第06話 カウンターの影
デスクの端に置かれた軍用端末の画面が、衛星画像のダウンロード完了を示す緑色のバーで満たされていた。彼は弁当の蓋を閉じ、トレイを脇へ押しやった。食べ残しが三分の一残っている。コーヒーカップに手を伸ばす。冷たい液体が食道を滑り落ちる。
彼は椅子の背にもたれ、目を閉じた。瞼の裏に、白色軽トラックの動きと、森脇のアパートから消えたハードディスクの軽さが交互に浮かぶ。点と点。それらを繋ぐ線は、AN/PRC-百六十七という名の、確かな回路だった。
目を開ける。彼の右手が、デスクの上を這い、血の滲んだメモのコピーに触れた。十一桁の数字。これを解く鍵は、もう彼の手の中にある。疲労が骨の髄に染み渡るが、思考だけが異様に鮮明に回転を始めていた。午前十時四十五分、桐嶋探偵事務所の執務ルームには古い書類の埃が光の中で漂っていた。桐嶋篤は床に広げられた段ボール箱の前に膝をつき、中身を取り出し並べていた。一週間前まで続いていた、土地境界を巡る隣人トラブルの調査資料だ。請求書とメモ、現地写真の束。彼はそれらを年代順に仕分け、新しいファイルへと綴じ直す作業を続けていた。
指先が茶封筒の厚みを感じた。中を探ると、折り畳まれたA3サイズのコピー用紙が現れた。彼はそれを広げた。無線通信機の技術図面だ。各部品の配置と接続が精密に描かれ、周波数帯や消費電力の数値が細かく記されていた。
桐嶋の呼吸が浅くなった。目が図面の右下に注がれる。認印のように押された、かすかなスタンプの痕。「試験運用中・機密扱い」。その文字の下には、三つのアルファベットが読み取れた。AN/。
彼の掌がじんわりと汗ばんだ。かつて海上自衛隊で扱った、米軍製の携帯型暗号通信機と同じ特徴だ。民生品では実現不可能な周波数跳躍の方式。耐水防塵の規格値。この図面は、明らかに軍事用だ。
なぜ民間の土地トラブルの資料の中に。彼は資料の依頼主を思い出す。辺野古で小さな民宿を営む年老いた女性だ。彼女の所有地と基地の境界が問題になった。単純な測量の依頼だった。
桐嶋は図面を注意深く調べ直した。コピーの用紙はごく普通のものだ。だが、図面自体の鮮明さは本物の技術資料から直接複写したことを物語っていた。彼の頭の中で、二つの事実がぶつかった。民宿の老婆。軍事用通信機。
彼はゆっくりと立ち上がり、調査ボードの前に歩み寄った。手にした図面を、AN/PRC-百六十七の回路図の隣に置く。二つの図面は酷似していた。同じ系統の機種だ。彼の鼓動が耳の奥で強く打ち始めた。
土地調査の過程で、何かが混入した。あるいは、混入させられた。どちらにせよ、この図面がここにあること自体が、事件の輪郭を更に不気味に膨らませていた。辺野古の細道は午前十一時の陽に乾き、コンクリートブロックの隙間から雑草が首を伸ばしていた。桐嶋篤は事務所の裏口を潜り、人目を避けるように路地裏へと足を踏み入れた。手には小型のナイロンバッグ。中身は図面のコピーと、十一桁の数字を記したメモ、そして拳銃の重みだった。
背筋が固く、歩幅は自然だが呼吸は浅い。脇腹にチョッキの縁が食い込む感覚。目は前方の曲がり角を捉え、同時に後方の視界の端を監視する。耳朶は車のエンジン音と、それ以外の足音を選り分ける。路地は生活の裏側を縫い、テント村へと続く最短経路だった。
彼は廃材置き場の陰で一呼吸止まった。掌が汗ばみ、ナイロンの表面が滑る。ここを抜ければ、基地フェンスと反対運動のテント群が視界に入る。残り八十分。森脇の傷口から流れた時間が、今、彼の体内を駆け巡る。
足を踏み出そうとした瞬間、左側の空き家の二階で影が動いた。カーテンの揺れではない。窓枠を横切る、人の輪郭だ。桐嶋の身体が反射的にブロックの陰へ飛び込んだ。背中が冷たいコンクリートに押し付けられる。鼓動が喉元を打つ。
息を殺し、三秒。五秒。頭上を小鳥の群れが通り過ぎる羽音だけが響く。彼はゆっくりと首を傾け、路地の先を覗いた。影は消えていた。が、空き家の玄関前に、新しいタバコの吸い殻が二本、平行に落ちている。
「…回り込まれた」
声には出さず、歯の間で噛みしめた。敵の網は主要道路だけではなかった。生活道路、抜け道、すべてに目が光っている。彼はバッグのベルトを肩に深くかけ、逆方向へと歩き出した。遠回りになる。時間を失う。しかし、直進は罠だ。
路地を二つ曲がり、小さな神社の境内を斜めに横切った。石段の苔が滑る。彼の足取りは速く、しかし無音に近い。軍で叩き込まれた歩法が、十年を経て蘇る。ここからなら、テント村の西側から接近できる。監視の目が薄い死角だ。
神社を出たところで、前方から子供たちの笑い声が聞こえた。小学生のグループが道を塞いでいる。桐嶋の歩みが一瞬止まる。迂回するか。しかし、子供たちの輪の中に、一人、面識のある顔があった。テント村で炊き出しを手伝う老婆の孫だ。
彼は表情を緩め、自然に手を挙げた。子供が彼に気づき、笑顔で手を振り返す。その一瞬、彼は集団の後方を見た。路地の向こうに、サングラスをかけた男が立っていた。男はすぐに視線を逸らし、携帯電話に口を当てた。
桐嶋は子供たちの横をすり抜けながら、バッグを体の内側へ寄せた。男は追ってこない。だが、彼の現在地は確実に報告された。テント村まであと三百メートル。最後の直線路だ。
彼は速度を上げず、あくまで地元の住民を装って歩き続けた。背中に、まるで銃口を向けられているような、鋭い圧迫感。それは監視の目であり、時間の喪失感であり、娘の安全を脅かす闇の存在そのものだった。辺野古の反対運動拠点、テント村の一角に立つ集会用のブルーシートテントは、午前十一時三十分の強い日差しに曝されていた。桐嶋篤はテントの入口で足を止め、中から漏れる幾つかの声に耳を傾けた。汗が眉間に滲み、チョッキの下で冷たく流れる。




