第05話 情報収集の境界線
耳朶に、ヘッドセットから漏れる雑音が蘇る。英語の断片的な交信。装甲車両の履帯が泥を搔き鳴らす音。そして、非公式ドックに運び込まれた、規格外のコンテナのシルエット。彼は双眼鏡でその側面の識別番号を読み取ろうとした。だが、上官の声が低く響いた。「記録するな。見てもいなかったことにしろ」。
桐嶋の顎が微かに痙攣した。新聞を握る指の関節が白くなった。今、目の前に広がる辺野古の海と、あの夜の密林の雨。地理は違う。だが、闇の運び方が酷似していた。公式記録に残らない物資。立ち入り禁止区域。不可視の協定。
潮風が新聞紙の端をめくった。現在の事件記事が、過去の記憶の上に重なった。被害者の遺品から出た軍用通信機の図面。森脇のアパートから消えたハードディスク。すべてが、同じ回路で繋がっている気がした。
彼はゆっくりと呼吸を整え、歩き出した。砂の上に残る自身の足跡が、波に洗われて消えていくのを眺めながら。記憶は記録ではない。だが、彼の中に刻まれた感覚だけが、今、この事件の核へと手繰り寄せている。辺野古海岸の砂礫道を離れ、桐嶋篤は国道五十八号線へと向かう細い脇道へ足を踏み入れた。午前八時二十五分、潮風が背後の海から追いかけてくる。左手の新聞は丸められ、右手の書店の紙袋がコンクリート塀に擦れながら進む。
脇道は廃屋と雑草に挟まれ、アスファルトはひび割れて土を覗かせている。車両は通れない。地元の漁師か建設作業員だけが使う近道だ。彼の足音だけが、空洞のように路地に響いた。
彼の歩調は一定を保つが、眼球の動きだけが鋭く研ぎ澄まされる。右の廃屋の窓枠。左の雑草の茂み。視野の周辺に意識を広げ、一点に集中しない。軽トラックのエンジン音は聞こえない。代わりに、遠くの工事現場から風に乗るクレーンの警告音が、間欠的に届く。
路地がカーブする地点で、彼の足が一瞬止まった。背筋が伸びる。前方十メートル、地面に落ちたタバコの吸い殻が三本、三角形を描いて散らばっていた。まだ火種がくすぶる一本から、淡い煙が真っ直ぐに立ち上っている。
桐嶋は呼吸を最小限に制御した。体の軸が静かに固まる。誰かがついさっきここに立っていた。しかも、わざとらしい配置だ。神経が末端まで研ぎ澄まされる感覚が、首筋から背骨を伝う。尾行ではなかった。待ち伏せの可能性だ。
彼は紙袋を左手に持ち替え、右手をチョッキの上に自然と滑り込ませた。拳銃のグリップが冷たい。進むか、引くか。路地は一方通行に近い。引き返せば海岸線へ戻る。時間を失う。
彼はゆっくりと一歩を踏み出した。吸い殻の横を通り過ぎる時、足音を殺す。目は廃屋の二階部分を捉える。窓ガラスが一枚、欠けている。黒い穴だ。
何も起こらなかった。彼は路地を抜け、名護市街地の裏通りへ出た。雑踏の音が突然、耳に流れ込む。彼は肩の力を微かに抜き、握り締めていた拳を開いた。掌には汗がにじんでいた。
近道により、予定より七分早く書店の路地裏に到着した。しかし、その時間的利得は、脇道で感じた監視の気配によって完全に相殺された。敵の網は、すでに主要道路だけでなく、細かい生活の隙間まで張り巡らされ始めている。
事務所の執務ルームには、朝九時三十分の光が調査ボードを斜めに切り裂いていた。桐嶋篤はボードの前に立ち、新たに貼り足したコピー用紙を見つめていた。AN/PRC-百六十七の回路図。その脇には、森脇の血で汚れたメモから写し取った十一桁の数字が並ぶ。壁には辺野古の地図、被害者の写真、白色軽トラックの不審な周回経路がピンで繋がれていた。
彼の右手の親指と人差し指が、無意識に顎を擦った。皮膚の下に、固くなった筋肉の塊を感じる。目蓋が重い。足首の古傷が、低気圧を告げるように鈍く疼いた。デスクの上の軍用端末は、衛星画像へのアクセス要求を処理中を示す赤いランプを点滅させ続けている。
胸の奥に冷たい塊が沈んだ。調査を深めれば、この輪郭のない闇が、娘の通学路にまで影を伸ばす。窓の外を、小学生の集団が笑いながら通り過ぎる。その中に美咲の姿はないが、同じ年頃の背中が、彼の瞼の裏で焼き付いた。
「…だめだ」
彼は呟いた。声は乾き、壁に吸い込まれた。探偵としての良心が、遺族の無念を前に軋む。退役兵としての嗅覚が、この図面と数字の向こうに蠢く組織の存在を叫ぶ。しかし父親としての臓腑が、ただ一つ、引き返せと訴える。
彼はデスクの引き戸を開けた。中には拳銃と、その隣に銀縁の写真立てが並んでいた。美咲が小学校の校庭で笑う顔。彼は写真に触れず、引き戸を静かに閉めた。指先がわずかに震えている。
軍用端末のランプが緑に変わった。アクセス許可が下りた。彼の手がハードディスクのケースへ伸びる。中には複製したデータが眠っている。真実への扉を、今、開けるか。
彼の呼吸が浅くなった。耳の奥で自身の鼓動が脈打つ。96時間のカウントダウンが、頭蓋の内側で秒針の音を響かせる。正義と安心。その狭間で、桐嶋篤は動けなかった。事務所の執務ルームには午前十時の光が、調査ボードに貼られたAN/PRC-百六十七の回路図を白く浮かび上がらせていた。桐嶋篤はデスクの上に置かれたコンビニの弁当の蓋を開けた。鮭の焼き身と煮物が並び、ご飯には白い湯気が立ち上っている。
彼は箸を手に取り、一切れの鮭を口に運んだ。冷めかけた脂の感触が舌の上に広がる。咀嚼は早く、味わう間もなく飲み込んだ。喉仏が上下する。視線は、弁当のトレイではなく、眼前の調査ボードに釘付けだった。被害者の写真、地図、数字の列。それらが彼の視界の端で蠢く。
煮物の箸が止まった。大根に箸先が触れたまま、数秒が経過する。彼の内臓がぎゅっと締め上がる感覚があった。昼食を取る時間さえ、無駄に思えた。しかし、体が燃料を求めている。手が再び動き、ご飯を口に押し込む。米粒が頬の内側に張り付く。




