第08話 漁港の目撃者
車のエンジン音が国道のノイズに消え、桐嶋篤は名護市街の細い路地へ車を滑り込ませた。午後二時三十分、コンクリートの壁に蔦が絡まるコーヒーショップの裏手だ。彼はエンジンを切り、バックミラーを見つめた。路上には郵便配達のバイクが一台、ゆっくりと過ぎるだけだった。
ナイロンバッグを肩に掛け、車を降りる。アスファルトの熱気がすぐに足元を包んだ。彼は店舗の側面に回り込み、非常口の脇にあるゴミ置き場の影に身を寄せた。耳を澄ます。店内からは豆を挽く音と、かすかな音楽が流れている。先ほどの男たちの気配はない。
彼はゆっくりと非常口のドアに手を伸ばした。鍵は掛かっていない。ほんの数センチ開け、店内の様子を覗いた。カウンターには店主だけが背を向けて立っている。ボックス席は空いていた。
桐嶋は息を整え、ドアを押し開けた。冷房の風が汗ばんだ頬に触れる。彼はさっきと同じ窓際の席へ向かわず、カウンターの端に置かれた新聞棚の前で足を止めた。右手はバッグの中へ滑り込み、拳銃のグリップを軽く確かめる。
「アメリカンを。持ち帰りで」
声は低く、平たい。店主は振り向かず、うなずいた。機械的な動作でコーヒー豆を計り始める。桐嶋の視線は、カウンターの下に立てかけられた配達用の段ボール箱に落ちた。側面に「那覇市 楚辺」の文字と、三桁の数字がマジックで書かれている。
店主がコーヒーを淹れる音だけが響く。桐嶋は新聞を一ページめくりながら、頭の中で計算を繰り返した。楚辺の倉庫まで三十分。男たちは「三時まで」と言っていた。残り二十七分。
紙コップがカウンターに置かれる。桐嶋は小銭を払い、コーヒーを受け取った。熱さが掌を伝う。彼は一言も発せず、非常口から再び外へ出た。
車のドアが閉まる音が、路地に短く響いた。エンジンが唸りを上げる。彼はコーヒーを飲まず、助手席に置いた。両手がハンドルを握りしめ、車は路地を抜け、国道へと合流する。
視界の端で、黒いセダンが対向車線から左折してくるのを捉えた。桐嶋は速度を変えず、あくまで普通の車の流れに身を任せた。セダンは彼の後方、三台後ろに収まった。
監視下だ。男の言葉が現実となって、車内の空気を重くした。桐嶋の顎の筋肉が微かに揺れる。楚辺の倉庫へ直行すれば、彼らに動きを悟られる。しかし、迂回する時間はない。
信号が赤に変わる。彼は停止線で車を止め、サイドミラーを見た。黒いセダンも同じ車列に停まっている。距離は変わらない。
桐嶋の右手がギアシフトに移った。信号が青に変わる瞬間、彼は左ウィンカーを出した。本来なら直進するルートだ。セダンは直進車線にいた。後続の車が左折レーンに入る隙を縫い、桐嶋はアクセルを踏み込んだ。 店主はコーヒーマシンの蒸気音を止め、タオルで手を拭いながら振り向いた。五十歳前後の男で、左頬に古い火傷の痕があった。彼の目は桐嶋の軍用端末に一瞬止まり、それからゆっくりと顔を上げた。
「先ほどは、お急ぎの用事で」
声は低く、滑らかだ。桐嶋は端末の画面を閉じ、コーヒーカップを手に取った。店主はカウンター越しに身体を乗り出さず、一定の距離を保ったまま話し続ける。
「お嬢さんは元気にしていますか。美咲さん、でしたね」
桐嶋の指がカップの縁で微かに震えた。彼はコーヒーを一口含み、ゆっくりと飲み込んだ。喉の筋肉が硬く動く。
「どうして知っている」
「この辺りでは、顔を知らない者はいませんよ。特に、あの事件の後は」
店主はタオルをたたみ、カウンターの下にしまった。動作は無駄がない。
「学校は、もう慣れましたか。転校してすぐでしたね。友達はできていますか」
質問が細かく、鋭く続く。桐嶋の背筋が伸びる。彼はカップを置き、右手を膝の上に戻した。掌がチノパンの上でゆっくりと握られる。
「詳しいな」
「心配しているだけです。この町で、お子さんを育てるのは大変ですから」
店主の目が桐嶋の目をまっすぐに見つめた。そこには同情も、脅しもない。ただ、事実を伝えるための冷たさだけがあった。
「先週の内科検診、結果はどうでしたか。貧血気味だと聞きましたが」
桐嶋の顎の筋肉がピクッと動いた。彼はゆっくりと立ち上がる。椅子の脚が床を擦る音が、静かな店内に響いた。
「用が済んだ。勘定を」
「もう一杯、おごらせてください。お嬢さんのために」
店主は新しいカップを取り出し、豆を挽き始めた。機械の音が規則的に鳴る。桐嶋の視線は、非常口のドアへと移った。外には黒いセダンが待っている。中には、娘の全てを知る男がいる。
彼はバッグを肩に掛け直し、コインをカウンターに置いた。音だけが乾いた。
「結構だ」
ドアを開ける冷気が、背中に触れる。店主の声が、最後に追いかけてきた。
「どうか、お体を大切に。お二人で」
桐嶋は振り返らず、路地へ歩き出した。足取りは速くならない。しかし、背中の感覚は変わった。監視ではなく、刃が脊髄に当てられているような、鋭い圧力だった。彼の娘は、既に『網』の中にいた。第4話「娘と任務の狭間」
午前六時、辺野古の空はまだ薄明かりの中にあった。桐嶋篤は事務所のソファで浅い眠りを貪っていた。スーツの上着を掛けただけの格好で、壁の時計が六時七分を指している。約三時間の仮眠。十分とは言えなかった。
夢は見なかった——いや、見ていたのかもしれない。網。美咲の姿が、あの暗い網の向こうにぼんやりと浮かんでいた気がする。
彼は起き上がり、窓の外に目をやった。カーテンの隙間から見える向かいの駐車場。白いワゴン車が停まっている。運転席に人影はない。だが、それは何の保証にもならなかった。
桐嶋はキッチンに立ち、ヤカンに水を入れた。ガスコンロの火をつける。昨日、遺族の家から持ち帰った段ボールが応接デスクに山積みされている。被害者——比嘉恵子、三十四歳。反対運動に参加していた一般の主婦。そう報道されていた。




