第211話 ここに残る理由
「神前よ……連中はお前さんがいつまでもここに居続けることを前提で話をしているよ。いよいようちに染まることが決定してきたね……神前、今が逃げる最後のチャンスだぞ。それじゃなきゃお前さんは一生アイツ等から逃げられないだろうね」
嵯峨は誠がかなめ達と出て行かない様子を見てそう言った。
隊長の声は冗談めいているのに、その目だけは妙に真剣だった。
「いまさらそんな話をします?確かに『奴隷』とか『下僕』とか『おもしろおかしい同棲付き物件の住人』なんて好き好んでなりたい人はこの世には……いるらしいですけど、僕は違います。でも……僕は逃げ場なんて……」
誠はそう言って静かにうつむいた。
自分の人生の選択肢は、『ここに残る』か『ここで朽ちる』か、その二つだけだと思い込んでいた。逃げる、という発想そのものが、最初から頭の中の選択肢に存在していなかったのだ。
「じゃあ俺も何度も言うけど逃げるってのはね。逃げないよりも長生きする可能性が上がるんだ。そうすると少しは『頭を使う』必要が出てくる。だから辛いことも多い。俺は逃げる人間の方が勇気がある人間だと思うわけ。俺もね、馬鹿みたいに甲武陸軍のエリートコースなんて歩まないで一回ぐらい逃げときゃよかったって今でも思うもん。そうしてたら『不死身の駄目人間』なんて肩書き、背負わずに済んだかもしれないのにな。まあ、エリートコースからは自爆演説で見事逃げ出して見せた訳なんだけど、その事は自慢にならないからお前さんは知らなくていいよ」
嵯峨はそう言いながら出した和紙を静かにたたんだ。
和紙の端がぱさりと音を立てて折り畳まれるたびに、「正式名称」というものが、ただの紙切れに戻っていく。
「逃げる方が勇敢だとでもいうんですか?」
誠の問いに『駄目人間』嵯峨は素直にうなずいた。
だが、嵯峨の言葉は誠の胸に棘のように突き刺さっていた。
逃げることが臆病なのか。それとも、逃げないことが臆病なのか。
迷いと戸惑いが心を支配していた。
東和の大学で叩き込まれた『責任感』や『根性論』が、頭の片隅で『逃げちゃだめだ』とささやく。
「そうだね。逃げたら死なないからね。あの世に逃げ出す機会を失うわけだ。あの世に逃げれば恥はかかないわ、それから先の苦労を考えずに済む。いいことずくめだわな。だからこそ、臆病な人間ほど『逃げない』んだ。『逃げちゃだめだ』なんて考えているなら、迷わず逃げなって。その方がよっぽど勇敢だよ」
嵯峨の意見は何度聞いてもかなり『特殊』であることは誠にも想像ができた。
「それでも、僕は逃げ場なんて見ようとしなかったんです……」
誠はそう言って静かにうつむいた。
そう言う誠を嵯峨は腕組みをして見上げた。
「そりゃあ、お前さんが『高偏差値』の薄ら馬鹿だからわからないんだな。見えてないねえ……リアルが。まず、『偉大なる中佐殿』の教育方針がかなり『パワハラ』を帯びている段階で、なんでお袋とか大学の就職課に連絡しなかったの?」
嵯峨の言いだしたことは誠がこれまでまるで考えたことが無かった話だが、今思えば最初に思いついても当然の話しと言えた。
「あ……そう言う方法って……アリなんですか?」
嵯峨に指摘されて初めて誠はこの『特殊な部隊』からごく普通に逃げ出す方策に気づいた。
「そんなことしたら大学の就職課から東和宇宙軍が目を付けられますよね?そんなことしてもよかったんですか?」
自分の間抜けぶりを認めたくない誠は言い訳じみた調子でそう言ってみた。
「アリも何も……普通の社会人ならそのくらいの常識はあるだろ……自分の置かれている環境が異常だったら人に言う。そのくらいの発想ができないとこの世にうんざりして来世に救いを求めちゃうようになるよ?……新興宗教にでも入っとけよお前さんは……あれはいい金になるみたいだね、俺は興味ないけど」
あっさりと嵯峨はそう言って誠を同情を込めた瞳で見上げた。
「確かに今言われてみるとそういう逃げ道もあったのかもしれませんけど……一応、東和宇宙軍は公務員なんで。安定してるんで」
誠はそう言って嵯峨に食い下がろうとした。
東和共和国で育った遼州人にとって、『公務員』は親が安心できる数少ない進路の一つだ。その中でもキャリア官僚は別格としても、政治家と直接顔を合わせてそのお気に入りにでもなれば『モテない宇宙人』である遼州人にはほぼ不可能な『彼女が出来る』という現象が起き、場合によっては結婚に至ることは誠も知っていた。そんな事を考えると母親の顔が脳裏に浮かび、『せっかく公務員になれたのに』と嘆く姿まで鮮明に再生される。
「そうなんだ……それもね、実のところ俺やランに『ここは特殊すぎるんで』と言えば何とか逃げられたんだ……」
あっさりと嵯峨はそう言ってにやりと笑った。
「逃げるって……どこに?」
誠は嵯峨の言葉が理解できずに戸惑ってそう言った。
「だって……うち、『お役所』だもん。いろんな取引先とか、隣の菱川重工業みたいな取引先は、『危険物取扱Ⅰ種』みたいな資格持ちを喉から手が出るほど欲しがってる。だから『出向』って形で、うちから外に逃す選択肢はいくらでもあるわけだ。だから、『出向』と言う形で、とりあえずこの『特殊な部隊』から外れて、他の生きる道を探せる人生があるの。これはお前さんが知らなくても当然かもしれないけど、それっぽく俺やランに『自分はここに向いてない』ってことを言えばそういう道もあるもんなんだ」
驚愕の事実を嵯峨はさらりとさも当然のように言い放った。
隣の工場で見かけるヘルメット姿の作業員達……彼らの中に、かつて『ここ』にいた誰かが紛れ込んでいても、誠には見分けがつかないだろう。
自分もそこに紛れ込む未来が『あり得た』のだと想像して、背筋がざわりとした。
「そんな……僕の友達もそんな話はしてませんでしたよ!僕の大学は理系では私大屈指の難易度の大学ですけど!そんな方法もアリなんですか?」
反論する誠に嵯峨は明らかに見下したような視線を浴びせた。
「だから、どうしても逃げたきゃネットを調べりゃいくらでも方法は見つかるの。それに大学の難易度と就職先のレベルは比例しないもんだよ。『ベンチャー』の小さな会社や経営者が『独裁者』しているような会社は別だけど、普通に株式を上場している会社ならそんな『出向』なんて話は普通だよ。当然うちは『お役所』だもん。うちの水が合わなけりゃ他にいくらでも生きるすべはあるんだ。自分の置かれた環境がすべてだなんて考えるのは『おバカ』の思い込みだね。お前さんにもランがお前に脅すために言った進路の『倉庫作業員』や『体力馬鹿営業』以外にも、『技術の分かる経営顧問補』なんかの引き合いは今でもあるんだ……どうする?今からでもそっちに『逃げ出す』ことはできるけど……。その人達、マジでお前さんの経歴を見て目の色変えてて結構しつこいんだ。あのしつこさが経営者として成功する手段の一つなんだろうね。週に一度はお前さんの動静を聞いてくる……いいよ、そこに行っても。そこならたぶん少しその業界の勉強ができてきた段階で共同経営者として経営者としての生き方を学ぶことも必要になるが……お前さんは勉強は嫌いじゃないでしょ?」
嵯峨はあっさりと誠の社会経験不足の裏を突く大人の事情を誠に告げた。
誠は嵯峨の言葉に衝撃を受けていた。
『逃げられる』……そんなことを考えたこともなかった。
でも、もし本当に逃げたら、自分は何になるのだろう。
ここに残ることも、逃げることも……どちらも誠には大きな決断だった。
05式の操縦桿の感触、かなめの怒鳴り声、カウラの冷静な叱責、アメリアの馬鹿話、島田の罵声……それらすべてを手放して、見知らぬ職場でスーツを着ている自分を想像してみる。
どうしても、その姿は『自分』には見えなかった。
司法局の制服に曹長の階級章を付けた今の自分と、ここを逃げ出してスーツを着て街を歩く自分。
どちらが本当の自分なのか一瞬考えたが、その前に自分と共に戦った仲間達の顔が浮かんでいる自分に誠は気が付いた。
「でも……西園寺さんは僕を認めてくれていますし……カウラさんはなんか僕を成長させることに生きがいを見出したみたいですし……アメリアさんはツッコミとして僕が必要みたいですし……島田先輩は舎弟の僕を見逃してくれるはずもなさそうですし……もうこうなったらとことん『特殊な部隊』に染まるしかないですね、僕は」
誠は思った。
もうすでに自分はこの『特殊な部隊』の一員なのだと。
ここで逃げたら、今まで自分に向けられてきた信頼も、期待も、ツッコミも、全部放り出すことになる……そんな気がした。
「そうなんだ……お前さんの奴隷根性はよくわかった。まあ、お前と黄泉の国で結ばれるつもりのパーラの名前が出てこなかったのは本人に直接伝えておくわ」
またもや嵯峨はとんでもない発言をした。
パーラがそれほど自分を思ってくれているはずは無いと思っていた。
行きつく先が『あの世』だということは、遼州星系では愛する男女が『心中』するのがごく普通なことだという地球人には理解不能な事実を認めたとしても、それはそれで自分は死にたくないので嫌だった。やはりパーラは常識人に見えてやはり『特殊な部隊』の隊員らしい思考の持ち主だった。
「僕は逃げません!」
誠の宣言に嵯峨は本当にめんどくさそうな顔をした。
「逃げてもいいのに……本当に逃げないの?今からでも遅くないよ……東都警察はお前さんを交番勤務の剣道部の部員として欲しがってるんだから。ああ、東都警察のパワハラはよくニュースになるな。あそこはやめておいた方が良い」
相変わらずなんとか誠をこの『特殊な部隊』から逃げ出すように仕向けたい『駄目人間』の意図に反したい誠は首を横に振った。
「あっそうなんだ。まあ、逃げたくなったら言ってよ。俺や『偉大なる中佐殿』は出入りの業者なんかにいつも『使える人材はいないか』って聞かれてばっかで疲れてるんだ。そん時はよろしく」
そう言って嵯峨は誠に出ていくように手を振った。
「僕は逃げません!僕はこの『特殊な部隊』の一員です!」
『特殊な部隊』な部隊の『特殊に過ぎる面々』との生活と仕事。
それを全部捨てて、『別の人生』を生きることはできるのだろう。きっと、できる。けれど、その人生を歩いている自分を、誠はどうしても想像できなかった。
誠はそう宣言すると嵯峨の馬鹿話に疲れたので敬礼をしてその場を立ち去った。
ドアノブに手をかける指が、わずかに震えていた。
それでも、その震えは恐怖ではなく、覚悟のせいだと信じたかった。
「神前。ここはな、『普通の人間』が長く居ちゃいけない場所なんだよ……俺はそういう考えでこの部隊を作り、そしてお前さんを呼んだ。お前さんが逃げなければ……もう逃げられないぞ」
背後でそうつぶやく嵯峨の顔も見ずにドアを開けて軽く敬礼すると誠はそのまま隊長室の扉を閉めた。
廊下に出ると、さっきまで人垣を作っていた隊員達が、何事もなかったようにそれぞれの持ち場へ散っていくところだった。遠くでかなめの怒鳴り声と、アメリアの笑い声が重なる。
「ああ、このうるさい日常に戻ってきたんだな……やっぱりここが僕の本当の『居場所なんだ』……こんな場所はこの宇宙のどこにもないだろうからな。こんな『特殊な部隊』は」
誠の口からそんな言葉が自然にこぼれていた。
……降格されても、愛称がダサくても、逃げ道がいくらでもあっても。
自分はやっぱり、ここに戻ってきてしまうのだろう。
誠はそう思いながら、薄暗い隊舎の廊下を、いつもの詰め所へと歩き出した。
逃げ道を知った上で、それでもここに残る。
それが今の神前誠の選んだ答えだった。




