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第03話 依頼の代償

 棚の書背が整然と並ぶ中、一冊のタイトルが視界に飛び込んだ。『現代暗号理論の応用』。著者名に旧軍研究機関の関係者が含まれている。彼の手が伸びる。指先が製本された紙面に触れた。


 ページを開く。数式とグラフが羅列され、内容は高度すぎて理解できない。だが、軍事通信における応用例の章が目に留まる。彼の瞳孔が僅かに収縮する。ジョンから受け取ったデータの暗号形式が、ここに記述された理論と類似している。


 彼は本を閉じ、背表紙を再び見つめた。無意識に、右手の親指と人差し指が顎を擦った。この書店にこの本が並んでいる偶然。彼の思考が、夜間の接触から現在の状況へと接続される。


 桐嶋は本を棚に戻そうとし、手が止まった。代わりに、それを手に持ったままレジへ向かう歩を進めた。購入はリスクだ。しかし、調べる材料が必要だった。


 レジで代金を支払い、紙袋を受け取る。店を出る時、彼は一度振り返った。棚の空いた一区画が、彼の行動を証言していた。


 書店を離れる桐嶋の背中に、朝日が影を落とす。彼の手に提げられた紙袋は軽いが、その中身が次の調査対象となることを、彼は既に認識している。名護の書店を出た桐嶋篤の手には、薄い紙袋が提げられていた。朝八時を過ぎた商店街は、買い物客と営業準備の店主たちで動き始めている。彼は歩道を東へ向かい、事務所への帰路を歩いた。


 国道沿いの弁当屋の前で、彼は足を止めた。ガラスケースには朝仕込みの惣菜が並び、湯気が窓を曇らせている。桐嶋は鮭弁当を一つ指さし、千円札を差し出した。店主がお釣りを渡す間、彼の視線は路上を往復する車両を追った。白色の軽トラックが二度、同じブロックを周回している。


 弁当の温もりが紙袋を伝い、指先に届く。彼はその熱を握りしめ、歩き出した。右手は拳銃のチョッキの上に自然と置かれる。軽トラックは次の角を左折し、視界から消えた。


 商店街を抜け、住宅地の細道へ入る。コンクリート塀の影が長く伸び、彼の足音だけが路地に響く。肩の張りが、歩調に合わせて脈打つ。彼は呼吸を浅く整え、耳を澄ませた。背後には子供の笑い声だけが聞こえる。


 細道の出口に差しかかった時、彼の歩みが一瞬止まった。左手の弁当の紙袋が、微かに震えているのに気付いた。疲労が、腕の筋肉を細かく痙攣させていた。彼は顎を食いしばり、震えを押さえ込むように力を込めた。


 路地を出た先には、事務所兼自宅が見える。二階の窓にはカーテンが閉まったままだった。娘はまだ登校前だ。彼は最後の十メートルを早足で切り、玄関の鍵を差し込んだ。


 鍵穴が回る音と共に、背中の緊張が少し解けた。彼は扉を開け、中へ入るとすぐに施錠した。紙袋をデスクに置き、鮭弁当の存在を忘れた。手にしたのは、書店で買った専門書だった。


 彼はページを開き、暗号理論の章に目を走らせた。白紙のメモに、ジョンから受け取ったデータの暗号パターンを書き写し始める。指先の震えは、ペンを握るとさらに顕著になった。


 この震えは、単なる肉体的疲労ではなかった。軽トラックの不自然な周回。夜間の接触から十二時間。敵の監視網が、既に日常生活の縁まで浸透している証だった。


 彼はペンを置き、息を深く吸い込んだ。デスクの上で、弁当の湯気がゆっくりと立ち上っていた。


 遺品は段ボール箱三つ分、事務所の応接デスクの上に並べられていた。桐嶋篤は箱の一つを開け、中身を注意深く取り出し始めた。午前八時三十分、昨夜からの緊張がまだ肩の筋肉に残る中、彼は被害者の私物を調べる作業に手を付けていた。遺族からの依頼は「娘が何に関わっていたのか知りたい」というものだ。彼はまず衣服や日用品を確認し、別の箱へと仕分けた。指先が雑誌の束に触れた時、異質な厚みを感じた。


 彼は雑誌を取り出し、表紙をめくった。中から『現代暗号理論の応用』と同じ装丁の専門書が現れた。さらに『軍用通信規格の変遷』『電子情報戦の基礎』。どれも一般書店ではまず扱わない。彼はそれらをデスクの一角に積み上げた。次に手にしたのは手帳だった。ページをめくると、間に挟まれたコピー用紙が一枚、滑り落ちた。


 紙がデスクの上に広がる。そこには複雑な回路図が描かれ、部品番号と接続端子が細かく記されていた。桐嶋の目が一点に釘付けになる。彼はかつて、これと同じ図面を訓練で目にした。AN/PRC-百六十七 マルチバンド トランシーバーの分解手順書だ。


 彼の呼吸が止まった。指先が紙面を撫でる。コピーの用紙は安価なものだが、図面の精度は軍の技術資料そのものだ。一般の反対運動活動家が、なぜこれを持っている。


 彼は手帳を注意深く調べ直した。後ろの方のページに、数字の羅列が走り書きされている。三桁のグループ、四桁のグループ。彼は先ほど積んだ専門書の一冊を開き、ページをめくる。基礎暗号の例示と、手帳の数字が同じパターンを形成している。


 デスクの上のコーヒーカップが冷めていた。桐嶋はカップに手を伸ばさず、代わりに右手の親指と人差し指で顎を擦った。視界の端で、積まれた専門書の背表紙が朝日に照らされていた。


 彼はゆっくりと椅子に背を預けた。木材が軋む音だけが応接スペースに響く。遺族の言葉が蘇る。「娘は普通の活動家でした」。だが、この遺品は違うことを物語っていた。単なる活動家ではない。何らかの情報工作に関わっていた。あるいは、関わらされていた。


 彼は目を閉じ、一呼吸置いた。瞼の裏に、名護で見た白色軽トラックの影が掠めた。監視と、この遺品。点と点が線で結ばれ始める。事件の背景には、抗議活動などよりも深い闇が横たわっている。彼はその闇の輪郭を、今、この紙切れの上で初めて視認した。


 桐嶋は目を開け、コピー用紙と専門書を慎重にまとめ直した。それらを、他の遺品とは別のケースに移す。次の行動は、この図面の出所を特定することだ。彼は軍時代のネットワークへ、慎重な問い合わせを始めなければならない。


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