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第04話 娘と任務の狭間

 桐嶋篤は国道五十八号を北へ疾走させた。午前九時、車窓を掠める風に海の匂いが混じる。右腕の筋肉がハンドルを握りしめ、夜明け前からの仮眠で和らいだはずの疲労が骨の奥で疼いた。彼は目を細め、前方の路地を捉えた。森脇のアパートはその先だ。


 彼は車を路肩に滑り込ませ、エンジンを切った。目を閉じ、一呼吸。耳朶に自身の鼓動が響く。吐息が白く窓を撫でる。ここは辺野古基地建設現場から二キロ北、雑居ビルと古い住宅が混在する街区だった。白い軽トラックは見えない。


 ドアを開け、外気が頬を打つ。冷たさが首筋を這い、胃の腑に鋭い塊として沈んだ。彼は制圧用スタンガンをチョッキの内ポケットに押し込み、防犯カメラを首から下げた。歩き出す足取りは自然だが、視界は百八十度に拡げられている。


 アパートの扉は閉まっていた。桐嶋は呼び鈴を押さず、鍵穴を覗いた。内部から物音は聞こえない。彼は躊躇わず、ドアの脇の配管を伝い、二階のバルコニーへと身を翻した。手すりが冷たく、指先が感覚を失いかけた。


 バルコニーの窓は開いていた。カーテンが風に揺れる。桐嶋は身を低くし、室内を覗き込んだ。散乱した書類、倒れた椅子、床に転がるノートパソコンの残骸。液晶画面が割れ、基盤がむき出しになっていた。


 彼は窓枠を潜り抜け、室内へ入った。足元がガラスの破片を軋ませる。寒気が背筋を這い上る。これは単なる部屋の乱れではない。捜索の痕跡だ。彼はノートパソコンの残骸を拾い上げた。重さがない。ハードディスクが抜き取られていた。


 その時、浴室から水音がした。桐嶋の身体が瞬時に反転する。スタンガンを構え、息を殺す。ドアがゆっくりと開いた。血の気の引いた顔が現れる。森脇健一だった。彼は壁に寄り掛かり、片手を腹に押し当てていた。指の間から黒い染みが滲んでいる。


「…遅かったな、桐嶋さん」

「動くな」


 桐嶋は素早く近づき、傷口を確認した。刺創だ。深さはわからない。彼はチョッキを引き裂き、圧迫包帯を代用した。森脇の肌が冷たすぎる。


「パソコンは?」

「取られた…三十分前…二人だった…」


 森脇の言葉が途切れる。桐嶋は彼を支え、窓へと導いた。残り時間はない。しかし彼は、床に落ちたメモ帳の切れ端に目を止めた。そこには、十一桁の数字が走り書きされていた。


 彼はそれを掴み、ポケットへ押し込んだ。数字の列が、掌の中で微かに温もった。これが、壊されたノートパソコンが隠す最後の手がかりだった。


 桐嶋は森脇の体重を肩に預け、バルコニーから路地へと降りた。背後で、遠くの工事現場から重機のエンジン音が轟いた。辺野古の事務所兼自宅の台所には、朝の光が水場のステンレスを鈍く光らせていた。午前九時三十分、桐嶋篤はシンクの前に立ち、一尾の鯵の鱗を引いていた。隣のコンロでは味噌汁が湯気を立て、湯気の中に舞う粒子が西平良の島豆腐と刻み葱の輪郭を揺らす。


 彼の指先は魚の冷たい胴体を確かに捉え、包丁の背で鱗を逆撫でる。右手の甲には昨夜の駆け込みで付いた擦り傷が、水に触れる度に微かに疼いた。鯵の目が虚空を見つめ、エラから流れ出た水滴がシンクの底で小さな音を立てる。その音だけが、台所に響いていた。


 彼は鯵の腹を裂き、内臓を取り除いた。銀色の皮の下に、桃色の身が現れる。三枚におろす包丁の動きには無駄がなく、軍で習ったナイフ捌きの痕跡が残っていた。しかし今、その手は魚を切り分けるためだけにある。


 コンロの火を強め、フライパンに薄く油を引く。鯵の切り身を並べ、皮目から焼き始める。脂がジュッと音を立て、磯の香りが湯気に混ざって立ち上る。その匂いを、彼は深く吸い込んだ。


 味噌汁の鍋を揺らし、味噌を溶き入れる。左手に持った椀に、まず豆腐とワカメを盛る。湯気が彼の顔を包み、まつ毛に微かな湿気をまとわせた。


「美咲は、これが好きだったな」


 彼は口に出さず、頭の中で繰り返した。鯵の焼き色がこんがりと変わり始めた。彼はフライパンを軽く揺すり、ひっくり返した。身の白さが一瞬、朝日を反射する。


 食卓に二つの膳を並べる。一つの前には、父の制服姿の古い写真が立てかけてある。もう一つの前には、今日の学校の時間割が置かれた。彼は焼き魚と味噌汁をそれぞれの膳に配り、ご飯をよそった。


 彼は自分の席に腰を下ろし、箸を取る前に一呼吸置いた。窓の外から、辺野古の工事現場の重機の音がかすかに聞こえる。この音は日常の一部だった。しかし今、彼の耳には別の音も鳴り響いていた。森脇の浅い息づかい。ハードディスクが抜かれたノートパソコンの軽さ。十一桁の数字が記された紙切れの感触。


 彼は箸を握り、鯵の一切れを口に運んだ。塩気と脂の甘みが舌の上で広がる。温かいご飯がその味を包み込む。味噌汁の出汁が喉を優しく通る。


 この一瞬だけは、戦場も、監視も、失われた証拠もなかった。あるのは朝食を待つ娘の姿と、それを用意する父親の手つきだけだ。彼は咀嚼をゆっくりと繰り返し、目の前にある平凡な光景を、瞬き一つせずに見つめ続けた。指先の擦り傷が、箸を握る力でまた疼いた。


 辺野古の海岸線に、朝八時の潮風が塩の粒子を運んでいた。桐嶋篤は新聞を握りしめたまま、砂礫の道をゆっくりと歩いていた。右手には書店で購入した紙袋が揺れ、左手の新聞紙は「辺野古沖で遺体発見」の見出しで風にひるがえった。彼の視線は水平線の彼方、灰色に霞む嘉手納の方向へと向けられていた。


 足元の小石が軋む音だけが、思考を遮る。突然、潮の匂いが変質した。消毒液と鉄錆の混じる臭いが鼻の奥を刺す。彼の歩みが止まった。視界の端で、波の模様が十年前の雨の夜の水溜りへと溶けていった。沖縄本島東海岸、演習区域の密林。彼は当時、偵察チームの一員として暗闇に潜んでいた。


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