知ってる狭い世界を世の中の人がそこを知らないからって偉そうに言うけど、アンタ等、本当に戦場に立ったことはあるの?迷宮入り事件を解決しましたって似たような事件は何度も起きてるからアンタの言うことは犯罪抑止には何の役にも立たなかったってことだよね?どっちの人達も『戦い』の場に身を置いたことがあるの?その有様を安全地帯で左うちわで酒でも飲みながら眺めていただけなんじゃないの?現場で走り回る捜査官に無茶な残業命令が待っている捜査命令を出してただけでしょ?どちらの皆さんも本当に『致命的な負け』を経験したことがあるの?」
タバコに火をつけながらため息交じりに嵯峨はそう言った。
「実際のところ無いよね。有名な戦いを指揮していたけどその最前線にいた訳じゃない。有名な事件の陣頭指揮をしたけど事件現場で犯人の証拠を一つ一つ拾い上げた経験も無い。でも俺にはどっちも俺にはあるんだ。だから俺には連中を断罪する権利と義務がある。いつまでも。負けない国なんかない……そして滅びない国は無い……諸行無常……ランの持ち歌が『人生劇場』なら俺の持ち歌は『平家物語』だからな。アイツの歌ったCDは出てないけど俺の『平家物語全段』はちゃんとCDになって東和共和国の全国の高校の音楽室にあるんだぜ……まあ、売れた枚数からしてこの国の高校の購買が勝った数以外のリスナーはほぼ0らしいけどね」
自分を嗤うようにぼやきながら、嵯峨はぎしりと音を立てる椅子にもたれ、机の引き出しに手を伸ばした。
「勝つことを前提にした作戦は、勝てなかった瞬間に終わるもんなんだ。なぜなら人間予定通りに物事が行かないと壊れるからだから俺みたいに負けることを前提にした作戦だけが、次の一手を残せる……俺は今回の作戦だって負けた先まで手を打ってたぜ。ただ、今回は勝てた。それだけの話だ」
ガラガラと乱暴に引き出しを開けると、領収書とメモ紙とガムの包み紙の下から、一枚の写真を指先でつまみ出す。
「……で、そんな負け犬の前に、今度は一度も負けたことがないような顔をした化け物が立つわけだ。随分と強そうな面だね。俺なんて敵じゃないって思っている面だ」
冗談めかした口調でそういうと嵯峨は写真の美丈夫に目をやった。
「『廃帝ハド』……この宇宙の知的生命体すべてから『逃げ場』を奪うことを目的に復活した化け物『法術師』か……俺達が最終的に戦う敵……本当に勝てるのかね?俺達?まあ、勝たなきゃいけないらしいね。その為の『特殊な部隊』だもん。アンタは勝つために戦いを始めるつもりらしいねえ……だからまだ俺達の前に姿を現さないんじゃないの?俺は負けても残るために戦う。だからいつでもアンタが姿を現してもいいようにお待ちしている訳だ。アンタと俺ではそこが違うんだよ。まあ、最終的にどっちが勝つかは俺にも分からないけどね」
写真に写っているのは、二十歳前後にしか見えない長髪の美男子だった。
鋭く整った目元と、どこか人間離れした整いすぎた顔立ち。冷たく澄んだ瞳の奥に、底なしの虚無が沈んでいる。
嵯峨もまた、そのくらいの年齢にしか見えない。
幼なじみでもない、兄弟でもない。だが『死ねない』という一点だけで、二人は奇妙な『同類』に見えた。
「神前よ、お前は確かにうちに残ると決めた。ただ、お前さんは俺の育った国甲武国の士族達のような『サムライ』じゃない。『サムライ』は武士だから二言は許されないからあれだけの啖呵を切ったら逃げ出す時は腹を切ってあの世に逃げ出す以外ないが、お前さんにはそんな義務はないんだ。いいや、甲武の士族達だってあれだけ『敗走』を『転進』と呼んできっちり逃げてたじゃないの。人間は逃げていいんだよ……そうだよ、嫌なことがあれば逃げればいい。それができない世の中は狂ってる。今の地球や俺の育った甲武……どちらも逃げられない地獄……義兄貴が言う『甲武の身分制の問題』は逃げられないという現実を突き付けられることにある。だから俺は義兄貴の政治に力を貸している……逃げられない境遇……それは地獄だ……そんなことを若いもんに大人がその方が自分たちにそれが都合がいいと言うだけで押し付ける世の中は正気じゃない」
写真を指先で弾くようにしてから、嵯峨はぽつりとつぶやく。
「まあ、この宇宙から逃げる。地球人には考えもつかないことだし、俺にはできねえけど、ランはいつでもこの宇宙が地球人の歪んだ野心に染め上げられていく様を見限っていつでもこの宇宙から別の宇宙へ逃げられるよ。アイツは『人類最強』で『人外魔法少女』だからそんなことをするなら『地球人を絶滅させる!』とか言いそうだけど」
嵯峨は真顔で『人類滅亡』をやり遂げると語る幼女の姿を想像して苦笑した。
「そんな残酷なことはやめてあげなさいって。アイツだってゴキブリを殺すことさえ無益な殺生だと言って嫌がるんだから、ゴキブリよりは会話が楽しめる分だけマシな地球人にも生きる権利くらいあるんじゃないの?だから、そん時はラン、お前さんが逃げてやればいい。お前さんにはその資格があるんだ。それに永遠に死なねえし、いつでも好きなところに『跳べる』からな。たとえこの遼州が太陽の膨張で駄目になっても、この宇宙の外でさえも『空気』と『水』と『食いもん』さえある場所ならアイツは普通にそこを見つけて跳べる。そんなアイツがこの宇宙を見捨てずに鬼軍曹気取って生きてるんだ。そう考えるとこの宇宙はまだ捨てたもんじゃないらしいわ」
どこまでも真っすぐなランと自分を思い返すと嵯峨にはあまりにも自分が汚いものに感じられてきてタバコをくゆらせる指が揺れた。
「この130億年かけて育った宇宙の外の、食い物と空気がある『別の世界』に逃げられるんだ……ランはね。『廃帝』さんよ。アンタはランというそんなトンデモナイ敵を相手に一戦しようとしているんだよ?そのこと分ってアンタはランと敵対しているのかね?それとも何か勝ち筋が……見えてるんだろうな……俺やランには敵が多すぎる。それを利用すれば勝ち筋は有る。そのくらいのことは俺にも分かるよ」
机に肘をつき、頬杖を突いた。
天井の汚れたパネルを見上げながら、その面差しには少し寂しげな表情が浮かんでいる。
「アンタには必勝の手がある。その手を打たれれば俺達は負けるかもしれない。でもな、ランはもう逃げたくないって言うんだ。残念だったな。『ハド』さんよ。アンタを楽には勝たせないランというこの宇宙で最強レベルのカードは俺の手元にあるんだ。アンタは俺には隠しているその切り札を必勝の手と思ってるらしいが、その保証はどこにもないんじゃないの?俺がアンタに簡単に勝てるとは思っていない様に。アンタは逃げ道を消すと言う。俺は逃げ道を残すために戦う。だから俺達は、最初から相容れないんだよ……他の敵とは和解することは俺が折れれば出来るかもしれないけど……アンタとは無理そうだ」
口元だけが自嘲気味に笑う。静かに手にした写真を見つめる嵯峨の目には涙が潤んでいた。それは『強者』であることに拘り過ぎる敵への憐みの感情が混じっていた。
「たぶん、アンタには理解できないだろうな……力あるものが支配すればすべての問題は解決する……確かに俺としてもそれに矛盾を見出すのは難しいが……そんな状態が長く続けばいずれ歪みが来るぜ……そんな世界にも……この世は全て『諸行無常』……確かに俺やランはアンタに殺される以外死ぬことは想像がつかないが……そうでなくても終わりが来るかもしれない……ただそれを俺もランも知らないだけ……逆に俺はそれで良いと思ってるんだ……」
嵯峨はそういうと、ポケットからタバコを取り出した。




