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第02話 水辺の女

「名護まで四十分か」


 彼は呟き、アクセルを深く踏んだ。対向車線は闇のままだった。ダッシュボードの時計は午前三時十七分を示す。コーヒーショップの店主は、かつて情報将校だった男だ。約束の時間は四時半。接触は一時間以内に果たさねばならない。


 路傍の防風林が窓を掠める。影が長く伸び、消える。彼の目は頻繁にミラーを捉えた。単純な警戒行動ではない。田所の連絡以来、背筋に貼り付いた違和感が、今は明確な監視の可能性へと変質していた。


 国道五十八号線の案内標識が視界に飛び込む。彼はハンドルを切り、進路を西へ変えた。速度メーターの針は百二十キロを指す。速さが、追跡の目を撹乱する唯一の手段だった。


 名護市街の灯りが遠くに群れ始めた。桐嶋は右手を離し、チョッキのファスナーを一段下ろした。拳銃のグリップが掌に収まる感触を確認する。安全装置は外れていない。


 彼は車を路肩に寄せ、エンジンを止めた。最後の五百メートルは歩く。暗がりの中、彼は四駆の陰から身を翻し、商店街の裏路地へと消えた。名護の商店街裏、錆びたシャッターが連なる一角にコーヒーショップ「斑鳩(いかるが)」はあった。午前四時十五分、店内には店主と桐嶋篤の二人だけだ。カウンター越しに淹れたての深煎りが湯気を立てる。店主は名をジョンといい、かつての情報将校は今、この店で豆を焙る。


 ジョンはカップを滑らせると、白い布巾で手を拭った。その目が桐嶋のTシャツの汗じみを一瞥する。「夜間のジョギングは危ない。体調管理も仕事のうちだ」


 桐嶋はカップに手を伸ばさず、ナイロン袋を足元に置いた。「用件は短く」


「焦るな」ジョンは自身のカップを傾け、ゆっくりと飲み干した。彼の視線が桐嶋の顔から離れ、虚空を見つめる。「あの件より先に、聞きたいことがある。娘さんは元気か?学校はうまくやっているか」


 桐嶋の顎がわずかに引けた。呼吸のリズムが一拍乱れる。彼は右手を膝の上に置き、指を緩めようとしたが、関節が白くなる。「どういう意味だ」


「意味などない。単なる気遣いだ」ジョンは布巾をカウンターに置き、両手を広げてみせる。何も隠していないという身振り。「十四歳なら、そろそろ難しい年頃だ。父親が夜中に出歩くことを、どう思っている?」


 冷蔵庫のモーター音が店内に響く。桐嶋はジョンの目を見つめた。その瞳は尋ねているだけに見えたが、眼球の動きに微かな計算の跡を読む。これは会話ではない、情報収集の手続きだ。


「家族の話は置いてくれ」桐嶋の声は低く、平たい。「お前が渡すと言ったデータだ。あるのか」


 ジョンはため息をついた。彼は再びコーヒーポットを取り、桐嶋の冷めかけたカップに注ぎ足した。「あるとも。だがそれ以前に、お前の身の安全を確認する必要があった。敵はお前だけを狙わない。弱点を探る」


「娘には触れさせるな」桐嶋の言葉が、冷たく鋭く飛んだ。彼はようやくカップに手をかけ、指先に熱を感じた。「それが条件だ」


「了解した」ジョンはうなずき、カウンターの下に手を伸ばした。小さなUSBメモリが大理石の上に置かれる音がした。「だが警告として言っておく。彼らは既に調べ上げている。学校の名前、通学路、よく行く店さえも。お前がこのデータを受け取った瞬間、彼らの関心は一段階深刻化する」


 桐嶋はUSBメモリを見下ろした。銀色のケースが店内の灯りを淡く反射する。彼はそれを取らず、ナイロン袋から軍用端末を取り出した。起動音もなく、画面が青白く輝く。


「こちらの条件も伝えろ」桐嶋は端末をカウンターに滑らせた。画面上には、暗号化されたデータ転送用の接続ポートが表示されている。「生の媒体は受け取らない。直接転送だ。痕跡を残したくない」


 ジョンの口元がわずかに緩んだ。苦笑に近い。「相変わらずだな。信用しない男」


「信用できるものなど、もうない」桐嶋は端末のキーを叩き、転送準備を完了させた。彼の目は再びジョンに向けられる。「早くしろ。夜が明ける前に移動しなければならない」


 ジョンはうなずき、自身の端末をUSBポートに接続した。データ転送のプログレスバーが画面を横切る。百分の一、百分の二。速度は意図的に遅い。


 その間、ジョンは再び口を開いた。「美咲ちゃん、だよな。写真で見た。可愛い娘だ」


 桐嶋の拳が膝の上で固くなる。彼は返答せず、プログレスバーだけを見つめた。百分の五十。店内の空気が重く澱む。


「父親として、よくやっている」ジョンは独り言のように呟いた。「だがこれから先、もっと難しい選択を迫られる。その時、家族を守るためなら、何をする?」


 転送完了の表示が画面に浮かんだ。百分の百。桐嶋は素早く端末の接続を切り、ナイロン袋にしまった。彼はコーヒー代として千円札をカウンターに置き、席を立った。


「答えは出ている」桐嶋はドアノブに手をかけ、振り返らずに言った。「敵が娘に手を出せば、この国そのものが敵になる」


 彼はドアを開け、夜明け前の闇へと消えた。カウンターに残されたコーヒーは、まだ湯気を立て続けている。


 名護の商店街が朝の光を浴び始めた時刻、桐嶋篤は路地裏の自動車から降りた。斑鳩(いかるが)を出て三十分、彼は一度移動し、四駆を別の駐車場に置き直していた。皮膚に夜気の冷たさがまだ残る。


 彼は歩道を進み、目当ての書店へ向かった。開店間もない店内には、新聞を求める客の姿がまばらにある。桐嶋は雑誌コーナーを素通りし、奥の専門書棚へ足を向ける。行動の理由は単純だった。付近の監視網を撹乱するため、買い物客を装う必要があった。


 軍事・情報関係の棚の前で、彼は足を止めた。背筋の違和感が持続している。視界の端を意識的に捉え、反射を遮るガラス棚に自身の姿を確認する。誰も追っていない。


ここまで読んでくださりありがとうございます。

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