第96話 善意という名の地獄
そこは実働部隊・隊長室。
扇風機が古めかしい金網を震わせ、机上の灰皿の灰をかすかに散らしている。
壁際のスチール棚は、法律関係の本と、どう見ても『法律ではない』雑誌で半分ずつ埋まっていた。
46歳バツイチには見えない見たところ25歳くらいにしか見えない『駄目人間』……嵯峨惟基特務大佐は、椅子を適度に傾け、風俗情報誌をぼんやりとめくっていた。ページ隅にはマックスコーヒーのシミが浮かんでいる。
対して、8歳女児にしか見えない『中佐殿』、クバルカ・ラン中佐は、手を後ろで組み、無言で直立したままいつものように呆れた様子で嵯峨を見つめていた。
体温の低い刃物みたいな視線で、上官のだらしなさを見下ろしている。しかし、嵯峨の視線はランの誇らしげな態度に呆れ果てたようにうんざりとした雰囲気に満ちていた。
「おい、ちっちゃいの。俺はいつ、神前を立派な『陸上選手』にしてくれって言った?あんなに走らせたら……そのうち潰れちゃうぞ?それと、お前さんの残業と称する筋トレ4時間の後にかなめ坊が3時間ほど久しぶりに神前のピッチングを見たいから投げ込みをさせるとか言ってきたのを許可したらしいじゃないの……そうすると合計7時間だな。さらにその後アメリアは神前に運航部の女子が同人誌を収集する資金源にしている同人エロゲの原画を神前に描かせるけどいいかってお前さんに言ってきたらしいじゃないの……アメリアにそれってどれくらい時間がかかるのって俺が聞いてみたら一日3時間とか言ってた。つまり、アイツは通常の勤務時間8時間の間ずっと走っていて、その後4時間筋トレをして、3時間ピッチング練習をして、それが終わったら3時間絵を描くわけだ……一日あたり18時間はお前さんの監視下に置かれる訳だよな……通勤時間が1時間で、昼休みが1時間。つまりアイツが自分で使える時間は一日4時間しかないわけだ……その状況……どう思う?」
嵯峨はグラビアの紙面から目を上げず、口先だけで言う。嵯峨は隊長室の横にあるモニターに映る真面目に走り続ける誠の姿を見てため息をついた。
「ずっと走ってりゃ、この前みたいに『出て行こう』なんてつまんねえこと考えられねーだろ?それに『うちに居つくように逃げ道をすべて潰せ』って、アイツが来る前にアタシにそう言ったな?隊長は。それに隊長がアタシと戦った遼南内戦ではアタシは3年間ほとんど一睡もせずに出撃を続けたぞ!確かにアタシの出撃命令について行けねえアタシの部下のもやしのほとんどは疲れたとか抜かしやがってアンタに堕とされて死んだ。でもそれは、アタシがアイツ等を鍛え足りなかったからだ。だからアタシは神前を走らせて戦力に育てる!それが真の成長だ!」
ランは胸を張ったまま、ちらりと嵯峨を見る。
明らかに『よくやった』と言われ待ちの顔だった。
嵯峨はランのその態度を見ると何もかも諦めたような大きなため息をついた。
「逆効果だよ……疲れ果てて精神を病んで首でも吊られたら気持ち悪いでしょ?神前の逃げ道を潰す方はな、俺が各方面にねじ込んで『法的』に色々やっといたから。それと遼南内戦でお前さんがそんな誰が見ても無茶な戦い方をしなきゃならなくなったのは俺がお前さんと同じように戦い続けたらお前の部下が疲労でぶっ倒れて全滅するんじゃないかなあと思って俺が部下に指示してお前さんの部隊を一分でも休ませないように策を練ってそう仕向けたわけ。そいつ等がまともに機体の操縦もできずにパイロットが専業でない俺に簡単に撃墜されたのはその策を策だと気づかなかったお前さんが指揮官として無能だったと言う証拠だよ?そんなこと自慢しても何にもなんないじゃん。本当に」
さらりと嵯峨は物騒な一言を言った。
嵯峨は引き出しから小さなバッジを取り出し、指先ではじく。
……東和共和国の『弁護士バッジ』。金色の小さな楕円が、安っぽい蛍光灯の下でも妙に存在感を放つ。
「だからさあ、『中佐殿』。お前さんは神前を『普通に教育』して人並みの兵隊さんやお巡りさんにしてやればいいの。お前さんのように24時間365日3年間戦い続けるなんてことをして平気なのはうちでもお前さんと俺とあともう一人……そんなレアスキルの持主は世の中にはたくさんいるわけじゃないんだよ。普通の人はそんなことをしたら死んじゃうって何度言ったらわかるんだよ。まあ、お前さんにはその死に方こそ人間のあるべき死に方なんだろうけど、その死に方を神前がしたら責任を取らされるのは俺だよ?そのくらいの配慮は俺の部下なんだからしてもらわないと俺としても困るんだよ。わかるかな?つまり俺が言いたいことはお前さんがどうしてもやりたいっていう『特殊な教育』は神前にはいらないの」
雑誌のページを繰る指は止まらない。視線も落ちっぱなし。
それでも、言葉だけは妙に正確で、いやに冷静だった。
「そんなことはねえ!人間その気になれば三年間寝ずに戦い続けることぐらい簡単だ!実際アタシはやって見せた!アタシが出来たんだから誰でもできる!ましてや神前はタフだからな。あのくらいのしごきは屁でもねえ!それに社会人の駅伝選手は毎日もっと走ってんぞ。それに比べたら手ぬるいくらいだ!そんな事だからもやしがデカい顔をしてこの世にのさばっているんだ!人生は『サバイバルゲーム』だとこの前テレビでやっていたぞ!その過程で世の中の9割が死ぬ?そんなのは本人の体力の不足と言う責任だ!アタシは地球人は嫌いだがアイツ等もたまにはいいことを言うぞ!連中はそんな社会に落ちこぼれて過労死していく人間を『自己責任』とか言ってたな!当然、その言葉を吐く連中は24時間365日アタシが走り続ける間にその後ろを永遠に走り続けることができるからそんなことを言ってるんだろうな!地球人にも見どころの奴もいるもんだ!」
ランは高らかに反省ゼロ宣言をした。ランの辞書には『休む』という文字はない。ランが勤務中将棋しかしていないのは、彼女が本気で仕事を始めると『24時間365日1億年間戦い続ける』のが当然だと思っているからだ。
そんな働き方を隊員たちに強制するのは目に見えているので、嵯峨がランを理屈で説得して仕事を与えていない。
それが、ランが将棋以外の仕事をしていない本当の理由だった。
嵯峨はようやく顔を上げ、短く落胆の色を見せた。
「そもそも1億年間寝ずに戦い続けるのは普通の人間には不可能なの。というか、地球の『超富裕層』でもIPS細胞なんかの最新技術で何にもしない状態でも150年しか生きられないの。そもそも不眠不休で24時間走り続けたらその『自己責任』論者たちも全員死ぬと思うよ。それと『駅伝選手』が年がら年中走ってるのはそれは『駅伝選手』としてその会社に雇われた人たちだからでしょ?あれは走るのが仕事だからそれを仕事としてやってんの。それにウチは軍事警察だから走るのは訓練であってそれでお金をもらっている訳じゃないの。今の世の中、お前さんのやってる無茶な走らせ方は『しごき』って言って、労働基準監督署がパワハラ認定してくるの。二十世紀末の『体育会系社会』に社員は使い捨てで死んで当然というような会社がうんざりするほどあったのは事実だけど、違うでしょ、普通」
嵯峨のまっとうな指摘にランは、あえて聞こえないふりを決め込む。
嵯峨は肩をすくめ、法律屋らしい逃げ道の多い言い回しで続けた。
「ランよ。たしかに三年間寝ずに戦い続けることを求める会社はどこにでもある。でもそれは口では言うけど実際にそれを実行したら社員が死ぬことくらい理解してるから実際にそれをやらせてないよ……まあ、それに限りなく近い状況に置くから過労死が無くならないんだけど。でもね、そんなこと『知らなくて済む人』は、知らない方が幸福なんだ。世の中がそういうので満ちてることを、察している『残酷な賢い人』も黙ってるよ。そんな事を口にしても自分が損するだけだってわかってるから。実際、三年間寝ずに戦い続けることをやったと自慢してそれが誰にでもできることだと言っている人が副隊長しているうちが完全にブラック企業だと言うことをいい加減自覚してくれないかな?」
ため息。机の上の灰皿にタバコを立て、マックスコーヒーの缶をコースター代わりにしている。ランは『知らなくて済む人』という言葉に、少しだけ眉をひそめた。
「神前も馬鹿だよな。少しかなめが良いこと言ったらコロッと辞めるのやめるって……逃げりゃ楽だったのに。まあ、俺には残ってくれた方が都合はいいんだけどね」
スルメをひと切れ、噛む。顎が鳴る。
「隊長は嬉しいんだろ?本当は。隊長の『敵』との戦いの手駒が一つ増えた。……良いことじゃねーか。西園寺の奴の事も褒めてやったらどーだ?」
ランはにやりと笑った。
「それにしても誠の奴は純粋すぎるよな。若いってことなのかな。このまま行ったら本当にお前さんに三年間寝ずに戦い続ける生活を求められるぞ。そうなったら……死ぬな、間違いなく。でもまあ、俺もその前の段階でドクターストップを入れるからその時はお前さんは不満かもしれないけど我慢してね。それに比べて、俺たち……ちょっとひどい大人だったかな?」
嵯峨は視線を机に落とし、スルメの袋口を指でつまんだ。
「かもな……でも、三年間寝ずに戦い続けるなんて簡単だぞ?出来ねえ奴は鍛え方が足りねーんだ!そんな奴は戦場に来る前に死ね!」
ランは後頭部をがしがしとかいた。
短い沈黙の時が流れた。
その沈黙の中で、モニターの中の誠だけが、何も知らずにまだ走っていた。




